1951年の南海ホークス
1951年の南海ホークス | |
---|---|
成績 | |
日本シリーズ敗退 | |
日本S | 1勝4敗(対巨人)[1] |
パシフィック・リーグ優勝 | |
72勝24敗8分 勝率.750[2] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市 |
球場 | 大阪球場 |
球団組織 | |
経営母体 | 南海電気鉄道 |
監督 | 鶴岡一人(山本一人) |
« 1950 1952 » | |
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1951年の南海ホークスでは、1951年の南海ホークスの動向をまとめる。
この年の南海ホークスは、鶴岡一人選手兼任監督の6年目のシーズンであり、1948年以来3年ぶり3度目のリーグ優勝に輝いたシーズンである(当時は山本一人)。
概要
鶴岡監督6年目のチームは前年入団の蔭山和夫が1番に入り、2番には木塚忠助が入るなど機動力を中心とした野球でシーズンが開幕。チームは開幕から好調で、6月まで毎日や西鉄が追いかけるもののそれ以降はゲーム差を広げていき、最終的に2位の西鉄に18ゲーム以上つける独走だった。投手陣は江藤正が24勝、柚木進が19勝、中谷信夫が14勝をあげるなど4人が2桁勝利を記録し、チーム勝ち星79勝の大部分を先発陣が稼ぎ、打撃陣もリーグ1位の.276をたたき出したほか、盗塁数も191個でリーグ1位となった。これにより、NPBシーズン最高勝率を記録している。[3]日本シリーズは因縁の巨人との対決となったが、地元・大阪球場で完封負けすると第3戦を落とし、王手をかけられるが第4戦を勝利。しかし日本一に燃える巨人の勢いに押され、1勝4敗で敗れ球団初の日本一はならなかった(その後1952年・1953年・1955年と続けて敗れ、1959年にようやく打倒巨人を実現させた)。
チーム成績
1 | 三 | 蔭山和夫 |
---|---|---|
2 | 遊 | 木塚忠助 |
3 | 右 | 笠原和夫 |
4 | 二 | 山本一人 |
5 | 一 | 村上一治 |
6 | 左 | 堀井数男 |
7 | 中 | 黒田一博 |
8 | 捕 | 筒井敬三 |
9 | 投 | 江藤正 |
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1位 | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- |
2位 | 東急 | 1.5 | 西鉄 | 3.0 | 毎日 | 9.0 | 毎日 | 13.0 | 毎日 | 14.5 | 西鉄 | 18.5 |
3位 | 西鉄 | 3.5 | 東急 | 6.0 | 西鉄 | 9.5 | 西鉄 | 14.5 | 西鉄 | 18.5 | 毎日 | 22.5 |
4位 | 近鉄 | 4.0 | 毎日 | 7.0 | 阪急 | 15.0 | 東急 | 17.0 | 阪急 | 23.5 | 大映 | 29.5 |
5位 | 毎日 | 4.5 | 近鉄 | 8.5 | 東急 | 16.0 | 大映 | 18.0 | 東急 | 24.5 | 阪急 | 31.0 |
6位 | 阪急 | 4.5 | 大映 | 9.5 | 大映 | 17.0 | 阪急 | 18.5 | 大映 | 24.5 | 東急 | 33.0 |
7位 | 大映 | 6.5 | 阪急 | 11.5 | 近鉄 | 17.5 | 近鉄 | 24.0 | 近鉄 | 31.0 | 近鉄 | 33.5 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
優勝 | 南海ホークス | 72 | 24 | 8 | .750 | --- |
2位 | 西鉄ライオンズ | 53 | 42 | 10 | .558 | 18.5 |
3位 | 毎日オリオンズ | 54 | 51 | 5 | .514 | 22.5 |
4位 | 大映スターズ | 41 | 52 | 8 | .441 | 29.5 |
5位 | 阪急ブレーブス | 37 | 51 | 8 | .420 | 31.0 |
6位 | 東急フライヤーズ | 38 | 56 | 8 | .404 | 33.0 |
7位 | 近鉄パールス | 37 | 56 | 5 | .398 | 33.5 |
日本シリーズ
日付 | 試合 | ビジター球団(先攻) | スコア | ホーム球団(後攻) | 開催球場 | ||
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10月10日(水) | 第1戦 | 読売ジャイアンツ | 5 - 0 | 南海ホークス | 大阪球場 | ||
