ハインリヒ・ヴァーグナー

ハインリヒ・ヴァーグナー
Heinrich Wagner
生誕 (1899-04-23) 1899年4月23日
ドイツの旗 ドイツ帝国
オルデンブルク大公国の旗 オルデンブルク大公国 ザールブリュッケン
死没 (1953-01-15) 1953年1月15日(53歳没)
西ドイツの旗 西ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト
国籍 オルデンブルク大公国の旗 オルデンブルク大公国(ドイツの旗 ドイツ帝国) → ドイツの旗 ドイツ国ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 連合国軍占領下のドイツ → 西ドイツの旗 西ドイツ
職業 オペル 取締役会会長(1939年 - 1941年)、ダイムラー・ベンツ 取締役会会長(1952年 - 1953年)
前任者 サイラス・オズボーン(英語版)(アダム・オペル取締役会会長)、ヴィルヘルム・ハスペル(ダイムラー・ベンツ取締役会会長)
後任者 カール・リューア(ドイツ語版)(アダム・オペル取締役会会長)、フリッツ・ケーネッケ(ダイムラー・ベンツ取締役会会長)
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ハインリヒ・ヴァーグナー(Heinrich Wagner、1899年4月23日 - 1953年1月15日)は、ドイツ実業家である。オペル(アダム・オペル社)とダイムラー・ベンツ取締役会会長(ドイツ語版)を務めた。

経歴

オペル

1922年10月1日、リュッセルスハイムのアダム・オペル社(オペル)で自動車業界におけるキャリアを始めた。ヴァーグナーは同社で各部門の運用マネージャーや工場長を歴任し、1938年に同社の取締役となった。

1939年9月にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まり、オペルもドイツの戦時体制に組み込まれることとなった[1]。そのため、同社を傘下に置く米国のゼネラルモーターズ(GM)は前任のアメリカ人経営者を帰国させ、ヴァーグナーはその跡を引き継いでオペルの取締役会会長となった[注釈 1]

ヴァーグナーは1940年4月に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党員となったが、翌1941年4月に、オペルが所在するヘッセン人民州のナチ党大管区指導者であるヤーコプ・シュプレンガー(英語版)によって会長職からの辞任を強いられ、その地位をナチ党の戦争経済指導者(英語版)の一人であるカール・リューア(ドイツ語版)に譲った。1942年11月にオペルはドイツ政府の敵資産管理委員会(Reichskommissar für die Behandlung feindlichen Vermögens)の管理下に置かれ、リューアはその管財人となったため、同社の経営は再びヴァーグナーに委ねられた[5]

戦争の終結後、連合軍軍政期の1945年10月に非ナチ化プロセスのため、ヴァーグナーはオペルを去ることとなる。この過程で、連合国が設けた仲裁室(ドイツ語版)の審査により、ヴァーグナーはナチ党の同調者(英語版)に区分され、補償金として2,000ライヒスマルクの支払いを課された。

ダイムラー・ベンツ

1948年、ヴァーグナーはダイムラー・ベンツの取締役会会長であるヴィルヘルム・ハスペルによって同社の取締役に起用され、同社のマンハイムガッゲナウ(英語版)の工場の管理を任された[W 1]。この人事は、GM傘下のオペル出身のヴァーグナーがアメリカ式の最先端の大量生産技術に通じていたことを見込まれての配置である[6]。加えて、ダイムラー・ベンツのマンハイム工場は戦時中はオペル・ブリッツ3トントラックをライセンス生産しており、同工場もまたオペルを通じてアメリカ式の生産技術のノウハウの蓄積があり、その管理者としてヴァーグナーは適任だった[6]。製造部門の知見が豊富なヴァーグナーは、ダイムラー・ベンツにおいて同工場における商用車(トラック)の量産体制を整えた[W 1]

1952年1月にハスペルが急死したことでヴァーグナーは取締役会の会長職を引き継いだが、ヴァーグナー自身も翌年1月に死去し、1年に満たない短期の在任となった[W 1]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ ヴァーグナーは(少なくとも名目上は)オペルの経営者となったが、GMがオペルの経営から手を引いたのが1939年9月なのか、それとも米国が第二次世界大戦に参戦を始めた1941年12月なのか、史料の記述や関係者の証言が様々で、判然としないと言われている[1]。GMの1939年の年次報告書では、1939年9月にその経営は「ドイツ人経営者」に転じたと記載しているが[2]、1940年に入ってもGMの重役がドイツ入りしてオペルの経営を行っていた(ドイツの軍需製品の製造に加担していた[3])ことやオペルの代表者としてアドルフ・ヒトラーと交渉を持っていたことも記録によって裏付けられているとも言われている[4]

出典

書籍
  1. ^ a b ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.222
  2. ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.223
  3. ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.235
  4. ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.228
  5. ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.244
  6. ^ a b ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.270
ウェブサイト
  1. ^ a b c “Heinrich Wagner. CEO 1942-1952” (英語). Mercedes-Benz Group Media. 2022年1月30日閲覧。

参考資料

書籍
  • 西牟田祐二、1999-10-30、『ナチズムとドイツ自動車工業』、有斐閣〈京都大学経済学叢書〉 ISBN 4-641-16074-0 NCID BA44163403 ASIN 4641160740

外部リンク

  • Heinrich Wagner. CEO 1952-1953 - Mercedes-Benz Group Media (英語)
メルセデス・ベンツ・グループ歴代取締役会会長
ダイムラー・ベンツ
1926年 – 1998年
ダイムラークライスラー
1998年 - 2007年
ダイムラー
2007年 - 2022年
メルセデス・ベンツ・グループ
2022年 -
 
注釈
  1. ^ 1930年から1936年9月までは取締役会議長。ドイツの新しい会社法の施行に伴い、1937年10月1日に取締役会会長(ドイツ語版)に就任。
  2. ^ 1945年から1947年にかけてオットー・ホッペが一時的に職務を代行。
  3. ^ ヒッチンガー退任後の会長職空位期間(約5年間)は取締役会議長のザーンが職務を代行。
  4. ^ 1998年から2000年にかけてロバート・イートン(英語版)(クライスラー)との共同CEO体制。
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