難波昭二郎

難波 昭二郎
1959年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 (1935-02-19) 1935年2月19日
没年月日 (2009-08-14) 2009年8月14日(74歳没)
身長
体重
173 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手二塁手三塁手外野手
プロ入り 1958年
初出場 1958年4月5日
最終出場 1962年8月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
この表について
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難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 - 2009年8月14日)は、プロ野球選手内野手)、実業家音楽プロデューサー

来歴・人物

大阪府生まれ。高槻高等学校を経て、1954年関西大学に入学。1年生の春季・秋季リーグとも規定打席不足ながら.444の高打率を挙げると[1]、2年生から四番打者を務め、関西六大学野球リーグでは1956年春季リーグ、1957年春季リーグで優勝。1年下のエース村山実とともに投打の両輪として活躍し、1956年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース島津四郎を擁する日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る[2]。リーグ通算86試合出場、283打数73安打打率.258、7本塁打。当時の本塁打リーグ記録を打ち立てた[3]。大型三塁手として関西の大学野球界を代表する選手で、同時期に東京六大学野球リーグで活躍し、同じく本塁打のリーグ記録(8本)を作った長嶋茂雄と並んで「東の長嶋、西の難波」と称された。

プロ入りに際して、難波は大学1年生の秋季シーズン終了時から誘いを受けていた中日ドラゴンズへの入団が内定していたが、長嶋の獲得見通しが立っていなかった(南海ホークスへ入団すると見られていた)読売ジャイアンツの命を受けた、関大の先輩で読売新聞運動部記者の坂本幸夫から熱心な誘いを受けて翻意。長嶋の入団が決まった後、巨人は難波に対して中日を選んでもよい旨通告したというが、難波は再翻意せずに長嶋と2人そろって巨人へ入団することになった[4][5]

1958年春季キャンプ初期の時点では、水原茂監督は二塁・難波、三塁・長嶋を構想していた[6]。しかし、長嶋の入団により三塁手から二塁手へコンバートされてきた土屋正孝との競争に敗れ、難波は代打外野手の控えとして40試合の出場に留まる。また、シーズン中には鈴木惣太郎からロサンゼルス・ドジャースへの野球留学の話が持ちかけられるが、外国での生活に対する強い抵抗感を理由に、難波はこの話を断っている[7]1959年は引退した川上哲治の後継を与那嶺要王貞治と争い、一塁手として17試合に先発出場。同年は二塁手、三塁手、外野手としても起用され、66試合に出場(うち35試合に先発)、本塁打も5本打っている。しかし、1960年に王が一塁手のレギュラーに定着すると、出場機会が半減する。1961年は土屋が国鉄スワローズへトレードされ正二塁手不在の状況となるが、藤本伸塩原明らの台頭を横目にチャンスを生かせず、わずか10試合の出場に終わった。1962年西鉄ライオンズへ移籍するが、14打席で8三振を喫するなどほとんど活躍できず、同年限りで現役を引退した。

引退後はデュプロに就職。同社で硬式野球部の設立・強化を非公式ながら[注 1]支援し、1969年には都市対抗野球大会に出場するまでに成長させる[8]

その後、パイオニアに入社していた坂本幸夫に誘われて、同社に転職[9]。後に当時傘下だったワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍、制作ディレクター・プロデューサー・営業等を務め、その後取締役に就任した。プロデューサー・ディレクター時代には、長嶋茂雄関連の音源の販売権を取得した他、さだまさし小林幸子等を担当していた[5]

2009年8月14日に心不全のため死去した[10]。満74歳没。

エピソード

長嶋茂雄本人が主人公として出演した1964年公開の映画『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』(佐伯幸三監督作品、東宝)で、難波をモデルにした登場人物を佐原健二(劇中では「波山」役。劇中、先述にあった「東の長嶋、西の波山(難波)」という台詞がある)が演じた。

長嶋との交流は引退後も続いていた[10]。長嶋関連の音源販売権を巡って各レコード会社が争奪戦を繰り広げた際、当初難波は黙って見ていた。残り数社に絞られた候補の一つにまでワーナー・パイオニアが残ってから、難波は初めて長嶋に会いに行き、「他の人より、もしかしたらぼくが売る方がいいかもしれない」とだけ伝えたところ、翌日に長嶋から応諾の返事が来たという[11]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1958 巨人 40 47 47 3 12 3 1 2 23 5 0 0 0 0 0 0 0 16 0 .255 .255 .489 .745
1959 66 139 124 11 28 2 1 5 47 17 0 1 2 0 10 0 3 39 3 .226 .299 .379 .678
1960 48 76 63 3 10 1 0 0 11 2 1 1 4 0 8 0 1 22 1 .159 .264 .175 .438
1961 10 10 8 0 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 2 0 0 2 0 .250 .400 .375 .775
1962 西鉄 15 14 13 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 8 0 .154 .214 .154 .368
通算:5年 179 286 255 18 54 7 2 7 86 25 1 2 6 0 21 0 4 87 4 .212 .282 .337 .619

記録

背番号

  • 23 (1958年 - 1961年)
  • 27 (1962年)[12]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 当時は柳川事件により、元プロ野球選手が高校生以上の学生野球(硬式・軟式とも)と社会人野球(硬式)に係わることに制限があったため、非公式な形での支援となった。

出典

  1. ^ 『巨人軍に葬られた男たち』46頁
  2. ^ 沢木耕太郎 1979, p. 71.
  3. ^ 沢木耕太郎 1979, p. 69.
  4. ^ 沢木耕太郎 1979, p. 70.
  5. ^ a b 球界の盟主・巨人軍の知られざる「黒歴史」
  6. ^ 沢木耕太郎 1979, p. 72.
  7. ^ 52頁
  8. ^ 沢木耕太郎 1979, p. 81.
  9. ^ 沢木耕太郎 1979, p. 82.
  10. ^ a b “訃報:難波昭二郎さん74歳=元プロ野球選手 - 毎日jp (毎日新聞)”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2009年8月15日). オリジナルの2009年8月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090817102340/http://mainichi.jp/select/person/news/20090816k0000m060085000c.html 2018年12月7日閲覧。 
  11. ^ 沢木耕太郎 1979, p. 83.
  12. ^ “内海が背負う「27」の不思議な縁 炭谷から受け継ぎ、巨人からの移籍組で4人目”. パ・リーグ インサイト. (2018年12月21日). https://insight.official-pacificleague.com/news/10091 2020年3月18日閲覧。 

参考文献

  • 沢木耕太郎「三人の三塁手」『敗れざる者たち』文藝春秋東京文春文庫〉、1979年9月25日。ISBN 9784167209025。 
  • 内田今朝雄『もうひとりの4番サードN: 難波昭二郎の軌跡』 (22世紀アート) 2019年4月17日。
  • 織田淳太郎『巨人軍に葬られた男たち』新潮文庫、2003年

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、難波昭二郎に関連するメディアがあります。

外部リンク

  • 個人年度別成績 難波昭二郎 - NPB.jp 日本野球機構
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • VIAF
国立図書館
  • 日本