石丸俊彦

石丸 俊彦(いしまる としひこ、1924年6月28日 - 2007年4月1日[1])は、日本裁判官法学者。専門は刑事法。元東京高等裁判所総括判事。元早稲田大学法学部客員教授

来歴

16歳で陸軍予科士官学校に入学する[2]

1944年、陸軍士官学校を卒業し、歩兵部隊の少尉に任ぜられ、ビルマの戦地に送られる[2]。敗北で撤退の後、帰国して本土決戦要員に任じられた状態で日本の敗戦を迎えた[2]。当時の上官は敗戦が決まった後、「諸君らは生きて、この国を立て直して欲しい」と言い残して割腹自決したという[2]

1951年、早稲田大学法学部(旧制)を卒業、同年司法修習生となる。1953年に判事補に任官した。

以降、裁判官として福岡地方裁判所東京地方裁判所、最高裁判所調査官、司法研修所教官、裁判所書記官研修所長、佐賀地方裁判所所長等を歴任した。1985年、東京高等裁判所第5刑事部総括判事となり、母校の早稲田大学客員教授(刑事法)を務める。

2007年4月1日、慢性心不全により死去[3]。82歳没。

人物

連合赤軍事件公判で、吉野雅邦の1審(東京地方裁判所)裁判長を務める。1979年の判決では死刑の求刑を退けて無期懲役とし、吉野に対して「裁判所は被告人を法の名において生命を奪うようなことはしない。被告人自らその生命を絶つことも、神の支えた生命であるから許さない。被告人は生き続けて、その全存在をかけて罪をつぐなってほしい。君のXさん[注釈 1]への愛は真実のものであったと思う。そのことを見つめ続け、彼女と子どもの冥福を祈り続けるように」と訓戒した[4][注釈 2]。石丸は1992年から獄中の吉野に励ます内容の手紙を送りはじめ、死去まで文通を続けた[2]。石丸は、吉野が将来釈放されたときに贈る前提で愛用の腕時計と聖書を残し、聖書の見開きには「ヨハネの手紙」から抜粋した「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」という書き込みを吉野宛に記した(1997年10月5日の日付がある)[3]。こうした石丸の行動の背景には、尊皇主義の軍人だった自身と、革命運動に身を投じて犯罪を犯した吉野に共通点を見たことがあったとされる[2]

著作

  • 『刑事訴訟法』成文堂
  • 『刑事訴訟の実務』上下(共著)新日本法規

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 原文では吉野の妻の実名。
  2. ^ 「神の支えた生命」は「神の与えた生命」の誤植の可能性もあるが、ここでは出典書籍の表示に従う。吉野は連合赤軍及びその前身組織でおこなった犯罪を問われる一方、妊娠していた内縁の妻を山岳ベース事件のリンチにより失っていた。

出典

  1. ^ 石丸俊彦氏死去 元東京高裁部総括判事[リンク切れ]
  2. ^ a b c d e f “あさま山荘事件 “獄中”50年 無期懲役囚を揺さぶった裁判長の言葉”. 日本放送協会クローズアップ現代. (2022年2月24日). https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pVB8n9G9Eg/?cid=gendaihk-hp-220224 2022年3月7日閲覧。 
  3. ^ a b 大久保真紀 (2022年2月9日). “「あさま山荘事件」裁判長から受刑者への遺言 いつかこの腕時計を…”. 朝日新聞. https://digital.asahi.com/articles/ASQ286RF0Q28UTIL02M.html 2022年2月9日閲覧。 
  4. ^ 大泉康雄『「あさま山荘」籠城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート』祥伝社<祥伝社文庫>、2002年、p.234
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • ISNI
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • アメリカ
  • 日本
  • 韓国
  • 表示
  • 編集
スタブアイコン

この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。

  • 表示
  • 編集