小野正一

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小野 正一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県いわき市
生年月日 1933年9月30日[1]
没年月日 (2003-03-19) 2003年3月19日(69歳没)
身長
体重
185[1] cm
84[1] kg
選手情報
投球・打席[1]投左[1]
ポジション 投手
プロ入り 1956年
初出場 1956年[1]
最終出場 1970年[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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小野 正一(おの しょういち、1933年9月30日 - 2003年3月19日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手投手)。

日本プロ野球 (NPB) で通算184勝155敗の成績を残し[2]、NPB歴代13位(2021年終了時点)の通算2244奪三振を記録した[3]、球史に名を残す速球投手。妻は元大映女優の仁木多鶴子

経歴

実家が材木屋で、子どもの頃から30㎏から40㎏にもなる材木を担いでいたという[4]磐城高校[2]では、1950年秋季東北大会県予選準決勝に進むが川俣高校に敗退。卒業後は社会人野球[2]の常磐炭鉱(清峰伸銅)に入団。監督の谷口五郎から、背が高く的が大きいため内野手が投げやすいだろうと判断されて、当初は一塁手を務める。連日の100m×300球の遠投練習によってが鍛えられたことから、2年目から谷口は小野を投手に転向させた。遠投練習の成果により、3年目にはホームベースから120m離れているバックスクリーンに直接ぶつけられるようになったという[4]

1956年毎日オリオンズに入団する。入団当初は一塁手も兼ねていたが、野口二郎コーチの目に留まり投手に専念する。1年目の開幕直後から先発で起用され、4月4日近鉄パールス戦で初勝利を挙げた。同年は4勝にとどまる[1]が、1957年に26勝、防御率1.73(いずれも稲尾和久に次ぐ2位)の好成績を挙げ、一躍エース格にのし上がる。

1960年には西本幸雄監督の意向によりリリーフを主体に起用される[5]。この年、大毎は6月5日の対近鉄バファロー戦から6月29日の同じく対近鉄戦まで日本プロ野球記録の18連勝を成し遂げているが、小野はこの間15試合に登板して6月22日からの東映3連戦3連勝を含む10勝をマークする[6]。6月のみで月間でのプロ野球記録となる11勝をあげると、7月16日には早くも20勝に達し20勝の最速到達のパ・リーグ記録も作った[7]。シーズンでは最多勝利(33勝)、最優秀防御率(1.98)、最高勝率(.750)、最多完封勝利(5完封)の4冠に輝き、打の田宮謙次郎山内一弘榎本喜八らとともにリーグ優勝に貢献。なお、リリーフとして救援勝利21勝は日本プロ野球記録で、救援登板45試合、交代完了39試合もリーグトップであった。同年の大洋ホエールズとの日本シリーズでは、第2戦で2回から若生智男をリリーフするが、7回に鈴木武に決勝打を許し敗戦投手となる。最終第4戦では先発し島田源太郎と投げ合うが、5回に近藤昭仁に適時打を喫し、これが決勝点となり0対1で敗退。結局、通算0勝2敗でシリーズを終えた。また、同年には大映女優の仁木多鶴子と結婚している[8]1961年も17勝を挙げるが[1]、これまでの酷使が尾を引いたためか、以降年々成績を落とす。

1964年には5勝に終わると、同年オフに左腕不足に苦しんでいた大洋ホエールズに請われて移籍。この移籍に際しては、元々親交があった東京の永田雅一と大洋の中部謙吉の両オーナーに懇意にしていた河野一郎が雑談で言った一言で決まったという[9]1965年は9勝を記録する[1]

1968年中日ドラゴンズに移籍。同年5月1日の対阪神タイガース戦では自らの本塁打による1点を守りきり1-0で完封勝利を挙げるが[10]、シーズンでは6勝(11敗)に留まる。1969年には13勝(防御率2.64〔リーグ9位〕)を挙げ、6年ぶりに二桁勝利を記録した。また、中日時代には球団史上初となる通算2,000奪三振を記録している[注 1][12]

同年に黒い霧事件が発生すると、翌1970年にはマスコミが親分肌で若手から慕われていた小野に対して事件への関与を疑い、セ・リーグ会長が小野の潔白を証明する事態にまで発展した。小野はこの騒動に嫌気が差して現役を引退。引退後は球界との関係を絶ち、鉄道グッズショップや運送会社などの経営に携わった。

2003年3月19日、胃癌のため東京都千代田区内の病院で死去(69歳没)[2]

