バスビー・バークレー

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Busby Berkeley
バスビー・バークレー
バスビー・バークレー
1935年頃のバスビー・バークレー
本名 ウィリアム・バークレイ・イーノズ
(William Berkeley Enos)
別名義 バズ (Buzz)
生年月日 (1895-11-29) 1895年11月29日
没年月日 (1976-03-14) 1976年3月14日(80歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州パームデザート
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 コレオグラファー映画監督
ジャンル 舞台映画
活動期間 1927年 - 1971年
活動内容 1900年 5歳で初舞台
1925年 ブロードウェイで舞踊監督
1930年 映画界に進出
1933年 監督デビュー
配偶者 エスター・ミューア 1929年 - 1931年
マーナ・ケネディ 1934年 - 1936年
クレア・ジェイムズ 離婚
マイラ・ステッフェンズ 離婚
マーグ・ペンバートン 1945年 - 1945年
エッタ・ダン 1958年 - 1976年
主な作品
コレオグラファー
四十二番街
フットライト・パレード
踊る三十七年
監督
ゴールド・ディガース36年
私を野球につれてって
 
受賞
アカデミー賞
1936年 第8回アカデミー賞舞踊監督賞
ゴールド・ディガース36年
1937年 第9回アカデミー賞舞踊監督賞
踊る三十七年
1938年 第10回アカデミー賞舞踊監督賞
大学祭り
その他の賞
1971年 第21回ベルリン国際映画祭UNICRIT小像
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バスビー・バークレーBusby Berkeley1895年11月29日 - 1976年3月14日[1])は、アメリカ合衆国ミュージカルコレオグラファー映画監督である。

幾何学模様の複合的なパターンの複雑なミュージカル演出を考案した。大勢のショーガールを多用し、映像の中で万華鏡のようなファンタジックな世界を作り出した。

人物・来歴

1895年(明治28年)11月29日、アメリカ合衆国、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。

1900年(明治33年)、演劇一家の家族の劇団で、5歳で初舞台を踏む。第一次世界大戦では、野戦砲隊の中尉として従軍した。1920年代にはブロードウェイで舞踊監督として20本以上の舞台で活躍し、1925年(大正14年)には『ホルカ・ポルカ』のコレオグラファーとしてクレジットされている。

ロイド・ベーコン監督作『フットライト・パレード』(1933年)

1930年(昭和5年)、映画界に進出、サミュエル・ゴールドウィン・スタジオで製作されたソーントン・フリーランド監督のミュージカル・コメディ映画『ウーピー』の舞踊演出をする。1933年(昭和8年)には、ジョージ・エイミーとの共同監督作『シー・ハド・トゥ・セイ・イエス』で映画監督としてデビューした。1936年(昭和11年)から3年連続で、アカデミー賞ダンス監督賞を受賞している。

1954年(昭和29年)のマーヴィン・ルロイ監督の『ローズ・マリー』を振付演出した以降は、ブロードウェイに戻り、もともとの舞台の演出に腕を振るった。映画界での最後の仕事は、1962年(昭和37年)、チャールズ・ウォルターズ監督の『ジャンボ』であった。

1976年(昭和51年)3月14日、カリフォルニア州パームスプリングスで死去した。満80歳没。

生い立ち

1895年11月29日、アメリカ合衆国、カリフォルニア州ロサンゼルスにて父フランシス・イーノズと母で舞台女優のガートルード・バークレー(1864年 - 1946年)のもとに生まれた。バークレーが8歳の時に父が亡くなった。フランシスが運営する劇団ティム・フローリーズ・ストックにガートルードの友人たちが所属しており、うち2人にちなんで名付けられた。女優エイミー・バズビーから「バズ」、「バズビー」の呼び名を得て[2][3]シャーロック・ホームズ役を演じた俳優ウィリアム・ジレットから「ウィリアム」を得て「バズビー・バークレー・ウィリアム・イーノズ」[4]、また一説によると「バズビー」をニックネームに「バークレー・ウィリアム・イーノズ」と名付けられた[2][5]。出生証明書の幼名欄は空白であった[4]

