ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国

曖昧さ回避 ヘルツェグ=ボスナ」はこの項目へ転送されています。「ヘルツェグ=ボスナ県」と通称される、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県については「第十県」をご覧ください。
ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国
Hrvatska Republika Herceg-Bosna
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国 (1990年-1992年) 1992年 - 1994年 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
Herceg-Bosnaの国旗 Herceg-Bosnaの国章
(国旗) (国章)
Herceg-Bosnaの位置
公用語 クロアチア語
首都 モスタル(名目上の首都)、グルデ(事実上の首都)
大統領
xxxx年 - xxxx年 マテ・ボバン
変遷
自治区成立宣言 1991年6月25日
分離1992年4月27日
ワシントン合意により消滅1994年3月18日
時間帯UTC 中央ヨーロッパ時間DST: 中央ヨーロッパ夏時間

ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国(ヘルツェグ=ボスナ・クロアチアじんきょうわこく、クロアチア語:Hrvatska Republika Herceg-Bosna)は、1990年代の前半にボスニア・ヘルツェゴビナの中で分離を宣言し、事実上独立していた国家。ボスニア紛争における分離主義の動きの中で、国際的承認のないまま1991年から1994年まで存続した。モスタルを首都と定めたものの、そこは政治情勢が安定しなかったため、実際の政府はモスタルから西に19km離れていて政治的に安定していたグルデに置かれた。その後のワシントン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナ連邦へと併合された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦ののひとつである第十県はこの国と同じ「ヘルツェグ=ボスナ県」を名乗っている。しかしながら、この名前は連邦憲法裁判所により憲法違反とされた(理由のひとつとして、第十県の領域はヘルツェゴヴィナ地方にはまったく及んでいないことが挙げられる)。それでもなおヘルツェグ=ボスナの呼称はこの県をさして広く用いられている。

なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。

歴史

クロアチアの与党であったクロアチア民主同盟(HDZ)は、ボスニア・ヘルツェゴビナに支部であるクロアチア民主同盟(HDZBiH)を組織して支配した。1991年末、HDZBiHの中では、より過激な分子がマテ・ボバン(Mate Boban)、ダリオ・コルディッチ(Dario Kordić)らの指導と、クロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの支援の下、党を支配するようになった。

1991年11月18日、HDZBiHの過激分子は、マテ・ボバンやダリオ・コルディッチらの指導の下、ボスニア・ヘルツェゴビナの領内に「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体」の存在を宣言し、これを政治的・文化的・経済的・領土的すべてにおいて独立した存在であるとした。マテ・ボバンやダリオ・コルディッチらは後に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)に戦争犯罪人として訴追されている人物である。クロアチア人の支配者によってボシュニャク人の民間人に対して行われた民族浄化人道に対する罪、および戦争犯罪に関して、HDZは「ヘルツェグ=ボスナ」域内の各自治体で大きな影響力を持った。

1991年11月にヘルツェグ=ボスナが成立してから、特に1992年5月にヘルツェグ=ボスナの指導者が地域の支配権を確立し、ヘルツェグ=ボスナの領域とされた各地域における「クロアチア化」(民族浄化)を推進するようになってから、非クロアチア人(ボシュニャク人など)に対する直接的な差別と弾圧が激化した。クロアチア防衛評議会(HVO、en:Croatian Defence Councilen)はクロアチア人によって結成された軍事組織であり、領域内の自治体の政府とサービスを支配下に置き、ボシュニャク人の指導者を追放するか社会の隅へ追いやった。ヘルツェグ=ボスナの当局とクロアチア人の武装勢力はメディアを支配し、クロアチア人意識を喧伝しプロパガンダを流布した。地域にはクロアチアの紋章や通貨が導入され、クロアチアの教育とクロアチア語が学校に導入された。多くのボシュニャク人やセルビア人は当局や経済活動から追放され、生活保護もセルビア人やボシュニャク人には不利なように配分された。ボシュニャク人一般に対する嫌がらせが増加した。多くの人々が強制収容所(ヘリドロム Heliodrom、ドレテリ Dretelj、ガベラ Gabela、ヴォイノ Vojno、シュニェ Šunje など)へ送られた。