10月11日(木) | 第2戦 | 読売ジャイアンツ | 7 - 0 | 南海ホークス | |||
10月12日(金) | 移動日 | ||||||
10月13日(土) | 第3戦 | 南海ホークス | 2 - 3 | 読売ジャイアンツ | 後楽園球場 | ||
10月14日(日) | 第4戦 | 雨天中止 | |||||
10月15日(月) | |||||||
10月16日(火) | 南海ホークス | 4 - 3 | 読売ジャイアンツ | ||||
10月17日(水) | 第5戦 | 南海ホークス | 2 - 8 | 読売ジャイアンツ | |||
優勝:読売ジャイアンツ(初優勝) |
オールスターゲーム1951
詳細は「1951年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 選出選手
ポジション | 名前 | 選出回数 |
---|---|---|
投手 | 江藤正 | 初 |
柚木進 | 初 | |
捕手 | 筒井敬三 | 初 |
一塁手 | 飯田徳治 | 初 |
二塁手 | 山本一人 | 初 |
遊撃手 | 木塚忠助 | 初 |
内野手 | 蔭山和夫 | 初 |
- 太字はファン投票による選出。オールスター戦はこの年から開催されたため、全員初選出。
できごと
- 3月31日:パ・リーグ開幕。だが開幕直前にパ・リーグ選抜メンバーに選ばれ、ハワイに遠征していた飯田徳治選手は、帰国が遅れて開幕に間に合わず4戦を欠場したが、「公休」扱いされたため、1948年9月12日の対金星戦以来継続している連続試合出場に影響はなかった。
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
山本一人 | 最高殊勲選手 | 3年ぶり3度目 | |
蔭山和夫 | 新人王 | ||
飯田徳治 | 打点王 | 87打点 | 初受賞 |
木塚忠助 | 最多安打 | 130本 | 初受賞 |
盗塁王 | 55個 | 3年連続3度目 | |
柚木進 | 最優秀防御率 | 2.08 | 初受賞 |
江藤正 | 最多勝利 | 24勝 | 初受賞 |
中谷信夫 | 最高勝率 | .875 | 初受賞 |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
江藤正 | 投手 | 初受賞 |
飯田徳治 | 一塁手 | 2年連続2度目 |
山本一人 | 二塁手 | 初受賞 |
蔭山和夫 | 三塁手 | 初受賞 |
木塚忠助 | 遊撃手 | 4年連続4度目 |
脚注
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セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
優勝 | 読売ジャイアンツ | 2位 | 名古屋ドラゴンズ | 優勝 | 南海ホークス | 2位 | 西鉄ライオンズ |
3位 | 大阪タイガース | 4位 | 松竹ロビンス | 3位 | 毎日オリオンズ | 4位 | 大映スターズ |
5位 | 国鉄スワローズ | 6位 | 大洋ホエールズ | 5位 | 阪急ブレーブス | 6位 | 東急フライヤーズ |
7位 | 広島カープ | 7位 | 近鉄パールス | ||||
:日本一 :日本シリーズ出場 | |||||||
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各年の福岡ソフトバンクホークス | |
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1930年代 | |
1940年代 | |
1950年代 | |
1960年代 | |
1970年代 | |
1980年代 | |
1990年代 | |
2000年代 | |
2010年代 | |
2020年代 | |
1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |
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1950年代 | |
1960年代 | |
1970年代 | |
1980年代 | |
1990年代 | |
2000年代 | |
2010年代 | |
2020年代 |
この項目は、野球に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球/P野球)。 |
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