ウムダトゥル・ウマラー
ウムダトゥル・ウマラー Umdat-ul Umara | |
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カルナータカ太守 | |
ウムダトゥル・ウマラー | |
在位 | 1795年 - 1801年 |
戴冠式 | 1795年10月16日 |
別号 | ナワーブ |
全名 | グラーム・フサイン・アリー・ハーン |
出生 | 1748年1月18日 |
死去 | 1801年7月15日 マドラス |
埋葬 | ティルチラーパッリ |
王朝 | アンワーリーヤ朝 |
父親 | ムハンマド・アリー・ハーン |
宗教 | イスラーム教 |
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ウムダトゥル・ウマラー(Umdat-ul Umara, 1748年1月18日 - 1801年7月15日)は、南インドのカルナータカ太守(在位:1795年 - 1801年)。本名はグラーム・フサイン・アリー・ハーン(Ghulam Husain Ali Khan)という。
生涯
1759年から1760年まではナッタルナガルの副太守であり、1760年以降はアルコットの副太守であった[1]。
1765年8月12日、イギリスの官吏ロバート・クライヴを通して、ムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世から「ウムダトゥル・ウマラー」の称号を賜り、これ以降はこの称号で呼ばれることとなった[1]。
1795年10月13日、父であるカルナータカ太守ムハンマド・アリー・ハーンは死亡し、息子であるウムダトゥル・ウマラーが太守位を継いだ[1]。
1799年5月、イギリスは第四次マイソール戦争でマイソール王ティプー・スルターンを破ったが、ウムダトゥル・ウマラーは戦争中密かにマイソール側へ物資を供給したのではないか、とイギリスの官吏らにその関与を疑われるようになった。
ウムダトゥル・ウマラーはこの内通疑惑を否定し続けたが、1801年7月15日に突如として急死した[1]。イギリスに暗殺されたともいわれている。
出典・脚注
- ^ a b c d Arcot 12
関連項目
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ムガル帝国 | ズルフィカール・ハーン1692-1703 / ダーウード・ハーン・パンニー1703-1710 / サアーダトゥッラー・ハーン1710-1713 |
ナワーヤト朝 | サアーダトゥッラー・ハーン1713-1732 / ドースト・アリー・ハーン1732-1740 / サフダル・アリー・ハーン1740-1742 / サアーダトゥッラー・ハーン2世1742-1744 / チャンダー・サーヒブ1749-1752 |
アンワーリーヤ朝 | アンワールッディーン・ハーン1744-1749 / ムハンマド・アリー・ハーン1749-1795 / ウムダトゥル・ウマラー1795-1801 / アズィーム・ウッダウラ1801-1819 / アーザム・ジャー1819-1825 / グラーム・ムハンマド・ガウス・ハーン1825-1855 |
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