地元のHDZ指導者らはボスニア・ヘルツェゴビナを民族別に3分割するジュネーヴ和平交渉に呼ばれたものの、ボシュニャク人側が1993年8月28日にこれを拒絶した。これ以降、ヘルツェグ=ボスナは自身をヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国と称するようになった。ボスニア・ヘルツェゴビナや国際社会はヘルツェグ=ボスナを国家として承認したことはない。ボスニア・ヘルツェゴビナの憲法裁判所は1992年9月14日にこれを違憲と判断し、1994年1月20日に再度違憲とした。

ヘルツェグ=ボスナの指導者ヤドランコ・プルリッチ(Jadranko Prlić)、ブルノ・ストイッチ(Bruno Stojić)、スロボダン・プラリャク(Slobodan Praljak)、ミリヴォイ・ペトコヴィッチ(Milivoj Petković)、ヴァレンティン・チョリッチ(Valentin Ćorić)、ベリスラヴ・プシッチ(Berislav Pušić)は、人道に対する罪、ジュネーヴ条約に対する重大な違反、戦時法・慣習に対する違反によって旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に訴追された。

戦争と平和報道機関(Institute for War and Peace Reporting, IWRP)によると、フラニョ・トゥジマンとヘルツェグ=ボスナ指導者の間の密談の記録から、ボスニア・ヘルツェゴビナを完全に解体し、セルビアとの間で同国を分割する意図があったことが分かる[1]

その後の立場

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後も、ヘルツェグ=ボスナを同国の第3の構成体として復活させようとする動きがある。これは2005年ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会のイヴォ・ミロ・ヨヴィッチ(Ivo Miro Jović)の元で始まり、ヨヴィッチは「ボスニアのセルビア人を非難する意図はないが、彼らがセルビア人共和国(スルプスカ共和国)を持つことができるのなら、我々もクロアチア人共和国とボシュニャク人共和国を作るべきだ」と述べた[2]。 その後、大統領評議会のクロアチア人代表となったジェリコ・コムシッチはこの考えを広めることはしていないものの、なお多くのクロアチア人の政治家の間には、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内にクロアチア人国家を求める立場を主張している[3]

ボスニア・ヘルツェゴビナの主要なクロアチア人政党である「ボスニア・ヘルツェゴビナ・クロアチア人民主連合」(HDZBiH)の党首ドラガン・チョヴィッチ(Dragan Čović)は、次のように述べている。

全てのクロアチア人政党はやがて、ボスニア・ヘルツェゴビナを民族ごとの構成体に分断し、サラエヴォをそのいずれにも属さない地区とすることを提案することになるだろう。クロアチア人の政治家はみな、クロアチア人に対して他の民族と完全に対等の権利を保障するための憲法改正を目指さなければならない。すべての構成体は独自の立法府、行政府、司法機関を有することになる。

チョヴィッチはまた、次のようにも述べている。

現行の2構成体からなる体系では、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(クロアチア人とボシュニャク人主体の構成体)の枠内でボシュニャク人によるクロアチア人の同化・基本権の剥奪から守ることができない[4]

スルプスカ共和国の首相ミロラド・ドディク(Milorad Dodik)はそのような運動を支持すると発言している。

勢力分布の変遷

  • ボスニア・ヘルツェゴビナにおける、1961年時点での民族分布。南西部にクロアチア人の人口が多い
    ボスニア・ヘルツェゴビナにおける、1961年時点での民族分布。南西部にクロアチア人の人口が多い
  • ボスニア・ヘルツェゴビナにおける、1981年時点での民族分布。南西部にクロアチア人の人口が多い
    ボスニア・ヘルツェゴビナにおける、1981年時点での民族分布。南西部にクロアチア人の人口が多い
  • ボスニア・ヘルツェゴビナにおける、1991年時点での民族分布。南西部にクロアチア人の人口が多い
    ボスニア・ヘルツェゴビナにおける、1991年時点での民族分布。南西部にクロアチア人の人口が多い

