杉山愛

杉山愛
Ai Sugiyama
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 同・神奈川県横浜市
生年月日 (1975-07-05) 1975年7月5日(48歳)
身長 163cm
体重 55kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1992年
引退年 2009年
ツアー通算 44勝
シングルス 6勝
ダブルス 38勝
生涯通算成績 1058勝714敗
シングルス 492勝419敗
ダブルス 566勝295敗
生涯獲得賞金 US$8,128,126
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(2000)
全仏 4回戦(1995・2000・03)
全英 ベスト8(2004)
全米 4回戦(2003・04)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 準優勝(2009)
全仏 優勝(2003)
全英 優勝(2003)
全米 優勝(2000)
優勝回数 3(仏1・英1・米1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 2回戦(1991・99・2001・03・06)
全仏 準決勝(2000)
全英 準決勝(2004)
全米 優勝(1999)
優勝回数 1(米1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 8位(2004年2月9日)
ダブルス 1位(2000年10月23日)
獲得メダル
女子 テニス
アジア競技大会
1994 広島 ダブルス
1994 広島 団体
2010年8月22日現在
テンプレート  ■プロジェクト テニス

杉山 愛(すぎやま あい、1975年7月5日 - )は、神奈川県横浜市出身の元女子プロテニス選手、テニス指導者。ビリー・ジーン・キング・カップ日本代表監督。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。血液型はA型。SWTA自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。キャリア通算でWTAツアーシングルス6勝、ダブルスでは38勝。

日本人選手として初のWTAダブルス世界ランキングで1位を獲得。日本人女子25年ぶりのグランドスラムダブルス優勝者。グランドスラム優勝4回は日本人最多記録。4大大会シングルス成績は2度のベスト8進出があり、現在日本人女子最後の全英シングルスベスト8進出者である。

日本人初のシングルスとダブルスの同時世界トップ10入り。また、2015年にロジャー・フェデラースイス)に抜かれるまでグランドスラムシングルス連続出場のギネス記録(62大会)を保持していた[1]

選手経歴

来歴〜ジュニア時代

1975年7月5日、歯科医師の父親と母親の芙紗子の間に3人姉妹の長女として生まれた。誕生した日は沢松和子1975年ウィンブルドンの女子ダブルスで日本人初優勝を達成した日でもあった。愛が生後4か月ごろになると、愛の父方の祖父が静岡県天城湯ケ島町(現在の伊豆市)で経営する歯科医院を手伝うため一家は三島市に移住[2]。愛が5歳になると、今度は父が歯科医院を開業することになり一家は神奈川県茅ヶ崎市に居を構え、愛は茅ヶ崎で少女時代を過ごした[3]。この頃から母芙紗子は娘のために体操、フィギュアスケート、クラシックバレエなどの様々なレッスンを習わせるようになったが、その後愛がさらにテニススクールにも通うようになるとそれまでの習い事とは明らかに違う入れ込みを見せるようになる。その熱中ぶりは当初週2回で始まったレッスンもすぐに2つのスクールを掛け持ちするようになり、レッスンが無い日でも一人で壁打ちを続けるほどであった[4]。愛が小学2年生になると、茅ヶ崎市からほど近い藤沢市米国の名門テニススクールとして名高いニック・ボロテリー・テニスアカデミーの藤沢校が開校する。同年にこのアカデミーの入校試験に合格し、選手コースの一員となると、以降ピアノ以外の習い事を全て辞め、本格的にテニスに取り組むようになる[5]

引き続きニック・ボロテリー・テニスアカデミー藤沢校、荏原SSCなどで本格的にテニスを学びながら頭角を現していった杉山は、湘南白百合学園中学校入学後の中学1年時に全国選抜ジュニアテニス大会14歳以下で全国大会レベル初優勝を果たすと、1990年には15歳で全日本ジュニア18歳以下シングルス準優勝を果たす[6]。これらの活躍により同年の全日本テニス選手権に主催者推薦で出場すると4回戦まで進出した[6]。その後テニスを優先するためにあらゆる面で支障が多かった湘南白百合学園高等学校への進学を諦め、湘南工科大学附属高等学校体育コースに入学[7]。ここでは1年時に早くも高校総体シングルス決勝で、同じ湘南工科大附属の同級生だった吉田友佳を下し優勝した他[6]ITFジュニアサーキットも本格的に転戦するようになり、1991年全豪オープン、1991年全米オープン、1992年ウィンブルドン選手権でそれぞれシングルスベスト8進出の成績を収め、1991年5月には日本人選手として男女通じて初のITFジュニア世界ランキング1位を記録する[8] など、早くから国際的に名の知られたトップジュニアの一人となっていた。

