相川賢太郎

相川 賢太郎(あいかわ けんたろう、1927年6月8日 - 2023年1月17日)は、日本経営者三菱重工業社長、会長を務めた。

来歴・人物

長崎県長崎市出身[1]1951年東京大学工学部機械工学科を卒業し、同年に西日本重工業(のちの三菱重工業)に入社した[1]1975年6月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1989年6月には社長に就任した[1]1995年6月から会長を務めた[1]。社長在任時には、社長権限を強化し、徹底した合理化を進めたことで「ミスターコストダウン」と呼ばれた[2]地熱発電プラント開発の第一人者としても知られる[3]

三菱自動車工業取締役、三菱商事取締役、日本造船工業会会長、日本機械工業連合会会長なども歴任した[1]

1978年に科学技術功労者の表彰を受け、1988年4月には紫綬褒章を受章した[1]

2023年1月17日未明、腎不全のため、死去[4]。95歳没。

長男は元三菱自動車工業社長の相川哲郎。次男は大成建設社長の相川善郎[5]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 興信データ株式會社 2003, あ36頁.
  2. ^ 三菱重工「宮永丸」、重荷を抱え再出航 就任6年目に2018年 4月2日 日本経済新聞
  3. ^ “三菱自動車・次期社長 相川哲郎 -生え抜きエースの「技術屋魂」”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2014年4月19日). 2023年2月4日閲覧。
  4. ^ 三菱重工業元社長 相川賢太郎さん死去 95歳、長崎出身 - 長崎新聞 2023年2月3日
  5. ^ “相川賢太郎氏が死去 元三菱重工業社長”. 日本経済新聞. (2023年2月2日). https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE024LU0S3A200C2000000/ 2023年2月4日閲覧。 

参考文献

  • 興信データ株式會社『人事興信録 第42版 上』興信データ、2003年。 
三菱重工業社長[1][2]
1884年 -
三菱商会(1873年)
- 長崎造船所(1884年)
- 三菱社(1885年)
 - 三菱合資会社(1884年)
- 三菱造船(1917年)
- 三菱重工業(1934年)
1950年 -
東日本重工業(1950年)
- 三菱日本重工業(1951年)
中日本重工業(1950年)
- 新三菱重工業(1951年)
西日本重工業(1950年)
- 三菱造船(1951年)
  • 丹羽周夫(1950年1月)
  • 佐藤尚(1959年5月) -
1964年
三菱重工業
  1. ^ 岩井良太郎『日本コンツェルン全書3:三菱コンツェルン読本』(1937年、春秋社国立国会図書館)、渋沢栄一記念財団『渋沢社史データベース』、野村インベスター・リレーションズ『三菱重工業の歴史』、他。
  2. ^ 1950年までで社長が明らかでないか不在の場合は、三菱財閥総帥もしくは三菱重工業会長、もしくは長崎造船所所長または支配人を含むか、或いは併記する。
  • 表示
  • 編集