シュムクル

シュムクル(スムンクル、アイヌ語: sum-un-kur)とは、胆振から日高北部にかけての太平洋沿岸地域に居住するアイヌ民族集団の名称。17世紀には東で接するメナシクルと抗争を繰り広げたことで知られるが、その指し示す範囲については諸説ある。

その本拠地(沙流郡波恵村)から、ハエクル(ハイクル,アイヌ語: hay-kurサルンクル(アイヌ語: sar-un-kurという名称でも知られる[注 1]

定義

シャクシャイン時代の北海道

アイヌ語で「西の人」の意である[2][3][4]。「スム[・レラ]」は本来「西風」を意味する単語で、太平洋岸のアイヌが河川を境として西風が吹いてくる方角(=西)を「スム(シュム)」と呼んだことから、転じて「西」を意味する名詞となった[5]

「スム(シュム)」という言葉は日高東部や道東一帯の地名において多く用いられており、本来は広域を指す名称ではなかった。シャクシャインの戦いの頃は首長オニビシに率いられた「ハエクル(ハイクル)」という集団がおり、これが後のシュムクルに繋がる集団であると見られる[注 2]

松前矩広による『正徳五年松前志摩守差出候書付』(1715年)では、アイヌの集団の一つとして「シモクル」をあげ、アイヌ語で「西衆」を意味するとしている[6]。蝦夷通辞の上原熊次郎は、著書『蝦夷地名考并里程記』における「シビチヤリ」の項において、「ニイガプよりシラヲイ辺まての蝦夷をシユムンクルといふ」としており、名称について「西のもの」という意味であるとしている[7]。この記述によると、新冠から白老周辺にかけての太平洋沿岸地域がシュムクルの居住範囲ということになる。

アイヌが土葬墓に立てるクワ(墓標)には地域ごとに違いがある。各地の墓標を調査した河野広道によると、当時静内から千歳・室蘭にかけての一帯にサルンクル型[注 3]の墓標が分布していた。東端の静内ではメナシクル型の墓標と混在しており、また室蘭より西の有珠においてもサルンクル型の墓標が混在していた。男性の墓標は矢尻のような形状であり、また女性の墓標は上部に穴があけられ、針の頭のような形をした太い木であるという。またサルンクルについて、墓制のほか伝承や風習の面でも隣接するアイヌ集団と大きく異なる特徴を持つとしている[8]

歴史

10世紀以後、北海道太平洋沿岸地域にはカムチャッカ半島千島列島に繋がる「太平洋交易集団」が成立しており、和人からは「東の方角の者」の意で「日の本」と呼称された。この「太平洋交易集団」の一部がシュムクルの先祖になったと見られる[9]

シュムクルは「祖先は本州から移住してきた」という他のどのアイヌも持たない独自の始祖伝承を有しており、本州から移住してきた奥羽アイヌを核として成立した集団ではないかと考えられている[10]

シュムクルは次第に東で接するメナシクルと対立するようになり、1653年にはハエクルの首長オニビシ[注 4]がメナシクル首長カモクタインを殺害するという事件が起こった。カモクタインの後を継いだシャクシャインはオニビシを殺害し、更に松前への攻撃を計画したが敗れ、謀殺された(シャクシャインの戦い)。

シャクシャインの戦い以後、場所請負制の下で松前藩によるアイヌ民族の統制は強化され、シュムクルもオニビシのような首長を生む余地はなくなった。近現代北海道においてアイヌ民族の人口密集率が高いのは胆振・日高地方であるが、これはシュムクルがメナシクル・石狩アイヌなどと比べ松前藩に友好的であったためではないか、とする説がある[11]

脚注

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注釈

  1. ^ 「シュムクル」「ハエクル」「サルンクル」という集団が同一の存在であるという指摘は海保嶺夫によって為されたものであるが、これらの用語は本来全く異なる文脈で語られてきたものであって、安易に同一視してはならないと大井晴男は批判している(大井(1992), p. 52-54)。また、平山裕人は海保嶺夫の論考を引用した上で、「シュムクル」という集団について「実際にはハエクル、シュムクルという言葉は当時存在していない」と述べている[1]
  2. ^ 大井晴男は「シュムクル(胆振東部〜日高北部に居住する集団)」がオニビシの下で政治的に統一されていたという説に疑問を呈し、実際のオニビシの勢力範囲は波恵川・新冠川流域に限られると論じた。その上で、オニビシの直接の配下であった「ハエクル(狭義の集団)」と、同じ文化を共有する「シュムクル(広域集団)」は区別しなければならない、と指摘している(大井(1992), p. 52-54)。
  3. ^ この「サルンクル」という分類の名称は河野が命名したもので、本来は「サル(沙流川一帯)の人」を意味するアイヌ語である。なお河野は、有珠などの内浦湾沿岸や石狩湾周辺に分布する墓標をシュムクル型と分類しており、上述の上原熊次郎とは異なる集団に対してシュムクルという語を用いている。
  4. ^ 海保嶺夫らはオニビシが胆振〜日高北部一帯を統べる大首長であったと想定するが、大井晴男・平山裕人らはオニビシの勢力はより限定されたものであったと想定する。

出典

  1. ^ 平山2016、188頁
  2. ^ 『シュムクル』 - コトバンク
  3. ^ 『シャクシャイン』 - コトバンク
  4. ^ 尾本惠市「先住民族と人権(1) : アイヌと先住アメリカ人」『桃山学院大学総合研究所紀要』第29巻第3号、桃山学院大学総合研究所、2004年2月、101-120頁、CRID 1050845762517964288、ISSN 1346-048X。 
  5. ^ 児島1996、137-139頁
  6. ^ 高倉新一郎編『犀川会資料 北海道史資料集』北海道出版企画センター、1982年、142頁。
  7. ^ 蝦夷地名考並里程記(21枚目の画像) 東京国立博物館デジタルライブラリー
  8. ^ 河野(1932), p. 137,139.
  9. ^ 瀬川(2007), p. 250-254.
  10. ^ 大井1995、101-102頁
  11. ^ 海保(1974), p. 104.

参考文献

  • 大井晴男『「シャクシャインの乱(寛文九年蝦夷の乱)」の再検討』北海道大学文学部附属北方文化研究施設、1992/1995。 NCID BA34837409。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1130000796472929024 
  • 海保嶺夫『日本北方史の論理』雄山閣出版、1974年。doi:10.11501/9490624。NDLJP:9490624。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001218869 
  • 河野廣道「アイヌの一系統サルンクルに就て」『人類學雜誌』第47巻第4号、日本人類学会、1932年、137-148頁、doi:10.1537/ase1911.47.137。 
    • 「訂正」『人類學雜誌』第47巻第5号、1932年、188-188頁、doi:10.1537/ase1911.47.5_188。 
  • 児島恭子「『えぞが住む』地の東漸:メナシとは何か」北海道・東北史研究会編『メナシの世界』北海道出版企画センター、1996年
  • 瀬川拓郎『アイヌの歴史 : 海と宝のノマド』講談社〈講談社選書メチエ〉、2007年。ISBN 9784062584012。国立国会図書館書誌ID:000009182993。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009182993 
  • 平山裕人『アイヌ史を見つめて』北海道出版企画センター、1996年
  • 平山裕人『シャクシャインの戦い』寿郎社、2016年
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