完全な遊戯

完全な遊戯
作者 石原慎太郎
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説
発表形態 雑誌掲載
初出情報
初出新潮1957年10月号
刊本情報
出版元 新潮社
出版年月日 1958年3月31日
装幀 前川直
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完全な遊戯』(かんぜんなゆうぎ)は、石原慎太郎短編小説1957年(昭和32年)、雑誌『新潮』10月号に掲載され、翌年1958年(昭和33年)3月31日に新潮社より単行本刊行された。同名のタイトルの映画作品(太陽族映画)も1958年(昭和33年)11月に公開された。

なお、小説は「精神疾患のある女性を男たちが拉致監禁し、輪姦殺害する」という内容であるが、映画は原作である小説とは内容が大きく異なっている。

あらすじ

雨が降る夜中のドライブ中、バス停に立っている女を、主人公・礼次とその友人・武井が駅まで送ると騙し拉致して車中で輪姦する。彼らは彼女を礼次の別荘監禁拘束し、なおも輪姦は続く。

途中、女が精神疾患を抱えていること、どうやら精神病院から抜け出てきたらしいということが分かるが、彼らは仲間を5人呼び、輪姦させる。

女を熱海女郎屋に売り飛ばすことにも失敗した彼らは、女が面倒になり、懇ろに語るふりをして彼女を連れ出し、最後にはから突き落として殺す。そこで主人公が一連の出来事の総括をつぶやく。

作品評価・解釈

『完全な遊戯』は、精神障害の女性を陵辱して殺すというその内容が、あまりにも反道徳的だと発表当時弾劾されたが、それと同時に文学的な面から擁護する作家や評論家もいた[1]。なお、『処刑の部屋』とともに2010年(平成22年)の東京都青少年の健全な育成に関する条例改正でも石原都知事のこの作品が問題になった。

佐古純一郎は、「もういいかげんにしたまえと叫びたいほどのものである。君たちはこういう小説が書けることに[注釈 1]若さの特権を誇っているのかもしれないが、いったい人間というものを少しでも考えてみたことがあるのか。石原はどこかで自分の文学は人間復活の可能性の探求だとうそぶいていたが、作家としての良心を失っていないのなら、少しは自分の言葉に責任を持つがいいのだ」と怒りを露わにしている[2]

平野謙は、〈完全な遊戯〉という題名を作者・石原が思いついた時、「ニヤリとほくそえんだかもしれぬ」と述べ、以下のように批判している[3]

作者はすでに昨日の流行でしかないドライ派の青年どもをラッしきたって、残酷を残酷とも思わぬ彼らの完全に無目的な行動を描破したつもりらしい。私はこういう作品をマス・コミセンセーショナリズムに毒された感覚の鈍磨以外のなにものでもない、と思う。美的節度などという問題はとうに踏みこえている。私はこの作者の『処刑の部屋』や『北壁』には感銘したものだが、あの無目的な情熱につかれた一種充実した美しさは、ここでは完全にすりへらされ、センセーショナリズムのワナに落ち込んだ作者の身ぶりだけがのこっているにすぎない。 — 平野謙「文芸時評」[3]

江藤淳は、「果たして〈完璧〉という観念に人間的なものがあるか。石原氏がここで試み、成功したのは、この観念のほとんど厳粛な空虚さを、抽象化された運動の継起のなかに象徴しようとすることである。〈純粋行為〉がとらえられればよい」と述べている[4]

三島由紀夫は、『完全な遊戯』に集中した「文壇の悪評」に対し、「日本の批評はどうしてかうまで気まぐれなのであるか」と異議を唱え、『太陽の季節』から『処刑の部屋』へと読み進んだ読者にとり、『完全な遊戯』はその「透明結晶の成就」で「筆致は澄んでゐる」とし、作品の性質は、「抽象的な美しさ」に集中している「モダン・バレエのやうなもの」と評しながら、「ここには肩怒らした石原氏はゐず、さはやかな悪徳の進行に化身してゐる。一連の汚ならしい暴行輪姦が、透明な流れのやうにすぎる。ここには自分の方法をちやんとした芸術の方法に高めた石原氏がゐるのである」と考察し[5]、その作品構成を以下のように説明している[5]

