谷衛好

 
凡例
谷 衛好
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄2年(1529年
死没 天正7年9月10日(1579年9月30日
別名 幼名:小太郎、衛吉、通称:大膳、大膳亮、法名:浄善、月賛玄光
戒名 法源院殿月賛玄光大居士(三木金剛寺)
永盛院殿前光禄侍郎月賛玄光大居士(泉岳寺
高見院殿秀英浄善大居士(丹波山家・覚応寺)
官位 大膳亮または大膳大夫
主君 斎藤道三義龍龍興織田信長→(羽柴秀吉
氏族 福田氏→谷氏
父母 父:福田正之、母:蒲生貞之娘[1]
養父:谷綱衛(谷野綱衛)[2]
孫一郎、民部、衛友、伯耆
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谷 衛好(たに もりよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

生涯

享禄2年(1529年)、美濃国莚田郡伊良地村に生まれた。福田正之(綱衛の弟)の子であるが、浅井亮政に仕える伯父谷綱衛(谷野綱衛)[2]の養子となった。幼名を小太郎、または衛吉。

谷氏壬申の乱の時に天武天皇に仕えた谷直監も先祖というが、将軍足利義教に従って嘉吉の乱で死去した先祖の一人の谷高衛は、近江六角氏の池田高雄の実子であり、そこから血統上は(六角氏の)宇多源氏佐々木氏流の流れと変わっている。

衛好は、はじめ斎藤道三に仕え、龍興までの美濃斎藤氏が滅亡した後は、織田信長に仕えて、石山戦争では天正4年(1576年)5月に武功を挙げたことから信長より感状を受けた。

信長の命令で羽柴秀吉が中国方面総司令官になるとその与力となり、天正6年(1578年)に播磨平田城6,000石の知行を与えられた[4]

天正7年(1579年)からの秀吉による三木城攻めに参加し、三木城の糧道を断つため賀伏坂に付城して、息子の衛友と共に平田城(砦)を守備した。同年9月10日、生石中務少輔を大将とする毛利勢が攻撃し、平田村で討ち死にした(平田・大村合戦)。享年50。

家督は衛友が継ぎ、江戸時代に続く山家藩・谷家の祖となった。

脚注・出典

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  1. ^ a b 堀田 1923, p. 320.
  2. ^ a b 『寛政重脩諸家譜』によると綱衛は初めは谷野氏を称して後に谷氏に改めたとある[1]。綱衛の諱は衛之ともする[3]
  3. ^ 天田郡教育会 1927, p. 121.
  4. ^ 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1973年。 

参考文献

  • 天田郡教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 天田・加佐・何鹿三郡人物誌』天田・加佐・何鹿三郡教育会、1927年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1037288/67 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 谷氏」『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、320頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/169 国立国会図書館デジタルコレクション