ジャン=ランベール・タリアン

ジャン=ランベール・タリアン

ジャン=ランベール・タリアンJean-Lambert Tallien, 1762年1月23日 - 1820年11月16日)は、フランスの革命指導者、政治家。恋人を救うためにテルミドール9日のクーデターで活躍したことで知られている。

生涯

1762年、旅館の息子としてパリに生まれ、教育を受けて弁護士書記となった。 熱心な革命支持者で、初期からジャコバン派の一員となり、1791年に自身でも会報「市民の友」を発刊して有名になった。1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃に参加し、パリ・コミューンの書記に就任。九月虐殺に関与するも、国民公会議員に選出された。 国民公会では山岳派に属して国王の処刑に賛成。ジロンド派への激しい攻撃を行なう。

1793年9月にボルドーに派遣され、反革命派に対する粛清を行なった。この時、元侯爵夫人テレーズ・カバリュスと出会い愛人関係になる。 彼女に影響されて弾圧の手を緩め、ロベスピエールから睨まれる。テレーズは投獄され、彼女と獄中から手紙のやりとりをしていたタリアンは、保身と彼女の命を救うために、ポール・バラスたちに誘われていたテルミドールのクーデタへの参加を決意する。打ち合わせ通りに議会の壇上に上がると、短刀をふりかざしながら「暴君を打倒せよ」とロベスピエールを告発する演説を敢行した。その先頭に立っての活躍で、ロベスピエール失脚に決定的な役割を果たした。

クーデターを終えると、早速テレーズと1794年12月に結婚して、周囲の祝福をうけた。ブルジョワの子弟で作られた金ぴか青年隊(ジュネス・ドレ)を扇動してジャコバン・クラブを襲撃させ、これを閉鎖。 革命裁判所の廃止、地方に派遣され、反乱を起こそうとした王党派の大量処刑などを行う。しかし彼は穏健派からも急進派からも人気がなくなり、1年たらずで権力を喪失していった。総裁政府期は五百人会議員。

事態を打開するために、ナポレオン・ボナパルトエジプト遠征に調査団の経済学担当で参加し、帰還の際にイギリス軍に捕らわれ、ロンドンに連行される。テレーズは、結婚してからも自由奔放に振る舞い、タリアンに愛想を尽かすとバラスの愛人となっていた。1802年にタリアンがようやく帰国すると離婚した。その後は1806年になってようやく公職にありついたこともあったが、熱病で片目を失明して、失意の内にパリで余生を送る。1814年の王政復古の後、ルイ16世の裁判において死刑に投票した罪を問われ、王殺しとして国外追放を命じられるが、持病の悪化を理由に赦免を願い出て認められ、1820年、貧窮のうちに寂しく世を去った。

関連作品

  • 『皇帝ナポレオン』(小説) 藤本ひとみ(著)
  • 『愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命』LES JUPONS DE LA REVOLUTION (長編TVムービー) 1989年 フランス 監督:マローン・バクティ 出演:リシャール・ボーランジェ、スティーヴ・フリース、オリヴィア・ブルー、エマニュエル・ベアール
  • ナポレオン -獅子の時代-』(漫画) 長谷川哲也(著)
    • この作品ではロベスピエール告発演説とタリアン夫人に愛想をつかされるところまでは史実に沿っているが、橋の上で酔っ払っていたところを、テルミドールの反動から逃げ延びたサン=ジュストによって暗殺される。
  • 欲望の聖女 令嬢テレジア』(漫画) 森園みるく(著)
    • この作品では、フランス革命直前の頃に登場。パリ市街で、テレジアとすれ違うシーンがある。紆余曲折を経て、テレジアと結ばれる。最終回では、テルミドールのクーデターで監獄から解放されたテレジアと手をつないで、パリ市民の前に颯爽と現れる場面がある。
 
主要事件
1788年
  • 屋根瓦の日(1788年6月7日)
  • ヴィジーユ会議(英語版)(1788年7月21日)
1789年
1790年
  • 高等法院の廃止(1790年2月-7月)
  • 貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)
  • 聖職者民事基本法(1790年7月12日)
1791年
1792年
1793年
1794年
1795年
1797年
1799年
 