感情の皆無がこの作品の機械のやうな正しい呼吸韻律を成してゐる。相手は狂女であり、こちらには無頼の青年たちがゐる。一瞬の詠嘆の暇もなしに、行為は出会ひから殺人まで進む。しかも人物の間には、狂女のそこはかとない情を除いては、感情の交流は少しもないのである。(中略)そのために狂女は純粋な肉になり、かうした暴行にお誂へ向きの存在になり、青年たちに「完全な遊戯」を成就させるわけであるが、「完全な遊戯」を望んだ青年たちと、それを理想的に成就させた女との間には、何ら感情の交流はないのに、一種完璧な対応関係があつて、そこにこの小説の狙ひがあることに気づかなければ、ただの非人道的な物語としてしか読まれない。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)[5]

そして、『完全な遊戯』の主眼は、「青年たちと女との、不気味な照応の虚しさ」であるとし、三島は以下のように解説している。

おとなしい狂女が純粋な肉にすぎずその内部が空洞にすぎないことは、青年たちのがむしやらな行動の虚妄と無意味とを象徴してゐる。青年たちはのかへらぬ洞穴へ向つて叫び、水音のしない井戸へむかつてを投ずるのと同じことで、最後にそのやうにして女は「片附け」られる。しかも最後まで、青年たちは自分の心の荒廃へ、まともに顔をつきあはせることがない。このやうな無倫理性は、「太陽の季節」のモラリストが、早晩到達しなければならぬものであつた。(中略)石原氏は、倫理真空状態といふものを実験的に作つてみて、そこで一踊り踊つてみる必要があつた。その踊りは見事で、簡潔なテンポを持つてをり、今まで誰も踊つてみせなかつたやうな踊りなのであつた。「完全な遊戯」は、人々が見誤つたのも尤もで、小説といふよりは的な又音楽的な作品なのである。それは対立ではなく対比を扱つてゐる。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)[5]

また、『完全な遊戯』発表から13年後、文芸評論家・古林尚と三島の対談において、古林が、「石原慎太郎が『完全な遊戯』を出したとき、三島さんが、これは一種の未来小説で今は問題にならないかもしれないけれど、十年か二十年先には問題になるだろう、と書いていたように記憶していますが…」と問うと、三島は以下のように答えながら、カトリック的な絶対者の概念や的なものへの信仰が崩れてしまうと、「エロティシズム」もなくなり、石原が作中で描いたような虚しい頽廃的セックスだけしか残らないと論じている[6]

あれは今でも新しい小説です。白痴の女をみんなで輪姦する話ですが、今のセックスの状態をあの頃彼は書いていますね。ぼくはよく書いていると思います。ところが文壇はもうメチャクチャにけなしたんですね。なんにもわからなかったんだと思いますよ。あの当時、皆、危機感を持っていなかった。そして自由解放だなんていうものの残り滓がまだ残っていて、人間を解放することが人間性を解放することだと思っていた。ぼくは、それは大きな間違いだと思う。人間性を完全にそうした形で解放したら、殺人が起こるか何が起こるかわからない。つまり現実に起こる解放というものは全部相対的なもので、スウェーデンであろうがどこの国であろうが、ルスト・モルト(快楽殺人)というものは許されない、人間が社会生活を営む以上は、そういう相対的な解放のなかでは、セックスというものは絶対者に到達しない。 — 三島由紀夫(古林尚の対談)「三島由紀夫 最後の言葉」[6]

秋山大輔は、上記のような三島の『完全な遊戯』評から、「(三島は)人間が思考を止めて、欲望のみで行動する時代の到来を石原の小説から眺めていたのかもしれない。現代の社会情勢。セックスの低年齢化や、性犯罪の多様化、ドメスティック・バイオレンスの横行を三島は予見していた、極論かもしれないが、『完全な遊戯』の評論は、的を得ているのかもしれない」と述べている[7]

中森明夫は、『完全な遊戯』に対する三島の作品評を踏襲する形で構成などを考察しながら、「これは石原文学の最高峰であることは間違いない」と述べ[8]、100年、200年後に石原慎太郎という名や存在が忘却される時代が来たとしても、「必ずこの作品だけは生き残る」と断言したいとし、「『完全な遊戯』は日本語で書かれた短編小説の最高傑作である」と賞讃しつつ、以下のように解説している[8]

