金子健二

曖昧さ回避 金子健司」、「金子健次」、「金子建志」、あるいは「金子憲次」とは別人です。

金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者翻訳者

経歴

1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。[1]

帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。

八雲の講義は19世紀の英詩を文学的に鑑賞するもので、金子は「先生のお言葉そのものの調子が既に詩人の感情を明らかに表現してゐた(中略)諄乎たる芸術愛好への手引きとなって、その横にひろがった多方面の趣味は少なくとも私達の一生涯にとりて非常に大きな幸福と成ったことを私は今でも感謝してゐる」[2]と絶賛しており、後に大谷繞石ら、九人の八雲の教え子とともに『小泉八雲全集』(第一書房)の翻訳を担当した。

八雲が学生の間で絶大な人気を得ていたにも関わらず解任されたことが、後任の漱石に対する学生の反感につながることとなる。当初の漱石の講義は学生にリーディングと訳をさせるもので、これも学生には不評であった。金子も「リーディングはかたっぱしから直されるので、当たった者は衆人環視の中で大きな恥辱を与えられることになった。私達は大学生から逆転して再び中学生に戻されたやうな屈辱を感じた」[3]等、随所で不満を記している。だが、次の学年から漱石がシェークスピアの講義を行うようになると評判は好転し、金子の日記にも「夏目先生の訳解は正確適切にして一点のあいまいな所なし。(中略)先生の英文解釈カは文法的に見てすばらしいものがある」[4]等、賞賛の言葉が目立つようになる。更に、「文学鑑賞への 科学的基礎観念を私の若き学徒としての胸裏に植付けられた事を今でも感謝してゐる」[5]等、学問的な師弟関係にあることを自認している。

大学卒業後、長野県飯田中学校の教諭となるが、1907年(明治40年)、同校を辞して米国に留学し、カリフォルニア大学バークレー校大学院でで、古代・中世英語を研究する。1909年(明治42年)帰国し、広島高等師範学校教授となる[1]。金子は当初、経済的余裕がないのに大学院に進学して、文壇に筆を執ろうという野心を持っていたが、漱石からまず田舎の中学の教員となって勉強し、外国へ行くための資金を貯めたほうがいいと忠告されたので、その言葉に従ったという[6]

1924年(大正13年)に在外研究員として渡欧し、欧米各国を調査研究して翌年帰国。更に1926年(大正15年)に文部省督学官となり、普通教育視察団長として満州・中国・朝鮮を視察する。1933年(昭和8年)に静岡高等学校校長に就任、1939年(昭和14年)に姫路高等学校校長に転じる。1941年(昭和16年)、日本女子高等学院(1946年より校名変更で日本女子専門学校)教授となり、1946年(昭和21年)には学校法人東邦学園理事を兼ねる。1949年(昭和24年)、日本女子専門学校が改称した昭和女子大学の初代学長に就任するとともに理事も務めた。その間、1937年(昭和12年)に勲三等を受章し、1941年(昭和16年)には従三位に叙される。[1]

著書

  • 『言葉の研究と言葉の教授』東京宝文館、1923年
  • 『英国世相史』東京宝文館、1923年
  • 『馬のくしやみ』積善館、1926年
  • 『言語哲学と言語共和国』目黒書店、1927年
  • 『北欧の海賊と英国文明』研究社、1927年
  • 『英国自然美文学の研究』泰文堂書店、1928年
  • 『ガンヂーさんの糸車』尚文堂、1931年
  • 『英語発達史』健文社、1932年
  • 『印度』湯川弘文社、1942年
  • 『巡歴詩人』湯川弘文社、1942年
  • 『東洋文化西漸史』冨山房、1943年
  • 『俳人遺墨』湯川弘文社、1943年
  • 『アメリカ文化史』弘文社、1947年
  • 『人間漱石』いちろ社、1948年

翻訳

  • マンダヴイル『東洋旅行記』大鐙閣、1919年
  • チヨーサア『カンタベリ物語』国際文献刊行会<世界奇書異聞類聚>、1926年 のち角川文庫 
  • 『ジエスタ・ローマノーラム』宝文館、1928年
  • 『英吉利中世紀物語詩集』健文社、1930年
  • 『英吉利中世詩ローマ七賢物語』健文社、1930年 
  • 小泉八雲全集 第11巻 書簡集』第一書房、1931年

