ザーヒル・ジャクマク

ザーヒル・ジャクマク
الظاهر سيف الدين جقمق
ブルジー・マムルーク朝第10代・第12代スルターン
ジャクマクの名が記された碑文(ルーヴル美術館蔵)
在位 1438年 - 1448年
1448年 - 1453年

出生 1378年
死去 1453年
子女 マンスール・ウスマーン
王朝 ブルジー・マムルーク朝
テンプレートを表示

ザーヒル・ジャクマクアラビア語:الظاهر سيف الدين جقمق 転写:az-Ẓāhir Saif ad-Dīn Jaqmaq1378年 - 1453年)は、エジプトを支配したブルジー・マムルーク朝の第10代・第12代スルタン(在位:1438年 - 1448年、1448年 - 1453年)。

生涯

ブルジー・マムルーク朝の初代スルタンであったザーヒル・バルクークに仕えたマムルークで、バルクークの死後も歴代スルタンに仕えた。1438年アシュラフ・バルスバーイが死去すると、バルスバーイの息子であるアズィーズ・ユースフを抑えて、自らスルタンとして即位した。

マムルーク朝はバルスバーイの治世で再度の全盛期を迎えていたが、その治世における統制が厳しすぎたこともあって、バルスバーイの死後に地方で反乱が起こった。ジャクマクはこれらの反乱を鎮圧すると、地方や配下のマムルークらに大幅に特権を授与したり、官職売買を行なうなどしたことから賄賂が横行して統制が弛緩した。一方でバルスバーイ時代に敵対したティムール朝と和睦し、ロドス島占領を目指して遠征を行なうなどしたが失敗。晩年にはギザで黒人奴隷が反乱を起こし、1448年には先代の息子・アズィーズ・ユースフに一時的に廃されるなどして王朝が混乱する中、1453年に負の遺産を遺して死去した。76歳であった。

後継者には息子のマンスール・ウスマーンを指名していたが、配下のマムルークが反発してアシュラフ・イーナールを擁立し、世襲はならなかった。

関連文献

バフリー・マムルーク朝

シャジャル・アッ=ドゥッル1250 / アイバク1250-1257 / アリー1257-1259 / クトゥズ1259-1260 / ザーヒル・バイバルス1260-1277 / バラカ1277-1279 / サラーミシュ1279 / カラーウーン1279-1290 / ハリール1290-1293 / ナースィル・ムハンマド1293-1294 / キトブガー1294-1296 / ラージーン1296-1299 / ナースィル・ムハンマド(復位)1299-1309 / ムザッファル・バイバルス1309-1310 / ナースィル・ムハンマド(復位)1310-1341 / アブー=バクル1341 / クジュク1341-1342 / ナースィル・アフマド1342 / イスマーイール1342-1345 / カーミル・シャーバーン1345-1346 / ムザッファル・ハーッジー1346-1347 / ハサン1347-1351 / サーリフ1351-1354 / ハサン(復位)1354-1361 / マンスール・ムハンマド1361-1363 / アシュラフ・シャーバーン1363-1377 / アリー1377-1381 / サーリフ・ハーッジー1381-1382 / バルクーク1382-1389 / サーリフ・ハーッジー(復位)1389-1390

ブルジー・マムルーク朝

バルクーク1390-1399 / ファラジュ1399-1405 / アブドゥルアズィーズ1405 / ファラジュ(復位)1405-1412 / シャイフ1412-1421 / ムザッファル・アフマド1421 / タタール1421 / サーリフ・ムハンマド1421-1422 / バルスバーイ1422-1438 / ジャクマク1438-1448 / ユースフ1448 / ジャクマク(復位)1448-1453 / ウスマーン1453 / イーナール1453-1460 / ムアイヤド・アフマド1460-1461 / フシュカダム1461-1467 / ヤルバーイ1467-1468 / ティムルブガー1468 / カーイトバーイ1468-1495 / ナースィル・ムハンマド1495-1498 / カーンスーフ1498-1499 / ジャーンバラート1499-1501 / アーディル・トゥーマーンバーイ1501 / ガウリー1501-1516 / アシュラフ・トゥーマーンバーイ1516-1517

カテゴリ カテゴリ
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • VIAF
    • 2
国立図書館
  • ドイツ
  • イスラエル
  • アメリカ
その他
  • İslâm Ansiklopedisi