藤堂高潔

 
凡例
藤堂高潔
藤堂高潔
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保8年9月20日(1837年10月19日
死没 明治22年(1889年11月18日
改名 録千代・大助(幼名)→高潔
墓所 豊島区染井霊園
官位 左近衛権少将従三位大学頭
主君 徳川慶喜明治天皇
伊勢国津藩知事
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高猷
母:橋本氏
兄弟 高潔黒田長知脇坂安斐松平定昭
量子蜂須賀斉昌養女、蜂須賀昭順娘)
高紹、銑子(子爵高倉永則夫人)、鋀子(常磐井尭猷室、子爵牧野忠篤室)
テンプレートを表示

藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主(知藩事)。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘の量子

生涯

天保8年(1837年)9月20日に生まれる。嘉永元年12月16日(1849年)、従四位下・侍従・大学頭に叙任する。文久3年(1863年)、父に代わって上京して孝明天皇に拝謁し、御所の警備を務めた。元治元年(1864年)4月18日、左近衛権少将となる。

慶応3年(1867年)12月、朝廷の命令に従い、上洛するものの、ほどなく帰藩する。明治元年(1868年)3月2日、上洛する。同年10月、版籍奉還後の藩政改革を主導し、明治天皇伊勢神宮参拝においても守備などで尽力した。明治3年(1870年)10月、藩士を解散したことで監物騒動が発生する。

明治4年(1871年)6月28日、病を理由に父が隠退したため、その跡を継いで知藩事となる。しかし同年7月の廃藩置県で免官となった。明治22年(1889年)11月18日、父に先立って53歳で死去した。

賢明温厚で書画の才にも優れていたと言われている。絵は、渡辺崋山に師事し、花卉図を得意としたという。またの腕前も免許皆伝の腕前で、自邸や実弟、黒田長知の赤坂の黒田邸に出入りし、喜多六平太にも稽古を付けた程であった。

栄典

家族

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  2. ^ 『官報』第1920号「叙任及辞令」1889年11月20日。
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
藤堂家初代
1884年 - 1889年
次代
藤堂高紹
藤堂蔦紋藤堂氏20代当主(1871年 - 1889年)
宗家

景盛 - 景冨 - 景持 - 景兼 - 景高 - 高信 - 忠高 - 虎高 - 高虎 - 高次 - 高久 - 高睦 - 高敏 - 高治 - 高朗 - 高悠 - 高嶷 - 高兌 - 高猷 - 高潔 - 高紹 - 高廷 - 高正 -

分家・支流

久居家

高通 - 高堅 - 高陳 - 高治 - 高豊 - 高雅 - 高敦 - 高朶 - 高興 - 高衡 - 高矗 - 高兌 - 高邁 - 高秭 - 高聴 - 高邦 - 高義 - 高寛 - 正彦 - 高彦 -

名張家

高吉 - 長正 - 長守 - 長源 - 長熙 - 長美 - 長旧 - 長教 - 長徳 - 高美 - 高節 - 高成 - 高伸 -

出雲家

高清 - 高英 - 高明 - 高武 - 高朗 - 高文 - 高周 - 高茂 - 高芬 - 高克 -

藤堂家津藩12代藩主 (知藩事、1871年)
富田家
藤堂家