怡子女王
怡子女王 | |
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続柄 | 輔仁親王王女 |
称号 | 北小路斎院 |
出生 | 不明 |
死去 | 嘉応2年(1170年)以降 |
父親 | 輔仁親王 |
母親 | 源行宗女 |
役職 | 賀茂斎院 |
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怡子女王(いし(よしこ)じょおう、生薨年未詳)は、平安時代後期の皇族。輔仁親王の王女(後三条天皇の皇孫)で母は大蔵卿・源行宗の娘。白河天皇の猶子となり、内親王宣下を受けたらしく、怡子内親王とも表記する。崇徳・近衛・後白河・二条天皇の4代にわたって賀茂斎院として奉仕、北小路斎院と号した。
経歴
長承2年12月21日(1134年1月24日)、斎院に卜定。保延元年(1135年)4月15日、初斎院より紫野斎院に入る。平治元年(1159年)閏5月19日、病により退下。その後の消息は不明だが、『今鏡』第8巻で60歳を越えたようだとあり、嘉応2年(1170年)頃には存命であったと見られる[1]。
脚注
- ^ 竹鼻績は『玉葉』安元元年(1175年)9月14日条「嘉応元年二月二十九日、前賀茂斎院倍子薨<主上姪子>」について、「倍子」は「怡子」(白河天皇姪)の誤記と推測、これにより怡子の没年は嘉応元年(1169年)で『今鏡』の記述は正しくないとするが(『今鏡(下)全訳注』講談社学術文庫,1984年,304頁)、多賀宗隼は「倍子」を二条天皇の皇女「僐子」の誤りかとし(『玉葉索引』,吉川弘文館,1974年)、蔦尾和宏も文脈から見て「主上姪子」は当時(嘉応年間)の帝である高倉天皇姪の意であり、『玉葉』嘉応3年3月1日条に薨去記事の載る「二条院御女」即ち「僖子(僐子)」であると指摘する(「『今鏡』の成立-「すべらぎの下・二葉の松」考-」『国語国文』76巻3号,2007年)。また九条家本『玉葉』第4巻(宮内庁書寮部,明治書院,1997年)では「前賀茂斎院僐子薨」と表記、薨年の「嘉応元年」を注記で「三年」としており、『今鏡』とも矛盾しない。
斎院(第30代:1134-1159) | |
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有智子内親王810-831 / 時子内親王831-833 / 高子内親王833-850 / 慧子内親王850-857 / 述子内親王857-858 / 儀子内親王859-876 / 敦子内親王877-880 / 穆子内親王882-887 / 直子女王889-892 / 君子内親王893-902 / 恭子内親王903-915 / 宣子内親王915-920 / 韶子内親王921-930 / 婉子内親王931-967 / 尊子内親王968-975 / 選子内親王975-1031 / 馨子内親王1031-1036 / 娟子内親王1036-1045 / 禖子内親王1046-1058 / 正子内親王1058-1069 / 佳子内親王1069-1072 / 篤子内親王1073-1073 / 斉子女王1074-1089 / 令子内親王1089-1099 / 禛子内親王1099-1107 / 官子内親王1108-1123 / 悰子内親王1123-1126 / 統子内親王1127-1132 / 禧子内親王1132-1133 / 怡子女王1133-1159 / 式子内親王1159-1169 / 僐子内親王1169-1171 / 頌子内親王1171-1171 / 範子内親王1178-1181 / 礼子内親王1204-1212 | |
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