選手としての特徴

185 cmの長身から振り下ろされる速球と大きなカーブで三振の山を築いた。制球力にやや難があり、1959年から1963年まで5年連続リーグ最多与四球を記録している。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1956 毎日
大毎
東京
37 16 0 0 0 4 1 -- -- .800 470 114.2 106 4 31 0 4 62 1 0 45 35 2.74 1.19
1957 55 32 15 7 0 26 9 -- -- .743 1159 296.1 202 12 90 0 5 245 2 0 73 57 1.73 0.99
1958 36 18 5 0 0 13 10 -- -- .565 731 182.2 132 5 66 2 1 191 1 0 42 36 1.77 1.08
1959 56 27 14 4 0 22 9 -- -- .710 1158 288.1 201 13 118 5 6 244 6 1 84 75 2.34 1.11
1960 67 22 13 5 0 33 11 -- -- .750 1226 304.0 231 11 101 2 2 258 3 0 81 67 1.98 1.09
1961 58 27 11 3 1 17 14 -- -- .548 1048 251.0 213 24 97 2 4 211 2 1 105 88 3.16 1.24
1962 44 20 6 1 0 9 15 -- -- .375 762 177.2 157 8 85 1 6 121 3 0 77 66 3.34 1.36
1963 47 31 9 1 1 13 17 -- -- .433 995 235.0 177 16 123 1 6 206 6 0 92 80 3.06 1.28
1964 46 23 5 0 0 5 9 -- -- .357 711 162.2 150 16 87 1 0 119 2 0 79 67 3.70 1.46
1965 大洋 37 21 5 1 1 9 13 -- -- .409 613 146.1 135 12 53 0 3 84 4 0 65 54 3.33 1.28
1966 41 9 3 0 0 5 7 -- -- .417 508 119.2 109 15 56 8 3 85 1 0 53 46 3.45 1.38
1967 24 9 0 0 0 2 7 -- -- .222 242 56.2 60 7 15 0 1 48 1 0 39 26 4.11 1.32
1968 中日 48 23 6 1 0 6 11 -- -- .353 822 195.0 168 19 83 9 4 145 0 0 82 77 3.55 1.29
1969 39 29 8 3 2 13 12 -- -- .520 874 218.0 182 20 65 1 5 141 0 4 75 64 2.64 1.13
1970 36 24 5 1 0 7 10 -- -- .412 672 161.0 161 17 46 2 3 84 2 1 74 67 3.75 1.29
通算:15年 671 331 105 27 5 184 155 -- -- .543 11991 2909.0 2384 199 1116 34 53 2244 34 7 1066 905 2.80 1.20
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に、1964年に東京(東京オリオンズ)に球団名を変更[1]

タイトル

  • 最多勝利:1回 (1960年)
  • 最優秀防御率:1回 (1960年)
  • 最高勝率:1回 (1960年)

表彰

  • ベストナイン:1回 (投手部門:1960年)

記録

  • シーズン最多救援勝利:21(1960年)日本プロ野球記録[13]
  • 月間最多勝利:11(1960年6月)日本プロ野球記録[14]
  • 13球団から勝利(古巣の後継球団であるロッテからは未勝利のため全球団勝利ではない)
  • 同一カード3連戦3連勝:2回。1959年5月2日-3日対西鉄ライオンズ戦、1960年6月22日-24日対東映フライヤーズ戦[15]
  • 救援登板による1試合最多奪三振:14 1958年5月4日、対近鉄パールス戦、3回から9回まで登板[16]
  • 奪三振王無しで2244奪三振 ※歴代最多
  • オールスターゲーム:6回 (1959年 - 1961年、1963年、1969年、1970年)

背番号

  • 19 (1956年 - 1964年)
  • 27 (1965年 - 1967年)
  • 18 (1968年 - 1970年)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 達成時点での通算投球回数は2,497回(2011年時点で歴代6位)[11]。ただし、中日一筋の選手に限定すると山本昌(2006年9月9日にナゴヤドーム・対広島東洋カープ戦で新井貴浩から三振を取り記録達成)が初となる[12]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “小野 正一(中日ドラゴンズ)”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構 (2020年10月3日). 2020年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e 東京新聞』2003年3月21日朝刊第一運動面31頁「小野正一氏死去」(中日新聞東京本社
  3. ^ “歴代最高記録 奪三振 【通算記録】”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構 (2020年10月3日). 2020年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月4日閲覧。
  4. ^ a b 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』229頁
  5. ^ ベースボールマガジン、2011年11月号 P28
  6. ^ 『プロ野球記録大鑑』159頁
  7. ^ 翌1961年に稲尾和久が7月11日に20勝に到達して記録更新(『プロ野球記録大鑑』816頁)
  8. ^ 『新撰 芸能人物事典 明治~平成』日外アソシエーツ、2010年
  9. ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』92頁
  10. ^ 『プロ野球記録大鑑』854頁
  11. ^ 『東京新聞』2011年8月8日朝刊第二運動面16頁「石井一 最速2000奪三振 1967回2/3で到達」(中日新聞東京本社)
  12. ^ a b 中日新聞』2006年9月10日朝刊第三運動面34頁「プロ野球 セ・リーグ 9日 中日7-6広島 福留一撃 竜に喝 マサ2000奪三振 足かけ20年 最年長記録」(中日新聞社
  13. ^ 『プロ野球記録大鑑』782頁
  14. ^ 『プロ野球記録大鑑』827頁
  15. ^ 『プロ野球記録大鑑』892頁
  16. ^ 『プロ野球記録大鑑』682頁

参考文献

関連項目

外部リンク

  • 個人年度別成績 小野正一 - NPB.jp 日本野球機構
 
業績
パシフィック・リーグ最優秀防御率
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
パシフィック・リーグ最優秀勝率投手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
2002年から2012年は最優秀投手として表彰。
1960年 パシフィック・リーグ ベストナイン
毎日大映(大毎)オリオンズ開幕投手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代