脚注

  1. ^ a b c 「金子学長逝去 年譜・業績・著書・論文その他」『学苑(269)』(昭和女子大学近代文化研究所、1962年5月)
  2. ^ 金子健二『人間漱石』(共同出版社、1956年)37ー43頁
  3. ^ 金子健二『人間漱石』(共同出版社、1956年)54頁
  4. ^ 金子健二『人間漱石』(共同出版社、1956年)73頁
  5. ^ 金子健二『人間漱石』(共同出版社、1956年)65頁
  6. ^ 金子健二『人間漱石』(共同出版社、1956年)297ー298頁

 

外部リンク

  • ひろしま英学・英語教育史人物編[リンク切れ]
公職
先代
堀重里
日本の旗 静岡高等学校長
1933年 - 1939年
次代
三谷隆正
学職
先代
(新設)
昭和女子大学
1949年 - 1962年
次代
玉井幸助
神戸大学学長(姫路高等学校長:1939年 - 1941年)
  • 初代 田中保太郎 1949-1953
  • 第2代 古林喜楽 1953-1959
  • 第3代 福田敬太郎 1959-1963
  • 第4代 柚木馨 1963-1965
  • 事務取扱 国歳胤臣 1965-1966
  • 第5代 八木弘 1966-1969
  • 事務取扱/第6代 戸田義郎 1969-1971/1971-1975
  • 第7代 須田勇 1975-1981
  • 第8代 堯天義久 1981-1985
  • 第9代 新野幸次郎 1985-1991
  • 第10代 鈴木正裕 1991-1995
  • 第11代 西塚泰美 1995-2001
  • 第12代 野上智行 2001-2009
  • 第13代 福田秀樹 2009-2015
  • 第14代 武田廣 2015-2021
  • 第15代 藤澤正人 2021-
 
前身諸学校・大学長
 
姫路高等学校長
  • 小松原隆二 1923-1927
  • 山内雄太郎 1927-1934
  • 木村善太郎 1934-1939
  • 金子健二 1939-1941
  • 浅野孝之 1941-1943
  • 緒方健三郎 1943-1947
  • 事務取扱 多田斉司 1947
  • 松岡慎一郎 1947-1949
  • 荒木良雄 1949-1950
 
神戸高等工業学校長
神戸工業専門学校長
  • 古宇田実 1944-1945
  • 石原富松 1945-1946
  • 事務取扱 芳井正夫 1946
  • 田中重芳 1946-1949
  • 城野和三郎 1949-1951
 
神戸経済大学長
神戸高等商業学校長
神戸商業大学長
神戸経済大学長
 
兵庫県立医学専門学校長
  • 事務取扱/校長 小川瑳五郎 1944/1944-1946
  • 事務取扱/校長 正路倫之助 1946/1946-1951
兵庫県立医科大学長
  • 正路倫之助 1946-1952
神戸医科大学長
  • 正路倫之助 1952-1956
  • 遠藤中節 1956-1968
 
兵庫県立農科大学長
  • 事務取扱 森為三 1949
  • 三宅捷 1949-1952
兵庫農科大学長
  • 三宅捷 1952-1961
  • 佐伯秀章 1961-1969
 
私立川崎商船学校長
  • 伊東治三郎 1918-1919
  • 藤井治三郎 1919-1920
神戸高等商船学校
  • 永田泰次郎 1920-1923
  • 事務取扱 吉利巌 1923
  • 小関三平 1923-1935
  • 吉利巌 1935-1939
  • 事務取扱/校長 篠崎認三 1939/1939-1945
神戸商船大学
  • 初代 大羽真治 1952-1960
  • 第2代 小谷信市 1960-1966
  • 第3代 小田義士 1966-1969
  • 事務取扱/第4代 平勇登 1969-1971/1971-1977
  • 第5代 後藤清市 1977
  • 事務取扱/第6代 南正巳 1977-1978/1978-1982
  • 第7代 松本吉春 1982-1988
  • 第8代 前田文郎 1988-1992
  • 第9代 井上篤次郎 1992-1998
  • 第10代 原潔 1998-2003
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • ISNI
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • ドイツ
  • アメリカ
  • 日本