『完全な遊戯』は未来小説とも実験作とも称されたが、考えてみれば、この物語のなかで描かれている蛮行はいつでもどこでも現実に起こりうるものではなかったか。いや、21世紀の今日に生きる我々は、既に頻発する少女拉致監禁事件や、あるいは1980年代末の女子高生コンクリート詰め殺人事件として件の小説と酷似する事態が現実化していたことを知っている。(中略)『処刑の部屋』の非道なエピソードもまた、近年、世を騒がせた大学生サークルによるスーパーフリー事件としてすぐに誰もが想起するだろう。こんな衝撃的な事件とそっくりの物語を、はるか半世紀も前に執筆していたというのは、作家の想像力によるものか、(中略)いや、単に当時の若い“太陽族”作家が、おそらく自分の周りで起こる不良少年たちの蛮行をいささかデフォルメして書き留めたにすぎないのかもしれない。そう、ちょっとしたチンピラ話を一丁“小説”にでもでっち上げただけなのだと。そして、そう思わせるところが、石原慎太郎という作家の真の“才能”の恐ろしさでもある。 — 中森明夫「解説―石原慎太郎の墓碑銘」[8]

映画

完全な遊戯
監督 舛田利雄
脚本 白坂依志夫
原作 石原慎太郎
製作 高木雅行
出演者 小林旭芦川いづみ
音楽 河辺公一真鍋理一郎
撮影 横山実
編集 辻井正則
製作会社 日活
配給 日活
公開 日本の旗 1958年11月12日
上映時間 93分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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『完全な遊戯』(日活)1958年(昭和33年)11月12日封切。

あらすじ

戸田をリーダーとする学生たち(大木壮二、沖津、秋谷)は遊び感覚で犯罪を計画する。川崎の競輪場と吉祥寺のノミ屋のタイム・ラグを利用して、当たり券を買うのだ。戸田たちは富田和を仲間に誘い、また写真判定より早く結果を知るため、競馬の虫の源蔵を雇う。

計画は成功、34万円の配当金が手に入るはずが、ノミ屋は金を用意しておらず、20万円しか貰えなかった。

戸田たちは残りの金を要求するが、ノミ屋の責任者の松居鉄太郎は金策に困り、居留守を使う。

壮二の発案で、デパート勤務の鉄太郎の妹・京子をカタにすることに。具体的には、壮二が京子を誘惑し連れ出して、他の4人で拉致、戸田の家に監禁する。

壮二は拉致グループと関係ないふりをして鉄太郎の家に行く。そこは貧しいアパートで、心臓病で寝たきりの母親もいた。鉄太郎は本当に金を持っていなかった。しかし、京子を心配する母親のために、鉄太郎は銀行の小使が運んでいた現金を強奪し、身代金として払う。

身代金と引き換えに解放される京子だが、留守番役の和にレイプされていた。さらに信じていた壮二もグルとわかる。アパートに帰宅すると、兄の指名手配を知りショック死した母親がいた。京子は絶望して自殺する。

まんまと大金をせしめたグループだが、京子の死に責任を感じて、壮二だけは金を受け取らなかった。

数日後、鉄太郎は妹の復讐のため、大学の校門で戸田を刺殺する。

鉄太郎が警察の取り調べに戸田以外のメンバーのことを話さなかったため、胸を撫で下ろすメンバーだが、壮二は良心の呵責から新聞社に真実を打ち明ける。

キャスト

スタッフ

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 「君たち」というのは、瀬戸内晴美の『花芯』と一緒に唾棄しているからである。

出典

  1. ^ 栗原裕一郎豊崎由美『石原慎太郎を読んでみた』(原書房、2013年)
  2. ^ 佐古純一郎「文芸時評」(産経時事 1957年9月14日に掲載)
  3. ^ a b 平野謙「文芸時評」(新潮 1957年10月号に掲載)
  4. ^ 江藤淳「『完全な遊戯』について」、『石原慎太郎論』(作品社、2004年)に所収。
  5. ^ a b c d 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)(筑摩書房、1960年)。三島由紀夫『石原慎太郎氏の諸作品』(『美の襲撃』)(講談社、1961年)に所収。
  6. ^ a b 三島由紀夫古林尚の対談)「三島由紀夫 最後の言葉」(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日掲載)。『三島由紀夫 最後の言葉 新潮CD 講演』(新潮社、2002年)
  7. ^ 秋山大輔「三島由紀夫石原慎太郎」三島由紀夫研究会メルマガ
  8. ^ a b c 中森明夫「解説―石原慎太郎の墓碑銘」(『石原慎太郎の文学9 短篇集I』(文藝春秋、2007年)
  9. ^ 映画com.

