カジミェシュ1世

曖昧さ回避 同名のポーランドの領主貴族については「カジミェシュ」をご覧ください。
カジミェシュ1世
Kazimierz I
ポーランド公
在位 1039年 - 1058年

出生 (1016-07-25) 1016年7月25日
死去 (1058-11-28) 1058年11月28日(42歳没)
配偶者 マリア
子女 ボレスワフ2世
ヴワディスワフ1世ヘルマン
ミェシュコ
スヴァタヴァ
オットー
家名 ピャスト家
王朝 ピャスト朝
父親 ミェシュコ2世ランベルト
母親 リヘザ・ロタリンスカ
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カジミェシュ1世Kazimierz I Odnowiciel, 1016年7月25日 - 1058年11月28日[1])は、ピャスト家ポーランド公。自身が王位に就くことには失敗したが、実質的には、国全体を統治していた。マゾフシェシレジアポメラニアに分割されていた時代の後、再統合を成し遂げたことから復興公と呼ばれる。

生涯

ミェシュコ2世ランベルトと、王妃リヘザ・ロタリンスカの長子として生まれた。グニェズノの宮廷で育ったとされる。父の暗殺後、カジミェシュに王位を継がせるべく母リチェザは実権を掌握しようとして失敗。子供たちを連れてハンガリー王国へ逃亡した。ポーランド国内は反乱が起き、異教支配が復活しようとしていた。この混乱につけ込み、ボヘミア公ブジェチスラフ1世がポーランド南部へ侵攻を開始。混乱のうちに、カジミェシュはシレジアと小ポーランド地方の支配を確実にする。しかし、グニェズノに火が放たれ、この時聖プラハのアダルベルトの聖遺物が失われた。

1040年、ボヘミア公と対抗するイタリア王ハインリヒ(のちの神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世)は、亡命の身であるカジミェシュと同盟を結ぶ。彼は与えられた1000人の軍を連れて勝利を収めた。また、1041年に彼はキエフ大公ヤロスラフ1世とも同盟を結び、その証としてヤロスラフの異母妹マリアと結婚した。

子女

妃マリアとの間に以下の子供を得た。

脚注

  1. ^ Casimir I duke of Poland Encyclopædia Britannica
ウィキメディア・コモンズには、カジミェシュ1世に関連するカテゴリがあります。
ポーランド王国旗ポーランド君主(1039年 - 1058年)ポーランド立憲王国旗
伝説的な首長
半伝説的な首長
ピャスト朝
プシェミスウ朝
  • ヴァツワフ2世1296–1305
  • ヴァツワフ3世1305–1306
クヤヴィ・ピャスト朝
  • ヴワディスワフ1世ウォキェテク1306–1333
  • カジミェシュ3世ヴィエルキ1333–1370
アンジュー朝
  • ルドヴィク1世1370–1382
  • ヤドヴィガ1382–1399
ヤギェウォ朝
  • ヴワディスワフ2世ヤギェウォ1386–1434
  • ヴワディスワフ3世ヴァルネンチク1434–1444
  • カジミェシュ4世1447–1492
  • ヤン1世オルブラフト1492–1501
  • アレクサンデル1501–1506
  • ジグムント1世スタルィ1506–1548
  • ジグムント2世アウグスト1548–1572
選挙王制
初期
  • ヘンリク・ヴァレジ1573–1574
  • アンナ1575–1586
  • ステファン・バートリ1576–1586
ヴァーサ家
  • ジグムント3世1587–1632
  • ヴワディスワフ4世1632–1648
  • ヤン2世カジミェシュ1648–1666
中期
ザクセン家
レシチニスキ家
  • アウグスト2世モツヌィ1697–1706
  • スタニスワフ1世1706–1709
  • アウグスト2世モツヌィ(復位)1709–1733
  • スタニスワフ1世(復位)1733–1736
  • アウグスト3世1734–1763
ポニャトフスキ家
ワルシャワ公
  • フリデリク・アウグスト1世1807–1815
ロマノフ朝
  • アレクサンデル1世1815–1825
  • ミコワイ1世1825–1855
  • アレクサンデル2世1855–1881
  • アレクサンデル3世1881–1894
  • ミコワイ2世1894–1917
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