バークレーがまだ子供の頃、ガートルードは舞台だけでなくサイレント映画でも母親役を演じていた。バークレーは5歳の頃に舞台デビューした。1917年、バークレーはマサチューセッツ州アソルに住み、広報営業の職に就いていた[6]第一次世界大戦中、バークレーは野戦砲隊中尉となり、1,200名の兵士の複雑な訓練を指揮した[7]

キャリア

初期

1920年代、バークレーはヒット作『A Connecticut Yankee』など20作前後のブロードウェイ・ミュージカルのダンス演出を行っていた。振付師として、バークレーはコーラスガールたちのダンスのスキルはあまり問題にせず、力量に合わせて魅力的な幾何学模様のフォームを形作った。バークレーの振り付けた楽曲はブロードウェイにおいて最大かつ最も訓練されたものであった[8][9]

初期の映画作品ではサミュエル・ゴールドウィンによるエディ・カンターのミュージカルにおいて、コーラスガール個々の顔に次々とクローズアップする「parade of faces」、舞台中あるいは舞台外にもダンサーを動かし万華鏡のようなパターンを形作るなどの技術を向上していった[10] 。バークレーの万華鏡のような演出を頭上から撮影する技術は、カンターの出演作や、1932年のユニバーサル・ピクチャーズドラマ映画夜の世界』の楽曲『Who's Your Little Who-Zis?』でみられるように独創的で影響力のあるものであった。

革新的な振付

バークレーの振付曲の定番は、舞台の領域内で始まるが、すぐに撮影におさまる範囲でその領域を出て、拍手をする観客が映りカーテンが降りる。通常は4台のカメラを使用するが、バークレーは自身のビジョンをコントロールするため1台のカメラで成し遂げるため、監督はそれを編集することができなかった[11]。振付師としてバークレーはミュージカル曲の演出を独立して進めることに同意されており、映画の筋書きから大幅にずれることも多かった。バークレーは映画の他のシーンをほとんど見ていなかった[11]。バークレーが振り付けた曲は多くがアップビートで、要旨に反して美しさに焦点を当てたものであり、そのコストは1分間で1万ドル前後となり、映画の予算を越えることもあった[11]。ほぼ唯一の例外は『ゴールド・ディガース』の戦争にまつわる切ない楽曲『Remember My Forgotten Man』で、世界恐慌のさなか、第一次世界大戦退役軍人への不当な扱いに抗議の意を込められた。

バークレーはワーナー・ブラザースの5作品、『四十二番街』、『フットライト・パレード』、『ゴールド・ディガース』、『泥酔夢』、『流行の王様』およびドロレス・デル・リオの『カリアンテ』、『ワンダー・バー』を掛け持ち、バークレーの人気は不況でエンタメに飢えていた人々から支えられていた。バークレーは常に演出に深い意味はないとし、自身の目標は常にトップでいることであり、過去の作品は再演しないと主張していた。

バークレーの壮大な演出は次第に流行遅れとなり、ストレートの監督も行なった。この結果、1939年の『ゼイ・メイド・ミー・ア・クリミナル』はジョン・ガーフィールドの最高ヒット映画の1つとなった。この作品はバークレーにとって唯一のミュージカルでない監督映画となった[12]。バークレーはジュディ・ガーランドなどメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのスターたちと不仲であることで知られる。1943年、ガーランドとの不仲により『ガール・クレイジー』を解雇となった。ただし収録済みであった楽曲『アイ・ガット・リズム』はそのまま作品に残った[13]

1943年、『バズビー・バークリーの集まれ!仲間たち』のカルメン・ミランダ

1943年、20世紀フォックスの『バズビー・バークリーの集まれ!仲間たち』でカルメン・ミランダの楽曲『Lady in the Tutti-Frutti Hat』の振付を行なった。興行的に成功したが、バークレーとフォックス上層部は製作費の問題で合意できなかった[9]。1940年代後期、バークレーはMGMに戻り、テクニカラー時代の終盤でエスター・ウィリアムズの作品など多くの傑作を製作した。バークレーのコレオグラファーとしての最後の作品は1962年、MGMの『ジャンボ (映画)(英語版)』となった。

