紀元前226年

世紀 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀
十年紀 前240年代 前230年代
前220年代
前210年代 前200年代
前229年 前228年 前227年
紀元前226年
前225年 前224年 前223年

紀元前226年(きげんぜん226ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「マルクス・ウァレリウス・マクシムス・メッサラとルキウス・アプスティウス・フッロ共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元528年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前226年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

ギリシア

共和政ローマ

  • アルプス山脈を越えたガリア人がローマを脅かした。
  • カルタゴに脅かされたギリシア人商人がマルセイユでローマ向けに銀山の採掘等を行い、成功した。ローマはエブロ川南部の独立した港町サグントと協定を結んだ。
  • ローマはハスドルバルに使節を送り、エブロ川北部で戦争を起こさない代わりに、マルセイユの街を含む南部を自由にさせるという条約を結んだ。

セレウコス朝

中国

  • 10月、王賁が燕の都のを陥落させた。燕王喜燕太子丹は遼東に逃れたが、李信がこれを急追した。燕王喜は代王嘉の勧めに従って太子丹を殺害し、秦王政に献上しようとした。しかし秦王はさらに兵を進めて燕王を攻撃した。
  • 王賁が楚を攻撃し、十数城を奪った。秦王政が李信に楚を攻めるための兵数を訊ねると、李信は「20万で充分です」と答え、秦王が王翦に訊ねると、王翦は「60万はないといけません」と答えた。秦王は王翦が老いたものと思い、李信と蒙武に20万人を与えて楚を攻めさせた。王翦は病を理由に頻陽に帰った。
  • 韓の旧都の新鄭に対する反乱が起こった。
  • 昌平君に移された。

誕生

「Category:紀元前226年生」も参照

死去

「Category:紀元前226年没」も参照

脚注

注釈

出典

[脚注の使い方]

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前226年に関連するカテゴリがあります。
紀元前3世紀の十年紀と各年
《前310年代 《前301年 前5世紀 前4世紀 - 紀元前3世紀 - 前2世紀 前1世紀 前200年》 前190年代》
前300年代 前300年
前290年代 前299年 前298年 前297年 前296年 前295年 前294年 前293年 前292年 前291年 前290年
前280年代 前289年 前288年 前287年 前286年 前285年 前284年 前283年 前282年 前281年 前280年
前270年代 前279年 前278年 前277年 前276年 前275年 前274年 前273年 前272年 前271年 前270年
前260年代 前269年 前268年 前267年 前266年 前265年 前264年 前263年 前262年 前261年 前260年
前250年代 前259年 前258年 前257年 前256年 前255年 前254年 前253年 前252年 前251年 前250年
前240年代 前249年 前248年 前247年 前246年 前245年 前244年 前243年 前242年 前241年 前240年
前230年代 前239年 前238年 前237年 前236年 前235年 前234年 前233年 前232年 前231年 前230年
前220年代 前229年 前228年 前227年 前226年 前225年 前224年 前223年 前222年 前221年 前220年
前210年代 前219年 前218年 前217年 前216年 前215年 前214年 前213年 前212年 前211年 前210年
前200年代 前209年 前208年 前207年 前206年 前205年 前204年 前203年 前202年 前201年