持明院基規
凡例 持明院基規 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 明応元年(1492年) |
死没 | 天文20年9月1日(1551年9月30日) |
改名 | 家親→基規 |
別名 | 号:一忍軒 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 後土御門天皇→後柏原天皇→後奈良天皇 |
氏族 | 持明院家 |
父母 | 父:持明院基春 |
子 | 基孝 |
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持明院 基規(じみょういん もとのり)は、戦国時代の公卿。参議・持明院基春の子[1]。官位は正三位・権中納言。持明院家15代当主。
経歴
明応4年(1495年)には従五位下に任じられ、大蔵卿・参議・右衛門督を経て権中納言となる[1]。
最終的に正三位に任じられた[1]。この間に美濃国や周防国にしばしば下向した。従来、天文20年(1551年)の周防滞在中、陶隆房が主君・大内義隆を討った謀反(大寧寺の変)に巻き込まれ、殺害された[1]とされていたが、萩原大輔は『言継卿記』などの記述から、大寧寺の変で殺害されたのは義隆の装束の師であった従四位下・冷泉範遠あるいは冷泉隆豊の一族のことであると明らかにした[2]。
系譜
- 父:持明院基春
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:持明院基孝
脚注
- ^ a b c d 『戦国人名事典 コンパクト版』402ページ
- ^ 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
参考文献
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