アンデシュ・ソーン
アンデシュ・ソーン Anders Zorn | |
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『自画像』(1915年) | |
本名 | Anders Leonard Zorn |
誕生日 | (1860-02-18) 1860年2月18日 |
出生地 | ムーラ |
死没年 | 1920年10月31日(1920-10-31)(60歳) |
死没地 | ストックホルム |
国籍 | スウェーデン |
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アンデシュ・ソーン(アンデルス、アンデースとも、Anders Leonard Zorn、1860年2月18日 - 1920年8月22日)は、スウェーデンの画家、彫刻家、エッチング版画家。
生涯
ダーラナ地方、シリアン湖のほとりの村ムーラ (en) 生まれ。祖父母に育てられる。
1875年から1880年までストックホルムのスウェーデン王立芸術アカデミーで学ぶ。1881年からの4年間はイングランドやスペインなどで学ぶが、毎年夏には地元ムーラに戻ってきていた。1885年にエマ・ラムと結婚し、その後の11年間はイングランドやパリで過ごす。
スウェーデンの同年代の画家の中では最も早く頭角を現し、滞在中のパリでは知名度も高く、画家エドゥアール・マネと幼なじみの政治家アントナン・プルーストと親交もあった。1889年に開催されたパリ万国博覧会の展示会には、友人でありライバルでもある画家カール・ラーションと共に作品を出展し、グランプリの受賞も期待されるほどであった。(実際はリッカルド・ベリがグランプリをとり、ソーンとラーションは次点の金賞を分け合った。)なお、スウェーデンの資産家ポントゥス・フュシュテンベリーはソーンやラーションらのパトロンであり、彼の援助を受けて2人は万博に出席することもできた[1]。
ムーラにあるソーンの家は現在美術館「Zorngården (en)」として公開されている。住人の必要性と発想によって増築や改築を重ねたその家には、ラーションの家リッラ・ヒュットネースとの類似点がみられる[2]。
2010年6月3日、1886年に描かれたソーンの水彩画『Sommarnöje(Summer Delight)』が2,600万クローネで落札された。これはスウェーデンの美術史上で最も高値で取引された絵である。[3]
主な作品
- 『自画像』(1882年)
- Castles in the Air(1885年)
- ロシタ・マウリ(1888年)
- Lilla bryggeriet(1890年)
- 『ハンブルクの港』(1891年)
- Sunday morning(1891年)
- A Toast in the Idun Society(1892年)
- Omnibus I(1892年または1895年)
- 『自画像』(1896年)
- Midsummer Dance(1897年)
- 『ヘンリー・クレイ・ピアース』(1899年)
- A Musical Family(1905年)
- 『カール・フレデリク・リレバルチ』(1906年)
- 『湯浴みするダーラナの少女たち』(1906年)
- Dans i Gopsmor(1906年)
- 『ブルーノ・リリエフォッシュ』(1906年)
- 『エウシェン王子』(1910年)
- In Werner's Rowing Boat(1917年)
- Jollen(1918年)
- Home Tunes(1920年)
Zorngården
- ソーンの家(美術館として公開)
- 美術館内部
- ソーンのアトリエ、ムーラ
脚注
関連項目
- en:Zorn Collections (英語)
- イーヴァル・クルーガー - ソーンの作品をコレクションしていたスウェーデン人実業家
参考文献
外部リンク
- Anders Zorn (英語)
- オンライン・ギャラリー (英語)
- Zorn コレクションズ (英語)
- "Anders Zorn"、芸術家 Robert Genn による小論 (英語)
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