紀元前260年

世紀 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀
十年紀 前280年代 前270年代
前260年代
前250年代 前240年代
前263年 前262年 前261年
紀元前260年
前259年 前258年 前257年

紀元前260年(きげんぜん260ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナガイウス・ドゥイリウス共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元494年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前260年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

シチリア

  • アグリジェントからのローマ軍の西進は、包囲されたセジェスタやマセラを解放しながら続いた。これらの街はローマ側につき、カルタゴからの攻撃を受けることとなった。
  • ハンニバル・ギスコは、メッシーナ海峡のカルタゴ軍を統括する提督として、シチリアでの戦いに戻った。ローマが最初の海軍を派遣しようとしていたことから、カルタゴはこれを妨害することを決めた。ギスコはローマ軍の一部を破り、エオリア諸島付近で執政官グナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナを捕虜とした。「ロバ」を意味する「アシナ」という渾名は、この戦いの際に名付けられた。しかし、周辺の海域に大量のローマ軍が進出してきており、カルタゴのこの勝利は限定的な意味しか持たなかった。
  • カルタゴ軍の海域での優位性に対する自信から、ギスコはミュラエの戦いで伝統的な直線状布陣を敷いた。海戦の経験がなかったにもかかわらず、執政官ガイウス・ドゥイリウスは、四爪錨やコルウスを利用する等、海戦に地上戦の戦術を取り入れることで、カルタゴ軍を壊滅させた。
  • ミュラエの戦いで勝利したローマ軍は、シチリア北部からテルメーへ侵攻したが、そこでハミルカルの率いるカルタゴ軍に敗れた。

エジプト

中国

  • 長平の戦いで、軍は趙軍を完全に打ち負かし、中国全土での軍事的な優位性を確立した。この戦いでは、趙軍は廉頗趙括、秦軍は白起に率いられ、今日の高平市の近くで戦闘が起き、戦いの後には、数十万人の趙軍の兵士が処刑された。

誕生

「Category:紀元前260年生」も参照

死去

「Category:紀元前260年没」も参照

脚注

注釈

出典

[脚注の使い方]

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前260年に関連するカテゴリがあります。
紀元前3世紀の十年紀と各年
《前310年代 《前301年 前5世紀 前4世紀 - 紀元前3世紀 - 前2世紀 前1世紀 前200年》 前190年代》
前300年代 前300年
前290年代 前299年 前298年 前297年 前296年 前295年 前294年 前293年 前292年 前291年 前290年
前280年代 前289年 前288年 前287年 前286年 前285年 前284年 前283年 前282年 前281年 前280年
前270年代 前279年 前278年 前277年 前276年 前275年 前274年 前273年 前272年 前271年 前270年
前260年代 前269年 前268年 前267年 前266年 前265年 前264年 前263年 前262年 前261年 前260年
前250年代 前259年 前258年 前257年 前256年 前255年 前254年 前253年 前252年 前251年 前250年
前240年代 前249年 前248年 前247年 前246年 前245年 前244年 前243年 前242年 前241年 前240年
前230年代 前239年 前238年 前237年 前236年 前235年 前234年 前233年 前232年 前231年 前230年
前220年代 前229年 前228年 前227年 前226年 前225年 前224年 前223年 前222年 前221年 前220年
前210年代 前219年 前218年 前217年 前216年 前215年 前214年 前213年 前212年 前211年 前210年
前200年代 前209年 前208年 前207年 前206年 前205年 前204年 前203年 前202年 前201年