後年

1960年代後期、キャンプの流行により、バークレーのミュージカルは再び脚光を浴び、各地の大学で講義を行なった。「Gold Diggers of 1933」をもじった「"Cold Diggers of 1969"」として風邪薬であるコンタック・カプセルの1930年代風コマーシャルの監督を行ない、時計の針に見立てたダンサーたちを頭上から撮影した[14]。75歳となったバークレーはブロードウェイに復帰し、『ノー・ノー・ナネット』再演の演出をし、ワーナー時代の同僚で『四十二番街』のスターであるルビー・キーラーが主演しヒットした。1970年、バークレーとキーラーは映画『The Phynx』にカメオ出演した。

私生活

バークレーは6回結婚した[15]。その中には女優マーナ・ケネディエスター・ミューア、エッタ・ダンがいる。1938年、愛情のもつれによりキャロル・ランディスに関わる訴訟を起こされた。ロレイン・スタインとは婚約はしたが結婚にはいたらなかった[16]

バークレーは飲酒を好み、しばしば風呂に浸かりながらマティーニを飲んでいた。母親が亡くなると仕事に身が入らなくなり、自殺未遂を企て、1946年7月、睡眠薬を過剰摂取し手首を切った[17]。長期入院し、精神状態に大きな影響が出た[18]

1935年9月、バークレーは交通事故を起こし、5人が怪我をし、2人が亡くなった[19]。バークレーは負傷し、法廷に向かう際ストレッチャーに載せられた[20]。『タイム』誌によると、以下の証言によりバークレーは表情を曇らせた。「目撃者は、ある夜ロサンゼルス郡のルーズベルト・ハイウェイで運転者のバークレーが速度を落とし、車線を変えた時に1台の車に衝突し、他の車に横から衝突した。他の目撃者はバークレーから酒の匂いがしたと語った[19]」。

最初の2回の裁判では求刑第二級殺人であったが評決不能陪審で終了し、3回目の裁判で罪を逃れた。

1976年3月14日、80歳でカリフォルニア州パームスプリングスで自然死した[21]。カリフォルニア州カセドラルにあるデザート・メモリアル・パークに埋葬された[1][22]

レガシー

1988年、全米ダンス殿堂博物館に殿堂入りした。

ブロードウェイ

  • 『コネチカット・ヤンキー』 A Connecticut Yankee(1927年)(コレオグラファー)
  • フーピーWhoopee!(1928年)(コレオグラファー)
  • ノー・ノー・ナネットNo, No, Nanette(1971年)(production supervisor)

