大町陽一郎

大町 陽一郎
生誕 (1931-08-22) 1931年8月22日
出身地 日本の旗 日本東京都
死没 (2022-02-18) 2022年2月18日(90歳没)
日本の旗 日本東京都
学歴 東京芸術大学
ウィーン国立音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
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大町 陽一郎(おおまち よういちろう、1931年8月22日[1] - 2022年2月18日)は、日本の指揮者東京芸術大学名誉教授。

略歴

東京都生まれ[1]。父の大町弘蔵[注釈 1]は、陸軍少将主計)の大町豊五郎の長男。その父の淳信は、京都の朝廷の典薬寮に代々仕えた地下家医師であった。

少年時代、作曲家呉泰次郎が開いていた音楽私塾で音楽理論作曲法指揮法の手ほどきを受ける。旧制成城高等学校[注釈 2]を経て、東京芸術大学作曲科に入学するも、指揮への興味が募り、指揮法を渡邊暁雄クルト・ヴェスに師事。その後、ウィーン国立音楽大学指揮科に入学し、指揮をハンス・スワロフスキーフランコ・フェラーラに師事。カール・ベームヘルベルト・フォン・カラヤンの薫陶を受ける。

1968年、ドルトムント市立歌劇団(英語版)の専属指揮者[1]。数多くのオペラオペレッタバレエの公演を手掛ける。

1980年2月、日本人として初めてウィーン国立歌劇場に登場。同年8月にはクリーヴランド管弦楽団を指揮してアメリカデビューも果たし、1982年から1984年までウィーン国立歌劇場の専属指揮者として活躍する。

1992年には日中修好20周年記念公演として上海歌劇院(英語版)より招かれ、中国人のみによる『トゥーランドット』を上演。さらに1995年、1996年にも北京中央歌劇院(英語版)で中国人のみの『トゥーランドット』[注釈 3]を指揮し、同歌劇院の芸術名誉顧問となる。

オペラ指揮者として、ベルリン国立歌劇場プラハスメタナ国立歌劇場、ブラティスラヴァ国立歌劇場などに客演。コンサートでは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン交響楽団北ドイツ放送交響楽団、ベルギー国立放送管弦楽団(現: ブリュッセル・フィルハーモニック)などを指揮。

1980年代にケルンの日本文化会館館長[注釈 4]として両国の文化交流を担当[注釈 5]。1990年代にはソニー音楽財団[注釈 6]主催の東京国際オーボエコンクールの審査員を数回に亘って務めた。

教育の現場では、東京芸術大学オペラ科教授を務め、後に東京芸術大学名誉教授となった。

2022年2月18日老衰のため東京都内の高齢者施設で死去[4][5]。90歳没。

シュトラウスの名人

オペラの指揮を多く手がけた。シュトラウス・ファミリーの音楽にも造詣が深く、日本ヨハン・シュトラウス協会の設立にも携わり、またウィーン・フォルクスオパー管弦楽団九州交響楽団を指揮してウィンナ・ワルツを録音した。中でも、フォルクスオーパーを指揮した録音は、出色の企画である。

当時のウィンナワルツは、本場性が重視されるご当地音楽のイメージが強く、ドイツを含めたハプスブルク帝国以外の出身者が指揮した国内盤ウィンナワルツ・アルバムは、当時アーサー・フィードラージョン・バルビローリレナード・バーンスタインのものしかなかった[注釈 7]、さまざまな国の指揮者が、交代でウィーンのニューイヤーコンサートを指揮するようになった現代のウィンナ・ワルツ事情を先取りしていたともいえる。

また、この録音はLP盤2枚相当の分量を3種類のLP盤に編集して[注釈 8]分売するという風変わりな販売方法が取られた。

他の録音では、NHK名曲アルバムや、アントン・ブルックナーの交響曲第8番などがある。

人物

  • 多くの著書を残し指揮者の役割についての現場の体験から生々しくわかりやすく表現している。
  • ドイツ人の妻を持つ。
  • 父権の復権を主張する立場から『ボスは父親なんだ』[6]の著書もある。

主なポスト

《主な出典:[1]

作曲

著書

脚注

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注釈

  1. ^ 旭物産合資会社(後の旭光学工業株式会社)社長[2]
  2. ^ 小学校から高校まで成城学園。初等学校期の1943年(昭和18年)、マタイ受難曲演奏(指揮:ジョゼフ・ローゼンストック)の児童合唱団に加わった[3]
  3. ^ イタリア語による中国初演。
  4. ^ 在独公使待遇
  5. ^ 前任は小塩節、後任は荒木忠男。
  6. ^ 会長は大賀典雄
  7. ^ ただしフィードラーはドイツ系2世であり、数年のベルリン留学も経験している。バルビローリは父がオーストリア支配下イタリアの出身であり、またシュトラウス家は遠祖がユダヤ系という説が有力なのでバーンスタインも無縁の外国人とは言えない。
  8. ^ 2枚以上購入すると重複するので、お好み選曲の1枚をお選び下さいという形になっている。
  9. ^ ただし、そのうち1964年から1967年までは同楽団専属指揮者。
  10. ^ 作詞を加藤純三氏、作曲を大町陽一郎氏が行ったボート部の部歌があり、代々、同大学ボート部で歌い継がれている。

出典

  1. ^ a b c d “特別記事:大町陽一郎氏を偲んで(寄稿=丹羽正明)”. 東京フィルハーモニー交響楽団. 2023年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月24日閲覧。略歴を参照。
  2. ^ 「旭光學工業株式會社」『理研コンツエルン株式年鑑』(昭和14年版)野村証券株式會社調査部、1939年3月、90頁。NDLJP:1074319/38。 
  3. ^ 『戦中の「マタイ受難曲」』(2009年。柴田巌著、みやび出版。121ページ)
  4. ^ "大町陽一郎さん死去 国際的指揮者". 東京新聞 TOKYO web. 中日新聞社. 5 March 2022. 2022年3月5日閲覧
  5. ^ 「大町陽一郎さん死去 90歳、国際的に活躍の指揮者」『時事ドットコム』、2022年3月4日。2022年3月13日閲覧。
  6. ^ 電通、1992年。
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