宮城黎子

宮城 黎子
Reiko Miyagi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 同・東京都大田区
生年月日 (1922-05-27) 1922年5月27日
没年月日 (2008-06-01) 2008年6月1日(86歳没)
死没地 同・東京都世田谷区
4大大会最高成績・シングルス
全豪 1回戦(1964)
全米 2回戦(1964)
獲得メダル
女子 テニス
アジア大会
1958 東京 ダブルス
1962 ジャカルタ ダブルス
1958 東京 混合ダブルス
1966 バンコク 混合ダブルス
1962 ジャカルタ シングルス
1962 ジャカルタ 混合ダブルス
テンプレート  ■プロジェクト テニス

宮城 黎子(みやぎ れいこ、1922年5月27日 - 2008年6月1日)は、東京都大田区田園調布出身の女子テニス選手。東京府立第三高等女学校[1]

1950年代から60年代にかけて一世を風靡し、全日本選手権では1952年にシングルス初優勝。男女通じ最多となるシングルス10回(8連覇を含む)、ダブルス11回、混合ダブルス11回優勝。史上最多となる合計32個のタイトルを獲得している。

1964年、第2回フェデレーションカップ(現・フェドカップ)の日本代表選手に選ばれた。この年に全豪選手権と全米選手権にも出場し、42歳にして4大大会に挑戦した。全豪選手権は初戦敗退に終わったが、全米選手権では1回戦を突破し、2回戦でビリー・ジーン・モフィットアメリカ、当時21歳)に挑戦したことがある。

引退後は1978年から1982年にかけてフェデレーションカップ日本代表監督を務める。晩年は「テニスクラシック」編集長、日本女子テニス連盟会長、日本テニス協会委員を務める一方、「グランドスラム基金」などを設立する。

2008年6月1日、癌のため86歳で死去した[2]

1955年の全米選手権の男子ダブルスで優勝した宮城淳は実弟である。先祖に梅素亭玄魚がいる。

参考文献

  • 日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(191ページより、4大大会成績表を参照)
  1. ^ 宮城黎子日本テニス協会
  2. ^ 全日本テニス最多Vの宮城黎子さん死去

外部リンク

男単 | 男複 • 女複 • 混複
20・30年代
  • (1924年)鴨井一枝&小林春子
  • (1925年・26年)羽山住江&安宅登美子
  • (1927年・28年)滝口澪子&飯村敏子
  • (1929年)朝吹磯子&小林知子
  • (1930年)戸田定代&増田登志江
  • (1931年)滝口澪子&小林知子
  • (1932年)中村千賀&棚橋糸子
  • (1933年)立花文子&林美喜子
  • (1934年・35年)岡田早苗&山岸久子
  • (1936年)佐々倉久美&原田美智子
  • (1937年)戸田定代&マリー・ホーン
  • (1938年)大浦直子&原久子
  • (1939年)木全豊子&沢田佳
40・50年代
60・70年代
  • (1960年-62年)宮城黎子&福井昭子
  • (1963年)小幡陽子&空野桂子
  • (1964年)ヘルガ・シュルツェ&マーゴット・シュルツェ
  • (1965年)太田智恵子&風呂本操
  • (1966年・67年)小幡陽子&後神澄江
  • (1968年)畠中君代&飯田藍
  • (1969年)畠中君代&村上智佳子
  • (1970年)キャスリーン・ハーター&エヴァ・ルンドクイスト
  • (1971年・72年)畠中君代&村上智佳子
  • (1973年)沢松和子&福岡加余子
  • (1974年)飯田藍&野村貴洋子
  • (1975年)楊正順&雀景美
  • (1976年)佐藤直子&中川清美
  • (1977年)塚本国代&中川清美
  • (1978年)畠中君代&米沢そのえ
  • (1979年)塚本国代&中川清美
80・90年代
00・10年代
男単 •女単 | 男複 • 混複
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