モスクワでのドイツ人捕虜の行進

モスクワでのドイツ人捕虜の行進
行進の直前に撮影されたドイツ人捕虜ら(1944年7月17日)
日付1944年
場所ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ

モスクワでのドイツ人捕虜の行進(モスクワでのドイツじんほりょのこうしん、ロシア語: Марш пленных немцев по Москве)は、1944年7月17日第1(ロシア語版)第2(ロシア語版)第3白ロシア方面軍(ロシア語版)によって捕虜とされたナチス・ドイツの軍人ら57,600人が、ソビエト連邦首都モスクワサドーヴォエ環状道路にて行進した出来事である。敗者の行進ロシア語: Пара́д побеждённых)やグレート・ワルツ作戦ロシア語: Большо́й вальс)とも呼ばれる。

背景

1944年夏、赤軍が実施したバグラチオン作戦の結果、ドイツ中央軍集団は大打撃を受け、ドイツ国防軍武装親衛隊をあわせた総損失は399,102人(26,397人が死亡、109,776人が負傷、262,929人が捕虜)にのぼった[1]。加えて、ドイツ側の軍団あるいは師団の指揮官であった47人の将軍のうち、21人が捕虜となっていた。連合国側でさえ、ドイツ軍のこれほどまでの大敗に懐疑的な者があった。そこで当局は作戦の成功を内外に示すと共に、モスクワ市民らの士気を高めることを目的に、ドイツの将軍達に捕虜を率いてモスクワの大通りを行進させようという計画を立てたのである。計画は内務人民委員部(NKVD)が主導した。捕虜の行進というアイデアを最初に提案したのが誰だったのかは明らかになっていないが、ロシアの歴史研究者の間では最高指導者ヨシフ・スターリン自身の発案という説が有力視されている。また、行進のルート上にはモスクワ市民420万人のうち12万人が暮らすのみであるため、当局は市民に対してよりは諸外国に対する宣伝効果を重視していたと言われている[1]

この行進を指す「グレート・ワルツ」(ロシア語: Большо́й вальс)という作戦名は、ヨハン・シュトラウス2世の生涯を題材としたアメリカのミュージカル・コメディ映画『グレート・ワルツ(英語: The Great Waltz (1938 film)』から取られたものである。『グレート・ワルツ』は国際的に成功を収めていただけではなく、スターリンが気に入っていた映画の1つでもあったことから、内務相ラヴレンチー・ベリヤはこれを作戦名に選んだのである[1]

ドイツ人捕虜の中には1941年から従軍している者も多く、戦争の長期化と悪化する戦況、ドイツ側による赤軍捕虜の劣悪な取り扱いへの報復などへの不安が渦巻いていた。彼らの間では、行進の最後には全員が銃殺刑に処されるのではないかと噂されていた[1]

7月17日の午前7時と午前8時、モスクワの警察長官ヴィクトル・ニコラエヴィチ・ロマンチェンコ(ロシア語版)がラジオで捕虜の行進に関する告知を行った。同様の告知はプラウダ紙にも掲載された[1]

行進の実施

行進について報じるソ連のニュース映画

行進に参加するドイツ人捕虜らは、モスクワ市内の中央競馬場(ロシア語版)、ディナモ・スタジアム、ジェルジンスキー師団騎兵連隊馬場馬術訓練場へと収容された。これに先立ち、捕虜らは徹底した健康診断を受け、健康かつ自力で行進できる者のみがモスクワに送られていた。消防当局は捕虜のための水を調達した。これは喉の乾きを癒やすには十分な量であったものの、身体を洗えるほどではなったので、多くは囚われた時と同じ姿、すなわちボロボロの野戦服のみをまとい、全身がひどく薄汚れたままで行進を強いられることになった。中にはズボンや靴さえ欠いている者もあった。ただし、食料に関しては普段より恵まれており、強化糧食、すなわちパンと粥、ベーコンが追加で配給されている[1]

7月17日午前11時までに、捕虜らは2つのグループに分けられ、1列20人として30列から成る600人ずつの隊列を組んだ。モスクワ軍管区司令官パーヴェル・アルテミエフ准将がこれを観閲した。

