藤井 深造(ふじい しんぞう、1893年12月13日 - 1970年9月8日)は大正~昭和期の実業家。新生三菱重工業初代社長。 広島県三次郡庄原(現庄原市)出身。
来歴
旧制三次中学(現三次高校)から第一高等学校を経て1918年、東京帝国大学法学部卒業。三菱合資長崎造船所に入社。営業畑を歩み常務を経て戦後1950年、過度経済力集中排除法により、同社が地域別に三分割されたうちの中日本重工業社長に就任。三社の中で最も赤字が多く、貧乏くじを引いたと言われたが、朝鮮戦争の特需などにより三社のトップに業績を引き上げた。1959年、一旦会長に退いたが、吉田義人社長の病死で再び社長に再登板。続いて日本の開放経済への移行に備えて企業体質の強化を図り1964年、三菱系3重工の合併を実現させ新生三菱重工業初代社長に就任した。翌年会長に退き1969年相談役となった。
造船、航空機、産業機械、原動機など、戦後の日本の重工業の復興と発展、輸出の推進に指導的役割を果たした。その功績により1959年藍綬褒章、1970年勲一等瑞宝章を受章している。
1970年9月8日、肺がんのため国立がんセンターで死去。告別式は9月10日、築地本願寺で行われた[1]。
脚注
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- ^ 訃報欄『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月8日夕刊 3版 11面
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1884年 - | 三菱商会(1873年) - 長崎造船所(1884年) - 三菱社(1885年) - 三菱合資会社(1884年) - 三菱造船(1917年) - 三菱重工業(1934年) | - 岩崎弥太郎(1884年)・山脇正勝(1884年)
- 岩崎弥之助(1885年)・荘田平五郎(1886年)
- 岩崎久弥(1893年)
- 岩崎小弥太(1916年)
- 浜田彪(1917年12月 - 1932年)・武田秀雄(1918年5月)
- 斯波孝四郎(1920年2月 - 1942年2月)
- 取締役社長制・郷古潔(1941年2月 – 1945年10月)
- 取締役会長制復活・元良信太郎 (1943年4月 - 1945年10月)
- 玉井喬介 (1945年10月 - 1955年5月)
- 岡野保次郎 (1946年12月)
- 桜井俊記
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1950年 - | 東日本重工業(1950年) - 三菱日本重工業(1951年) | - 李家孝(1950年1月)
- 桜井俊記(1952年5月)
- 河野文彦(1961年5月) -
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中日本重工業(1950年) - 新三菱重工業(1951年) | - 藤井深造(1950年1月)
- 吉田義人(1959年5月)
- 藤井深造(1962年3月) -
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西日本重工業(1950年) - 三菱造船(1951年) | - 丹羽周夫(1950年1月)
- 佐藤尚(1959年5月) -
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1964年 – | |
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- ^ 岩井良太郎『日本コンツェルン全書3:三菱コンツェルン読本』(1937年、春秋社、国立国会図書館)、渋沢栄一記念財団『渋沢社史データベース』、野村インベスター・リレーションズ『三菱重工業の歴史』、他。
- ^ 1950年までで社長が明らかでないか不在の場合は、三菱財閥総帥もしくは三菱重工業会長、もしくは長崎造船所所長または支配人を含むか、或いは併記する。
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