1792年
1793年
  • 第一次対仏大同盟
  • トゥーロン攻囲戦(1793年9月18日-12月8日)
  • ヴァンデの反乱
  • ネールウィンデンの戦い
  • ファマールの戦い(1793年5月23日)
  • サルデーニャ遠征(1793年5月25日)
  • カイザースラウテルンの戦い (en
  • マインツ包囲戦
  • ワッティニーの戦い (en
  • オンショオットの戦い (en
  • ベルガルド包囲戦
  • ペレストルトの戦い (en
  • 第一次ヴィサンブールの戦い (en(1793年10月13日)
  • トルイヤの戦い (en
  • 第二次ヴィサンブールの戦い (en(1793年12月26日-27日)
1794年
  • ヴィレ=アン=コシの戦い (en(1794年4月24日)
  • ブルの戦い (en(1794年4月30日-5月1日)
  • トゥルネーの戦い (en(1794年5月22日)
  • フルーリュスの戦い (en(1794年6月26日)
  • ふくろう党の反乱 (en
  • トゥールコワンの戦い (en(1794年5月18日)
  • アルデンホーフェンの戦い (en(1794年10月2日)
1795年
1796年
  • ロナートの戦い (en(1796年8月3日-4日)
  • カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)
  • タイニンゲンの戦い (en
  • ネレスハイムの戦い (en(1796年8月11日)
  • アンベルクの戦い (en(1796年8月24日)
  • ヴュルツブルクの戦い (en(1796年9月3日)
  • ロヴェレートの戦い (en(1796年9月4日)
  • 第一次バッサーノの戦い (en(1796年9月8日)
  • エメンディンゲンの戦い (en(1796年10月19日)
  • シュリーンゲンの戦い (en(1796年10月26日)
  • 第二次バッサーノの戦い (en(1796年11月6日)
  • カッリアーノの戦い (en(1796年11月6日-7日)
  • アルコレの戦い(1796年11月15日-17日)
  • アイルランド遠征(1796年12月)
1797年
1798年
  • エジプト遠征(1798年-1801年)
  • マニラ奇襲(1798年1月)
  • 1798年アイルランド反乱 (en(1798年5月23日-9月23日)
  • 擬似戦争(1798年-1800年)
  • 農民戦争 (en(1798年10月12日-12月5日)
1799年
  • 第二次対仏大同盟(1798年-1802年)
  • アッコ包囲戦(1799年3月20日-5月21日)
  • オストラッハの戦い (en(1799年3月20日-21日)
  • シュトックアッハの戦い (en(1799年3月25日)
  • マニャーノの戦い (en(1799年4月5日)
  • カッサーノの戦い (en(1799年4月27日)
  • 第一次チューリッヒの戦い (en(1799年6月4日-7日)
  • トレッビアの戦い (en(1799年6月19日)
  • ノーヴィの戦い (en(1799年8月15日)
  • 第二次チューリッヒの戦い (en(1799年9月25日-26日)
1800年
1801年
  • リュネヴィルの和約(1801年2月9日)
  • フィレンツェ条約 (en(1801年3月18日)
  • アルヘシラス湾の戦い (en(1801年7月8日)
1802年
 
軍事指揮官
フランスの旗 フランス陸軍
フランスの旗 フランス海軍
  • シャルル=アレクサンドル・リノワ (en
対仏大同盟軍
オーストリア帝国の旗 オーストリア
グレートブリテン王国の旗 イギリス
ネーデルラント連邦共和国の旗 オランダ
  • ウィレム5世
プロイセン王国 プロイセン
  • ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公
  • ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯
ロシア帝国の旗 ロシア
スペイン スペイン
  • ルイス・フィルミン・デ・カルバハル
  • アントニオ・リカルドス (en
 
主要人物・党派
王族王党派
フイヤン派
ジロンド派
山岳派
エベール派 (en
過激派
ボナパルト派
その他
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