九条師教

 
凡例
九条師教
九条師教像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)
時代 鎌倉時代後期
生誕 文永10年5月27日(1273年6月13日
死没 元応2年6月7日(1320年7月13日
別名 己心院、浄土寺
官位 従一位摂政左大臣
主君 後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 九条家
父母 父:九条忠教、母:西園寺公相の娘
兄弟 師教房実、基教、尊覚、教寛、覚恵、禖子
正室:亀山天皇の第五皇女
守良親王の娘
道教、覚尊、孝覚
養子:房実
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九条 師教(くじょう もろのり)は、鎌倉時代後期の公卿歌人関白九条忠教の一男。官位従一位摂政左大臣九条家7代当主。号に己心院浄土寺摂政

経歴

弘安4年(1281年)1月従五位上に初叙、禁色を聴された。次いで侍従左近衛権中将などを経て、同8年(1285年)3月従三位に叙され公卿に列席。正応元年(1288年)9月権中納言、同3年(1290年)1月左衛門督、6月権大納言を歴任し、同5年(1292年)12月橘氏是定宣下を受けた。同6年(1293年)1月には上首5人を超越して内大臣に就任。さらに永仁4年(1296年)12月右大臣に転じ、同5年(1297年)12月左近衛大将を兼ねるも、翌年4月大将を辞任した。

正安元年(1299年)4月左大臣、同2年(1300年)1月従一位に叙任され、同3年(1301年)8月富仁親王(後の花園天皇)が立太子すると、その東宮傅に補任。嘉元3年(1305年)4月後二条天皇より関白宣下を受け、藤氏長者となり、徳治2年(1307年)2月太政大臣の上に列せられた。延慶元年(1308年)8月花園天皇の践祚に際して、摂政に補されたが、同年11月辞任した。元応2年(1320年)6月7日に薨去、享年48[注釈 1]。実弟で養子の房実が跡を継いだ。

歌人としては、嘉元元年(1303年)の『嘉元百首』に詠進し、『新後撰和歌集』以下の勅撰集に15首入る。

系譜

脚注

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注釈

  1. ^ 大才人であり漢籍の才に富み賢く、廉直の人である、と評している。何度も摂関に還補するよう打診があっても固辞し続けた、とある[1]

出典

  1. ^ 『花園天皇宸記』同日の条

参考文献

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中大兄皇子を摂政とみなすのは、『藤氏家伝』上巻に「〔斉明天皇〕悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。
草壁皇子を摂政とみなすのは、『日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。

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