カルトリ王国

曖昧さ回避 紀元前302年頃から580年頃までの古代カルトリ王国については「イベリア王国」をご覧ください。
カルトリ王国
ქართლის სამეფო (ジョージア語)
グルジア王国 1466年 - 1762年 カルトリ・カヘティ王国
グルジアの国旗 グルジアの国章
国旗国章
グルジアの位置
1490年のグルジアの地図
公用語 グルジア語
宗教 グルジア正教会
首都 トビリシ
国王
1466年 - 1478年 バグラト6世(英語版)
1578年 - 1599年シモン1世
1716年 - 1724年ヴァフタング6世
1724年 - 1727年イェッセ
1744年 - 1762年テイムラズ2世(英語版)
変遷
建国 1462年
サファヴィー朝の封土1555年-1578年、1612年-1723年、1736年-1747年
オスマン帝国の封土1578年-1612年、1723年-1736年
カヘティ王国(英語版)と統一1762年
現在ジョージア (国)の旗 ジョージア
アルメニアの旗 アルメニア
ロシアの旗 ロシア
グルジアの歴史
საქართველოს ისტორია
コルキス紀元前13世紀
イベリア王国紀元前302年 - 580年
イベリア王国のキリスト教化319年
イベリア戦争526年 - 532年
グルジア王国1008年 - 1490年
ジョージア黄金時代11世紀 - 12世紀
モンゴルのグルジア侵攻13世紀
カルトリ王国1490年 - 1762年
カルトリ・カヘティ王国1762年 - 1801年
ロシア帝国下のグルジア1801年 - 1918年
グルジア民主共和国1918年 - 1921年
グルジア・ソビエト共和国1921年 - 1991年
バラ革命2003年
ロシア・グルジア戦争2008年

カルトリ王国グルジア語: ქართლის სამეფოカルトリス・サメポ )は、1466年から1762年までグルジア中部に存在したトビリシを首都とする王国である。存在した期間の大半はサファヴィー朝封臣だったが、末期の1747年にその支配を脱した[1]

歴史

テイムラズ2世(英語版)、1732年から1744年までカヘティ王、1744年から1762年までカルトリ王

長い経済的、政治的な衰退を経て、グルジア王国は15世紀には西に攻撃的な隣国オスマン帝国を抱え、さらに16世紀には東のサファヴィー朝が追加された。両国の影響で王国は存在した300年間、長年戦争状態にあるか、ペルシアに統治されている状態にある。

グルジアは社会の不安、封臣たちの分離主義、そして内戦に悩まされた。1463年、王族バグラト6世(英語版)イメルティ王(英語版)を称して反乱、チホリの戦い(英語版)で迎撃したグルジア王ギオルギ8世が大敗したことでグルジア王国は解体しはじめた。1465年、ギオルギ8世は捕らえられて廃位され、バグラト6世は権力の空白に乗じてカルトリ王を名乗り、1466年にカルトリを制圧した。バグラト6世の権力が大きすぎることを嫌った貴族たちはギオルギ8世を解放したが、彼は王位を取り戻せずカヘティ王(英語版)しか名乗れなかったことで王国の分裂はさらに進行した[1]

バグラト6世はそのままカルトリを統治したが、1478年に王族のコンスタンティネ2世に反乱をおこされ廃位された[2]:187, 215。コンスタンティネ2世も貴族反乱に悩まされ、1483年にアラデティの戦いで貴族に敗北したことでバグラト6世の子アレクサンドレ2世(英語版)イメルティ王(英語版)を名乗った。コンスタンティネ2世は1489年にイメレティ王国に侵攻しようとしたが失敗し、1490年にグルジア王国の分裂を追認せざるをえなかった。この時点でグルジアにはイメレティ王国(英語版)カヘティ王国(英語版)、カルトリ王国と3つの王国が並立した[2]:219

この3王国間の平和は長続きしなかった。カヘティ王ギオルギ2世(英語版)が1511年に即位するとすぐにカルトリに遠征した。彼はカルトリ王ダヴィド10世(英語版)を追放してカルトリを併合しようとしたが、ダヴィド10世の弟バグラト1世(英語版)に防がれ、逆に捕虜にされて獄死した。ダヴィド10世は機に乗じてカヘティ全土に侵攻、占領した[3][4]。カヘティ王国は1520年、ギオルギ2世の子レヴァン(英語版)(レヴァニ)を支持した貴族たちにより王に推されたことで復活した[5]。カルトリ王国の西もイメレティ王アレクサンドレ2世(英語版)の攻撃に悩まされたが、イメレティがオスマン帝国の略奪を受けたことで彼は引き返し、まもなく死去した。

16世紀中期から1747年まで、カルトリ王国はペルシア統治をうけ、毎年軍馬や酒などの貢物を献上した[6]。しかし、1747年にアフシャール朝ナーディル・シャーが暗殺されると、精力的な王エレクレ2世(英語版)がペルシア人を撃退し、父のカルトリ王テイムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国を建てた。その後、王国は1783年のギオルギエフスク条約(英語版)ロシア帝国保護国となったが、1795年にガージャール朝の創始者アーガー・モハンマド・シャーの侵攻を受けたときはロシアが条約を無視して援助せず、グルジアは敗北。ロシアはそのまま衰退したグルジアを1802年に併合し、1813年のゴレスターン条約でガージャール朝にも認めさせた[7]

脚注

  1. ^ a b Khazanov, Anatoly M. (1996-01-01). Department of Anthropology, University of Michigan. ed. Post-Soviet Eurasia: Anthropological Perspectives on a World in Transition. ISBN 9781889480008. https://books.google.com/books?id=UCYYAQAAMAAJ 
  2. ^ a b Toumanoff, Cyril (1949–1951). “The fifteenth-century Bagratids and the institution of collegial sovereignty in Georgia”. Traditio 7: 169–221. JSTOR 27830207. 
  3. ^ Guchua, V.; Oniani, Sh. (1977). "ბაგრატ მუხრანბატონი" [Bagrat Mukhranbatoni]. ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია Georgian Soviet Encyclopedia (Georgian). Vol. 2. Tbilisi. p. 132.
  4. ^ Rayfield, Donald (2012). Edge of Empires: A History of Georgia. London: Reaktion Books. p. 165. ISBN 1780230303 
  5. ^ Georgian Soviet Encyclopedia, Vol. 10, pg. 466–469, Tb., 1986
  6. ^ Berdzenishvili, ed., 1973, pp. 252–254
  7. ^ Timothy C. Dowling Russia at War: From the Mongol Conquest to Afghanistan, Chechnya, and Beyond p 728 ABC-CLIO, 2 dec. 2014 ISBN 1598849484

関連項目