フィルモグラフィ

関連項目

  • Busby Berkeley using alternate takes to circumvent censorship

脚注

  1. ^ a b Palm Springs Cemetery District, "Interments of Interest"
  2. ^ a b Joseph F. Clarke (1977). Pseudonyms. BCA. p. 112 
  3. ^ Amy Busby portrait gallery; New York Public Library Retrieved April 28, 2015
  4. ^ a b Spivak, Jeffrey, Buzz, The Life and Art of Busby Berkeley (University Press of Kentucky, 2010), pp. 6–7.
  5. ^ “Busby Berkeley – Hollywood's Golden Age”. 2021年12月12日閲覧。
  6. ^ U.S., World War I Draft Registration Cards, 1917–1918 for Busby Berkeley Enos
  7. ^ Spivak, Jeffrey (2010-11-29) (英語). Buzz: The Life and Art of Busby Berkeley. University Press of Kentucky. ISBN 978-0-8131-4008-7. https://books.google.com/books?id=3_VzEl8irxcC&q=Second+lt.+busby+berkeley+military++drills&pg=PT58 
  8. ^ Spivak, Jeffrey (2011). Buzz : the life and art of Busby Berkeley. Lexington: University Press of Kentucky. ISBN 9780813126449. OCLC 703155214 
  9. ^ a b Rubin, Martin (1993). Showstoppers : Busby Berkeley and the tradition of spectacle. New York: Columbia University Press. ISBN 0231080549. OCLC 26930276 
  10. ^ Mackrell, Judith (2017年3月23日). “A kaleidoscope of legs: Busby Berkeley's flamboyant dance fantasies” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/stage/2017/mar/23/busby-berkeley-dance-42nd-street-choreography-film-musicals 2018年12月10日閲覧。 
  11. ^ a b c Turan, Kenneth (2008年8月1日). “Busby Berkeley's dance numbers are still eye-popping” (英語). Los Angeles Times. ISSN 0458-3035. http://articles.latimes.com/2008/aug/01/entertainment/et-busby1 2018年12月10日閲覧。 
  12. ^ McGrath, Patrick J. (2006-08-23) (英語). John Garfield: The Illustrated Career in Films and on Stage. McFarland. ISBN 978-0-7864-2848-9. https://books.google.com/books?id=YfRpu4IB89AC&q=they+made+me+a+criminal+busby+berkeley&pg=PA22 
  13. ^ Hugh Fordin, The World of Entertainment: The Freed Unit at MGM, 1975
  14. ^ Kenneth., Roman (2009). The king of Madison Avenue : David Ogilvy and the making of modern advertising (1st ed.). New York: Palgrave Macmillan. ISBN 9781403978950. OCLC 256763859. https://archive.org/details/kingofmadisonave00roma 
  15. ^ Hanley, Robert (1976). "Busby Berkeley, the Dance Director, Dies", in the New York Times, March 15, 1976, p. 33
  16. ^ Fleming, E.J. (2005). Carole Landis: A Tragic Life in Hollywood. Jefferson, N.C.: McFarland and Co. ISBN 978-0-7864-2200-5, p. 49
  17. ^ “1583 Alvito Way 18Jul1946 Busby Berkeley Suicide Attempt p1”. Los Angeles Times: pp. 2. (1946年7月18日). https://www.newspapers.com/clip/42539658/1583-alvito-way-18jul1946-busby/ 2020年2月25日閲覧。 
  18. ^ Spivak, Jeffrey, Buzz, The Life and Art of Busby Berkeley (University Press of Kentucky, 2010), p. 221.
  19. ^ a b People, Sep. 30, 1935, from Time magazine
  20. ^ Choreographer and film director Busby Berkeley being carried into his manslaughter trial on a stretcher, a Los Angeles Times photo from the website of the UCLA Charles E. Young Research Library
  21. ^ Johns, Howard, (2004). Palm Springs Confidential: Playground of the Stars. Fort Lee, New Jersey: Barricade Books. ISBN 1-56980-297-1
  22. ^ Brooks, Patricia; Brooks, Jonathan (2006). “Chapter 8: East L.A. and the Desert”. Laid to Rest in California: a guide to the cemeteries and grave sites of the rich and famous. Guilford, CT: Globe Pequot Press. pp. 240–2. ISBN 978-0-7627-4101-4. OCLC 70284362 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、Busby Berkeleyに関連するカテゴリがあります。
  • バスビー・バークレイ - allcinema
  • バスビー・バークレー - KINENOTE
  • バスビー・バークレー - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語) ウィキデータを編集
  • バスビー・バークレー - IMDb(英語)
  • バスビー・バークレー - TCM Movie Database(英語) ウィキデータを編集
  • バスビー・バークレー - オールムービー(英語)
  • "バスビー・バークレー". Find a Grave. 1 January 2001. 2011年6月29日閲覧 ウィキデータを編集
  • Hooray for Hollywood: Busby Berkeley
  • Busby Berkeley at Classic Movie Favorites Tribute site: galleries, bio, filmography and more.
  • Contac capsule cold commercial "Cold Diggers of 1969".
  • Busby Berkeley Collection includes mainly correspondence between Busby Berkeley and Gen Genovese, held by the Jerome Lawrence and Robert E. Lee Theatre Research Institute, The Ohio State University Libraries.
バスビー・バークレー
ブロードウェイ
振付作品
  • コネチカット・ヤンキー(1927)
  • プレゼント・アームズ (ミュージカル)(英語版)(1928)
  • スウィート・アンド・ロウ (ミュージカル)(英語版)(1930)
監督映画作品
振付映画
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