ブトロス・ガーリー

曖昧さ回避 この項目では、エジプトの政治家について説明しています。彼の孫であるエジプトの外交官・元国連事務総長については「ブトロス・ブトロス=ガーリ」をご覧ください。
ブトロス・ガーリー
Boutros Ghali
第9代エジプト首相
任期
1908年 – 1910年
前任者ムスタファ・ファハミ・パシャ(英語版)
後任者ムハンマド・サイード・パシャ(英語版)
個人情報
生誕1846年
エジプト ベニ・スエフ
死没1910年2月21日(65-65歳)
エジプトの旗 エジプト カイロ
宗教コプト正教会

ブトロス・ガーリーアラビア語: بطرس غالى‎、1846年 - 1910年2月21日)は、エジプトの第9代首相(在任期間 1908年 - 1910年)である。

若齢期

ブトロス・ガーリーは、1846年にエジプトのベニ・スエフの Kiman-al-'Arus 村にあるコプト正教会の家庭に生まれた[1]。父は、 Mustafa Fadil 王子の執事 Ghali Nayruz だった[1]。ブトロス・ガーリーは、アラビア語トルコ語ペルシア語英語フランス語を学んだ[1]

キャリア

卒業後、ガーリーは家長学校の先生になった[1]。ガーリーの公職としてのキャリアは、1875年にシャリフ・パシャの新たに構成された混合裁判所の事務員に任命されたことから始まった[2]。次に、彼は公的債務委員会のエジプト政府代表者となった[2]。ガーリーは1879年に法務省で働き始め、Beyの肩書で事務総長に任命された。彼の次のポストは、1881年9月に任命された閣僚会議の第一務官だった[2]。しかし、1881年10月に再び法務省で働き始めた。Mahmoud Sami al-Barudiの求めにより、ガーリーはパシャの位を授与され、エジプトでそのような名誉を授与された最初のコプト教徒となった[2]。1886年に、シャリーアの裁判官の選択のための委員会の責任者に任命されたが、彼の宗教的背景からすると異例の任命であり、イスラム教徒の抗議を招いた[2]

ガーリーは1893年に財務大臣となった[3]。その後、1894年に外相に就任した[3]。1908年11月8日、ムスタファ・ファハミ・パシャ(英語版)の後に首相に任命された[4]。首相に就任しても外相のポストを保持した[3]。ガーリーは1910年2月21日まで首相に在任し、ムハンマド・サイード・パシャ(英語版)と交代した[4]

暗殺

ガーリーはデンシャワイ事件(英語版)イギリスを支持したと非難された。1910年2月20日、ガーリーは、23歳の薬理学の卒業生[5]で、英国から戻ったばかりのイブラーヒーム・ナースィーフ・アル=ワルダニ(Ibrahim Nassif al-Wardani)によって撃たれた[6]。ガーリーは、外務省を出た時に、ワルダニに5発撃たれ、そのうち3発がガーリーの体内に留まった[7]。ガーリーは翌2月21日に死亡した[7]

ガーリーの殺害を自白したワルダニは、ローザンヌパリロンドンで教育を受け、ムスタファ・カーミル・パシャ(英語版)国民党(英語版)のメンバーだった[5]。彼の父は知事であり、彼の叔父はパシャだった。ワルダニは1910年6月28日に処刑された[7]

ガーリーの暗殺は、1915年まで続く一連の暗殺のうちの最初のものであった[5]。これは1世紀ぶりのエジプトの上級政治家の公的な暗殺でもあった[5]

家族

ガーリーには「多くの息子」がいた[8]。その中でも著名な者を以下に挙げる。

  • ユスフ・ブトロス=ガーリー
  • Wasif Butrus Ghali (1878–1958) - 立法者、外交官[8]
  • Najib Boutros Ghali - 1921年の農業大臣[8]
  • Mirrit Boutros-Ghali - 作家、ビジネスマン、弁護士[13]

ブトロス・ガーリーの弟のアミン・ガーリー(1865-1933年)は検察官だった。アミンの息子イブラヒム・アミン・ガーリーは外交官で、叔父の評判を回復させるために働いた[8]

関連項目

  • エルドン・ゴースト(英語版)

参考文献

情報源

  • Goldschmidt, Arthur (1993). “The Butrus Ghali Family”. Journal of the American Research Center in Egypt 30: 183–188. doi:10.2307/40000236. ISSN 0065-9991. JSTOR 40000236. 

引用

  1. ^ a b c d “B. Ghali”. The Coptic Encyclopedia. 2013年1月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e Seikaly, Samir (January 1977). “Prime Minister and Assassin: Buṭrus Ghālī and Wardānī”. Middle Eastern Studies 13 (1): 112–123. doi:10.1080/00263207708700338. JSTOR 4282624. 
  3. ^ a b c Arthur Goldschmidt Jr. (1999). Biographical Dictionary of Modern Egypt. Boulder, CO: L. Reinner. p. 61. https://www.questia.com/read/119397137/biographical-dictionary-of-modern-egypt 2013年9月4日閲覧。  (Paid subscription required要購読契約)
  4. ^ a b “Egypt Prime Ministers”. World Statesmen. 2013年1月19日閲覧。
  5. ^ a b c d Reid, Donald M. (1982). “Political Assassination in Egypt, 1910-1954”. The International Journal of African Historical Studies 15 (4): 625–651. doi:10.2307/217848. JSTOR 217848. 
  6. ^ The Modern Middle East and North Africa by Aroian and Mitchell
  7. ^ a b c “Egyptian assassin hanged”. The Day (Cairo). (1910年6月28日). https://news.google.com/newspapers?id=MPQgAAAAIBAJ&sjid=hXQFAAAAIBAJ&pg=5019,5784832&dq=boutros+ghali+pasha&hl=en 2013年1月19日閲覧。 
  8. ^ a b c d Goldschmidt 1993, p.187
  9. ^ Schmeman, Serge (2000年7月20日). “A Separate Peace”. The New York Times. https://www.nytimes.com/books/97/07/20/reviews/970720.20schmemt.html 2013年1月19日閲覧。 
  10. ^ Goldschmidt 1993, pp.183,188
  11. ^ “Correction”. The New York Times. (1999年9月19日). https://www.nytimes.com/1999/09/12/business/private-sector-a-familiar-name-a-familiar-path.html 2016年2月17日閲覧。 
  12. ^ Quinn, Ben (2012年1月9日). “Anger over appearance of ex-Egyptian finance minister at LSE lecture”. The Guardian (London). https://www.theguardian.com/education/2012/jan/09/egyptian-finance-minister-lse-lecture 2016年2月17日閲覧。 
  13. ^ Goldschmidt 1993, p.188
公職
先代
ムスタファ・ファハミ・パシャ(英語版)
エジプトの首相
1908–1910
次代
ムハンマド・サイード・パシャ(英語版)
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