最初の集団(42,000人)は、レニングラツコエ高速道路(ロシア語版)ゴーリキー通りマヤコフスキー広場(ロシア語版)サドヴァヤ・カレトナヤ通り(ロシア語版)サドヴァヤ・サモテクナヤ通り(ロシア語版)サドヴァヤ・チェルノグリャススカヤ通り(ロシア語版)チカノヴァ通り(ロシア語版)クールスキー駅前、カリャエフスカヤ通り(ロシア語版)ノヴォスロボツカヤ通り(ロシア語版)、第1メシュチャンスカヤ通りというルートで2時間25分の行進を行った。この集団には将校が1,227人含まれており、そのうち将軍19人[nb 1]と大佐・中佐6人は勲章を飾った制服姿で行進を先導した[3]

第2の集団(15,600人)は、マヤコフスキー広場から反時計回りに行進を始めた。ボリシャヤ・サドヴァヤ通り(ロシア語版)サドヴァヤ・クドリンスカヤ通り(ロシア語版)ノビンスキー大通り(ロシア語版)スモレンスキー大通り(ロシア語版)ズボフスカヤ広場(ロシア語版)、クリムスカヤ通り、ボルシャヤカルガ通りを経て、モスクワ環状線小線(ロシア語版)カナチコボ駅(ロシア語版)までの4時間20分の行進を行った[3]

ジェルジンスキー師団や第36および第37警衛師団といったNKVD部隊の一部が捕虜の監視・護衛を担当し[4]シャシュカを手にした騎兵、小銃を装備した歩兵が行進に加わっていた。

行進した中には、フランスの対独協力者のみから成る隊列もあったという。

彼らは上着にトリコロールの円形章のようなものを付けていた。そして彼らが我々の前まで来て、荷台を開いたトラックの上に立っているプティ(フランス語版)将軍を見るなり叫び始めたのだ:「フランス万歳(Vive la France)、我らが将軍!自分たちは志願したのではなく、彼らに強制されたのです。フランス万歳!」プティは一切の同情を示さなかったばかりか、唾を吐き、歯をむいて激怒した:「下種野郎めが!協力を望まなかった者は、皆われわれのもとにいる」
«Все они прикрепили к курткам какое-то подобие трёхцветных кокард, а когда поравнялись с нами и увидели генерала Пети, стоявшего в кузове грузовика с откинутыми бортами, принялись кричать: „Вив ля Франс, мой генерал! Мы не были добровольцами! Нас призвали насильно. Да здравствует Франция!“ Эрнест Пети не проявил к ним ни малейшего сочувствия. Наоборот, зло сплюнул и сказал сквозь зубы: „Мерзавцы! Кто не хотел, тот с нами“[5]».

観衆はモスクワ市民だけではなかった。清潔な制服姿で行進を見物する英米軍人らの姿は、ボロボロの野戦服をまとった捕虜らとの対比としてニュース映画にも使われた[2]

行進中、ドイツ人捕虜による抵抗や脱走の試みはなかった[1]。ベリヤはNKVDによる国防委員会への報告において、行進の最中には「ヒトラーに死を!」「ファシズムに死を!」といった反ファシズムの罵声が市民から繰り返し投げかけられたと述べた。しかし、実際に行進に居合わせた者によれば、そうした攻撃的な反応はほとんど見られなかったという。

キエフでの捕虜の行進

捕虜の隊列の後ろには「ファシストが残した汚れを洗い流す」という意味合いで道路清掃用の散水車が続いていたが、これを見て驚いた市民もいたという。開戦以来、散水車を使った道路清掃は行われていなかったからである。また、騎兵と共に行進に参加した多数の馬の糞、久しぶりの食事で下痢を起こした捕虜の排泄物などが路上に残されていたため、演出上の理由を別としても道路清掃は行わなければならなかった[1]

午後7時までに行進は終了し、すべての捕虜は鉄道貨車でグラーグへと送られた。また、行進中に落伍した捕虜4人の手当も行われた。

1ヶ月後の1944年8月16日、同様のドイツ人捕虜の行進がキエフでも行われた。将校549人を含む36,918人の捕虜が街を行進した[1]

映画

  • Документальный фильм 1944 года — Конвоирование военнопленных немцев через Москву спецвыпуск кинохроники; операторы: И. Беляков, В. Доброницкий, М. Глидер, Р. Кармен, А. Кричевский, Ф. Короткевич, А. Каиров, Б. Небылицкий, М. Оцеп, С. Семенов, Р. Халушаков, М. Цирульников, Б. Эйберг; асс. оператора: Г. Монгловская, звукооператор: В. Котов[6]

