ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ

ヴォロダリ・ロスチスラヴィチロシア語: Володарь Ростиславич、? - 1124年3月19日)は、トムタラカニ公ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの3人の息子の中の次男である(リューリクが長男[1]ヴァシリコが三男[2])。ズヴェニゴロド公:1085年 - 1092年、ペレムィシュリ公:1092年 - 1124年。

生涯

父はトムタラカニ公であったが1067年に死亡し、ヴォロダリら3兄弟はトムタラカニ(ru)から追い出された。その後はヤロポルクが公位の座にあったヴォルィーニ公国の首都・ウラジーミル・ヴォリンスキーで暮らしていたが、兄弟と共にウラジーミル・ヴォリンスキーから去り、カルパティア山脈の東の地(プリカルパティエ(ru))を占拠した[注 1]。その後、ヴォロダリはズヴェニゴロド公として承認された。1086年ヴォルィーニ公ヤロポルクがヴォロダリら3兄弟に対する遠征を行うが、ヤロポルクはズヴェニゴロドへの途上で暗殺されている。

兄リューリクの死後、ヴォロダリは兄の領土であったペレムィシュリを相続していたが、1097年リューベチ諸公会議は、ヴォロダリの公位を確固たるものにした。1099年にはキエフ大公スヴャトポルクはヴォロダリら兄弟の領土[注 2]を支配下に入れようと画策したが、ヴォロダリら兄弟はロジュノ平原の戦いで勝利した。また、その後のハンガリー王国軍の侵攻に対し、ヴォロダリはペレムィシュリを堅守した。ハンガリー王国はヴャグルの戦い(ru)で、ヴォロダリらの援軍として参戦したダヴィド・イーゴレヴィチボニャークの軍勢に破れ、撤退した。

1117年、ヴォロダリ・ヴァシリコ兄弟はウラジーミル・モノマフ、ダヴィド・イーゴレヴィチと連合し、ヴォルィーニ公ヤロスラフと戦った。連合軍はウラジーミル・ヴォリンスキーを包囲し、ヤロスラフは降服した。

1119年、ヴォロダリはハンガリー王国軍のビザンツ帝国への遠征に参加し、多大な戦利品を得て帰国した。1122年にはポーランドに遠征し、多くの土地を荒らし、多くの戦利品を獲得したが、配下のヴォエヴォダ(軍司令官)のピョートル(ru)[注 3]の裏切りによってポーランドの捕虜となった。ヴォロダリはヴァシリコの支払った200グリヴナの身代金と引き換えに解放された。

1123年ヴォロダリ兄弟はハンガリー・ポーランド・ボヘミア軍と共にヤロスラフ(上記のヤロスラフ)の側に立ち、新たにヴォルィーニ公となったアンドレイ(ウラジーミル・モノマフの子)をウラジーミル・ヴォリンスキーに包囲したが、ヤロスラフの死によって包囲を解いた。

ヴォロダリは1124年に死去し、プシェムィシルの聖イオアン大聖堂に埋葬された[注 4]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の行政区ではウクライナイヴァーノ=フランキーウシク州リヴィウ州南部にあたる。ザカルパティエ(カルパティアの向こう)と対をなす地理的概念。
  2. ^ テレボヴリ公国、ペレムィシュリ公国、ズヴェニゴロド公国。(後にガーリチ公国に統合される地域。)なおこの一連の戦争に関してはルーシ内戦 (1097年 - 1100年)を参照されたし。
  3. ^ ポーランド語ではPiotr Włostowicと表記される。
  4. ^ 「聖イオアン大聖堂」はロシア語: соборе св.Иоанна前置格)からの意訳による。ポーランド語、もしくはカトリック教会による、異なる名称がある可能性に留意されたし。

出典

  1. ^ РЮРИК РОСТИСЛАВИЧ // Советская историческая энциклопедия
  2. ^ Василько Ростиславич // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона

参考文献

  • Ипатьевская летопись
  • Л.Войтович3.4. ЯРОСЛАВИЧІ. ПЕРША ГАЛИЦЬКА ДИНАСТІЯ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ
  • Древняя Русь. Вопросы медиевистики,2006. № 3 (25). С. 56–74.