石井清子
この項目では、編集技師について記述しています。バレエダンサーの同名の人物については「石井清子 (バレエダンサー)」をご覧ください。 |
いしい きよこ 石井 清子 | |
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生年月日 | 1935年 |
出生地 | 日本・東京都 |
国籍 | 日本 |
職業 | 編集技師 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1958年 - |
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石井 清子(いしい きよこ[1]、1935年〈昭和10年〉[2][1] - )は日本映画の編集技師。東京都出身[2][1]。
経歴
1958年5月に東宝の特殊技術課に3ヶ月契約で入社[1]。新聞の特集を見てスクリプターに憧れていたが[2][3]、スクリプターになるには編集を学ばねばならず[2]、円谷英二から「君は編集が似合う」と言われ編集技師としての道を選んだ[1]。1967年に退職[2]。その後は、日活のテレビ作品や大阪万博用の作品などを手掛けた[2]。
人物・エピソード
映画『宇宙大戦争』で編集助手を務めた際に、石井のミスで1カットダビングできず、円谷英二に怒鳴られ、周囲からも冷ややかな目で見られたことが合った[2]。しかし、実際には石井の担当した箇所ではなかったが石井は言い訳をせず、後に円谷から詫びとして芝居の券をもらったという[2]。
円谷がタバコを吸って灰が落ちそうになった際は、石井が灰皿を出していたといい、助監督であった中野昭慶は名人芸であったと評している[2]。一方、後年では、糖尿病を患っていた円谷が、天ぷら蕎麦を食したり、タバコを1カートン吸っていたところなどを目の当たりにしながら、それらをセーブさせなかったことを後悔しているという[2]。
代表作
公開年月日 | 作品名 | 制作(配給) |
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1958年6月24日 | 美女と液体人間[1] | 東宝 |
1958年10月14日 | 大怪獣バラン | |
1959年7月5日 | 潜水艦イ-57降伏せず | |
1959年10月25日 | 日本誕生 | |
1960年4月10日 | 電送人間 | |
1960年4月26日 | ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐 | |
1960年12月11日 | ガス人間第一号 | |
1961年7月30日 | モスラ | |
1961年10月8日 | 世界大戦争 | |
1962年3月21日 | 妖星ゴラス | |
1962年8月11日 | キングコング対ゴジラ | |
1963年1月3日 | 太平洋の翼 | |
1963年5月29日 | 青島要塞爆撃命令 | |
1963年8月11日 | マタンゴ | |
1963年12月22日 | 海底軍艦 | |
1964年4月29日 | モスラ対ゴジラ | |
1964年8月11日 | 宇宙大怪獣ドゴラ | |
1964年12月20日 | 三大怪獣 地球最大の決戦 | |
1965年6月19日 | 太平洋奇跡の作戦 キスカ | |
1965年8月8日 | フランケンシュタイン対地底怪獣 | 東宝 ベネディクト・プロ (東宝) |
1965年10月31日 | 大冒険 | 東宝 渡辺プロダクション (東宝) |
1965年12月19日 | 怪獣大戦争 | 東宝 |
1966年7月13日 | ゼロ・ファイター 大空戦 | |
1966年7月31日 | フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ | 東宝 ベネディクト・プロ (東宝) |
1966年12月17日 | ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘 | 東宝 |
1967年7月22日 | キングコングの逆襲 | 東宝 ランキン・バス・プロダクション (東宝) |
1967年12月16日 | 怪獣島の決戦 ゴジラの息子[1] | 東宝 |
脚注
[脚注の使い方]
- ^ a b c d e f g 東宝ゴジラ会 2010, p. 189, 「第二章 円谷組スタッフインタビュー INTERVIEW14 池田美千子、長岡久子、田村嘉男、船沢昌介、石井清子」
- ^ a b c d e f g h i j 東宝SF特撮映画シリーズ8 1993, pp. 155–165, 「ゴジラ40年記念座談会 回想の東宝特撮円谷組」
- ^ 東宝ゴジラ会 2010, pp. 190–198, 「第二章 円谷組スタッフインタビュー INTERVIEW14 池田美千子、長岡久子、田村嘉男、船沢昌介、石井清子」
参考文献
- 『ゴジラVSメカゴジラ』東宝 出版・商品事業室〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.8〉、1993年12月11日。ISBN 4-924609-45-5。
- 東宝ゴジラ会『特撮 円谷組 ゴジラと東宝特撮にかけた青春』洋泉社、2010年10月9日。ISBN 978-4-86248-622-6。
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