関連項目

  • 第二次世界大戦中にソビエト連邦が捕らえた捕虜(ロシア語版)
  • ハノイの行進(英語版) - ベトナム戦争中の1966年7月6日に北ベトナムが実施したアメリカ兵捕虜の行進。
  • クルト・メルツァー(ドイツ語版) - ナチス・ドイツ時代のドイツの軍人。ローマで連合国軍捕虜を行進させ、後に戦争犯罪者として裁かれた[7]
  • ドネツク人民共和国 - ウクライナの親露・分離主義勢力。ウクライナ紛争中の2014年8月24日、ドネツクにてウクライナ兵捕虜の行進を行わせた。これはモスクワでの行進を模倣したもので、散水車も同様に用いられた[7]

脚注

  1. ^ ソ連側が制作したニュース映画によれば、行進に参加した将軍は以下の19人:[2]
    ルドルフ・バムラー(ドイツ語版)中将、ヴェルナー・フォン・ベルケン(ドイツ語版)中将、アレクサンダー・コンラーディ(ドイツ語版)少将、ヨアヒム・エンゲル少将(Joachim Engel)、グスタフ・ギーア(ドイツ語版)少将、フリードリヒ・ゴルヴィッツァー(ドイツ語版)歩兵大将、アドルフ・ハマン(英語版)中将、ヴァルター・ハイネ(ドイツ語版)中将、アルフォンス・ヒッター(ドイツ語版)中将、エドムント・ホフマイスター(ドイツ語版)中将、ギュンター・クラムト(ドイツ語版)少将、エーベルハルト・フォン・クロウスキー(ドイツ語版)中将、クルト=ユルゲン・フォン・リュッツオウ(ドイツ語版)中将、ヘルベルト・ミヒャエリス少将(Herbert Michaelis)、ヴィンツェンツ・ミュラー中将、クラウス・ミュラー=ビューロー少将(Claus Mueller-Bülow)、ヴィリフランク・オクスナー(英語版)中将、ヨハン=ゲオルク・リッヒェルト(ドイツ語版)中将、フリードリヒ=カール・フォン・シュタインケラー(ドイツ語版)少将、ハンス・トラウト(ドイツ語版)中将、アドルフ・トロヴィッツ(ドイツ語版)少将、パウル・フェルケルス(ドイツ語版)歩兵大将、ロルフ・ヴートマン(ドイツ語版)砲兵大将、ゴットフリート・フォン・エルトマンスドルフ(ドイツ語版)少将

参考文献

  1. ^ a b c d e f g h i “17. Juli 1944: 57.600 deutsche Kriegsgefangene marschieren durch Moskau”. Zukunft braucht Erinnerung. 2022年5月8日閲覧。
  2. ^ a b “Schadenfroher „Großer Walzer“ Moskau 1944”. Zukunft braucht Erinnerung. 2022年5月8日閲覧。
  3. ^ a b Сообщение НКВД СССР № 763/Б в ГКО о результатах конвоирования немецких военнопленных через Москву. 17 июля 1944 г. // Вестник, 1995. — № 2. — С. 138—139.
  4. ^ История внутренних войск: Хроника событий. (1811—1991 гг.). — М.: ГУВВ МВД РФ, 1995. — С. 61.
  5. ^ Лавриненко В. Л., Беловол Н. Н. „ШПАГА ЧЕСТИ“
  6. ^ “Федор КРОТИК-КОРОТКЕВИЧ звукооператор, оператор, режиссёр, фронтовой кинооператор”. Музей ЦСДФ, официальный сайт (2020年). 2022年5月8日閲覧。
  7. ^ a b “Donetsk POW March: When Is A Parade A War Crime?”. Radio Free Europe/Radio Liberty. 2022年5月8日閲覧。

外部リンク

  • Pobediteli.ru. “Разгром группы армий «Центр», «Парад побеждённых»” (Flash). 2006年7月17日閲覧。
  • Пахомов, Владимир. “Парад побеждённых”. Советская Россия, N94 (12565). 2012年8月28日閲覧。