関連項目

参考文献

  1. ^ Transcripts Suggest Croatia Conspired to Break Up Bosnia, November 2, 2007
  2. ^ Europe Intelligence Wire. “BOSNIAN CROATS DEMAND OWN 'REPUBLIC' UNLESS SERB ENTITY ABOLISHED.” (英語). Europe Intelligence Wire. 2012年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月2日閲覧。
  3. ^ B92 (2007年8月25日). “Bosnia: Regionalization proposal on table” (英語). B92. 2014年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月2日閲覧。
  4. ^ ADN Kronos International. “BOSNIA: MUSLIMS DEMAND ABOLITION OF ENTITIES, CROATS WANT THEIR OWN” (英語). 2019年1月2日閲覧。

外部リンク

  • Herzeg-Bosnia - Croats in Bosnia and Herzegovina(英語)(クロアチア語)
  • Text of Washington Agreement
  • Herzeg Bosnia Canton/County
  • War in BiH from Croatian point of view
背景
ユーゴスラビアの崩壊)
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗ユーゴスラビア連邦
民族統一主義
1991年 十日間戦争
スロベニアの独立)
参加勢力
関連事項
  • ブリオニ合意
1991年-1995年
クロアチア紛争
クロアチアの独立)
参加勢力
戦闘と事件
  • プリトヴィツェ湖群事件
  • ボロヴォ・セロの虐殺
  • 1991年5月ダルマチア反セルビア暴動
  • ダルマチアの戦い
  • ヴコヴァルの戦い
  • ヴコヴァルの虐殺
  • 兵舎の戦い
  • ドゥブロヴニク包囲
  • ロヴァスの虐殺
  • シロカ・クラの虐殺
  • ゴスピチの虐殺
  • サボルスコの虐殺
  • バチンの虐殺
  • オストク10作戦
  • シュカンブルニャの虐殺
  • '91オルカン作戦
  • ヴォチンの虐殺
  • ミリェヴツィ平原事件
  • マスレニツァ作戦
  • メダク・ポケット作戦
  • 稲妻作戦
  • ザグレブ・ロケット攻撃
  • '95夏作戦
  • 嵐作戦
国際連合等の活動
関連事項
1992年-1995年
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ボスニア・ヘルツェゴビナ
 の独立と分割)
参加勢力
戦闘と事件
国際連合等の活動
関連事項
  • カラジョルジェヴォ会談(グラーツ合意)- ワシントン合意 - デイトン合意 - ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での大量強姦 - ボスニア・ジェノサイド
1998年-1999年
コソボ紛争
コソボ自治州
 セルビアからの分離)
参加勢力
戦闘と事件
  • プレカズの攻撃
  • ロジャの戦い
  • ベラチェヴァツ炭鉱の戦い
  • ユニクの戦い
  • グロジャネの戦い
  • ゴルニェ・オブリニェの虐殺
  • パンダ・バーの虐殺
  • ラチャクの虐殺
  • ユーゴスラビア空爆
  • ポドゥイェヴォの虐殺
  • ヴェリカ・クルシャの虐殺
  • イズビツァの虐殺
  • アルバニア作戦
  • コシャレの戦い
  • ツスカの虐殺
  • スヴァ・レカの虐殺
国際連合等の活動
関連事項
2001年
マケドニア紛争
(アルバニア系住民の権利拡大)
参加勢力
国際連合等の活動
関連事項
関連人物
政治家
軍最高指導者
  • ヴェリコ・カディイェヴィッチ - マルティン・シュペゲリ - ジヴォタ・パニッチ - モムチロ・ペリシッチ - ヤンコ・ボベトコ - ミレ・ムルクシッチ - ラトコ・ムラディッチ - ラシム・デリッチ - セフェル・ハリロヴィッチ - アティフ・ドゥダコヴィッチ - アギム・チェク - ドラゴリュブ・オイダニッチ - リュベ・ボシュコスキ
その他の軍事指導者
その他の重要人物
関連項目
  • Category:ユーゴスラビア紛争
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