参考文献

  • 『石原慎太郎の文学9 短篇集I』(付録・解説 中森明夫)(文藝春秋、2007年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第31巻・評論6』(新潮社、2003年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第40巻・対談2』(新潮社、2004年)
  • 『戦後短篇小説再発見1 青春の光と影』(講談社文芸文庫、2001年) ISBN 9784061982611
  • 秋山大輔「三島由紀夫と石原慎太郎」三島由紀夫研究会メルマガ
  • 佐野眞一『てっぺん野郎―本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社、2003年)
  • 栗原裕一郎豊崎由美『石原慎太郎を読んでみた』(原書房、2013年)

関連項目

1950年代の著書

灰色の教室 - 太陽の季節 - 処刑の部屋 - 日蝕の夏 - 理由なき復讐(改題前:喪失)- 黒い水 – 北壁 – 透きとおった時間 – 婚約指輪 - 狂った果実 - 青春にあるものとして - 若い獣 - 完全な遊戯 - 海の地図 - 価値紊乱者の光栄 - 月蝕 - 亀裂 - 夜を探がせ – 乾いた花(改題前:渇いた花) - 男の掟 – 鱶女 - ファンキー・ジャンプ - 殺人教室

1960年代の著書

青年の樹 - これが恋愛だ - 南米横断一万キロ - 挑戦 - 見知らぬ顔 - 青い糧 - 汚れた夜 - 死んでいく男の肖像 - 雲に向かって起つ - 禁断 - 断崖 - 狼生きろ豚は死ね・幻影の城 - 日本零年 - 密航 - てっぺん野郎青雲編 - 死の博物誌 - 石原慎太郎文庫 - 行為と死 - てっぺん野郎昇竜編 - 銀色の牙 - 傷のある羽根 - 終幕 - 青春とはなんだ - 命の森 - 星と舵 - おゝい、雲! - 砂の花 - 人魚と野郎 - 大いなる海へ - 還らぬ海 - 飛べ、狼 - 孤独なる戴冠 - 青い殺人者 - 野性の庭 - 黒い環 - 青春との対話 - 巷の神々 – 待伏せ - 怒りの像 - 祖国のための白書 - 野蛮人のネクタイ - プレイボーイ哲学 - 鎖のついた椅子 - スパルタ教育

1970年代の著書

慎太郎の政治調書 – 化石の森 - 慎太郎の第二政治調書 - 男の世界 - 野蛮人の大学 - 真実の性教育 - 信長記 - 酒盃と真剣 - 石原慎太郎短編全集 - 新和漢朗詠集 - 男の海 - 対極の河へ - 息子をサラリーマンにしない法 - 風の神との黙約 - 真の革新とはなにか - 伯爵夫人物語 - 大いなる手との黙約 - 情熱のための航海 - 光より速きわれら - 刃鋼 - 暗闇の声 - 嫌悪の狙撃者 - 型破りで勝つ! - 戦士の羽飾り - 一点鐘

1980年代の著書

亡国 - 大いなる海へ - 秘祭 - バカでスウェルな男たち - 暗殺の壁画 - 流砂の世紀に - 現代史の分水嶺 - 拝啓息子たちへ - 生還

1990年代の著書

不思議な不思議な航海 - わが人生の時の時 - 時の潮騒 - 光速の時代に - 十代のエスキース - 来世紀の余韻 - 三島由紀夫の日蝕 - 禁断の島へ - 遭難者 - かくあれ祖国 - 風についての記憶 - わが人生の時の会話 - 亡国の徒に問う - 肉体の天使 – 弟 - “父”なくして国立たず - 法華経を生きる - 国家なる幻影 - 聖餐

2000年代の著書

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2010年代の著書

声に出して詠もう和漢朗詠集 - 真の指導者とは - 再生 - 新・堕落論 我欲と天罰 - 平和の毒、日本よ - 石原愼太郎の思想と行為

共著

新旧の対決か調和か - 人間の原点 - いかに国を守るか - エベレスト - 闘論 - 「NO」と言える日本 - それでも「NO」と言える日本 - 断固「NO」と言える日本 - 「No」と言えるアジア - 宣戦布告「NO」と言える日本経済 - 「アメリカ信仰」を捨てよ - 勝つ日本 - 永遠なれ、日本 - 人生への恋文 - 日本の力 - 生きる自信

映画

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