また杉山はジュニア時代からツアーレベルの大会にも参戦しており、1990年9月のニチレイ・レディースではダブルスで道城まみと組み主催者推薦でツアー初出場。1回戦でエミー・フレージャー&小泉幸枝(日本)組に1-6, 2-6のストレートで敗れている。翌1991年には全豪オープンシングルス予選で早くもグランドスラムに挑戦したが、この時は予選1回戦で試合前に棄権している。4月にはジャパン・オープンでツアーシングルス予選に初出場したが、1回戦でヤユク・バスキに7-5, 2-6, 4-6のフルセットで敗れている。1992年はミズノ・ワールド・レディースで予選を勝ち上がりツアーシングルス本戦初出場を果たすと、1回戦でも雉子牟田直子を1-6, 6-2, 7-5のフルセットで下しツアー初勝利を手にする。続く2回戦では第4シードの伊達公子とに挑戦したが、1-6, 7-5, 3-6のフルセットで敗れた。同年10月に17歳3か月でプロに転向した。11月28日に大磯プリンスホテルで行われたプロ入り記者会見では「トップ10プレーヤーになれるよう頑張ります!」と、11年後に達成ることになる大きな目標を掲げての出発であった[9]。この年のWTAシングルス年度末ランキングでは180位で終了しており、全日本女子シングルス年間ランキングでも10位につけるなど[10]、既に日本トップ選手の一人となっていた。

しかし学生生活の方はテニスでの活躍と反比例する形で上手く回らなくなり、湘南工科大学附属高校を2年生のときに中退している。これは同校が当初の想定より思いのほか出欠に厳しく、加えて出場機会が増していたプロの試合では公欠が認められなかった他、世界ツアー転戦のための費用捻出の必要性からプロ転向によるスポンサー契約の獲得を望んでいた杉山側に対し、湘南工科大付属側はあくまで所属を高校名にすることを求め、在学中のプロ転向を許可しなかったことから辞めざるを得ない状況に陥ってしまったことが原因であった。その後杉山は神奈川県立湘南高等学校通信教育課程に編入学。杉山はツアーの合間を縫いながら勉学にも励み2年で同校を卒業している[7][11][12]

1993年 プロ転向

プロ転向後最初の年となった1993年は箕輪宇明をツアー帯同コーチに付け転戦を開始。宮内美澄と組んで出場した全豪オープンダブルスでは予選繰り上がりとしてグランドスラム本戦に初出場したが、1回戦でジェシカ・エモンズ&ジンジャー・ニールセン(共に米国)組に3-6, 6-7(5)のストレートで敗れた。シングルスでは2月の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント予選を勝ち上がり、本戦1回戦で当時シングルス世界ランク5位、大会第3シードのマルチナ・ナブラチロワと対戦。当時175位の杉山は初のトップ10選手との対戦でフルセットに持ち込む健闘を見せるも、3-6, 6-3, 3-6のスコアで敗れている[13][14]。7月にはウィンブルドン選手権で予選を勝ち上がりグランドスラムシングルス本戦初出場。1回戦ではジジ・フェルナンデスと対戦し、6-3, 3-6, 3-6のフルセットで惜敗した[15]

1994年 初タイトル

この年は杉山にとって躍進の年となり、シングルスではノーシードで出場した2月のミズノ・ワールド・レディース準々決勝で大会第8シードのクリスティ・ボーグルトを6-3, 6-3のストレーで破り自身初のツアーベスト4に進出すると[16]、4月のジャパン・オープンでは道城まみと組み主催者推薦で出場したダブルスで初のツアー優勝を果たす[17]。さらに大会第8シードで出場した11月のウィスミラク国際では初のツアーシングルス決勝に進出。決勝ではエレナ・ワーグナードイツ)と対戦したが、6-2, 0-6のスコアとしたところで途中棄権した。この大会では長塚京子と組んで第2シーで出場したダブルスでも決勝まで勝ち上がったが、シングルスの棄権によりこちらも試合前に棄権した[18]。この年は他にも9月のニチレイ・レディースでシングルスベスト8、ダブルスベスト4に進出した他[19]、11月の台湾オープンダブルスでもベスト4に進出[20]。これらの活躍で年度末ランクもシングルスで前年の145位[21] から72位へ[22]、ダブルスでも同212位[23] から53位[24] へ急上昇し、単複共初めて年間ランキングトップ100でシーズンを終えた。

1995年 世界50位入り

シングルスでは5月の全仏オープン1回戦で大会第15シードのヘレナ・スコバを4-6, 6-3, 9-7の逆転で下し[25]、金星を挙げる形でグランドスラムシングルス本戦初勝利を手にすると、そのまま勢いに乗りチャンダ・ルビンとの4回戦まで進出する好成績を残す[26]。ノーシードで出場した10月のバンク・オブ・ザ・ウェスト・クラシックでは2回戦で第6シードのイリナ・スピールリアを下す活躍で2度目のツアー決勝に進出。決勝では当時世界ランク7位、大会第2シードのマグダレナ・マレーバに3-6, 4-6のストレートで敗れた[27]

ダブルスでは長塚と組んでノーシードで出場した年初のモーリラ・ホバート国際ダブルスを勝ち上がり、決勝では大会第1シードのマノン・ボーラグラフ(オランダ)&ラリサ・ネーランド組を2-6, 6-4, 6-2の逆転で下し優勝[28]。長塚とは4月のジャパン・オープンでもペアを組んで第2シードで出場し準優勝の成績を収めた他[29]、ナンシー・フェバー(ベルギー)と組みノーシードで出場したDFSクラシックでもベスト4に進出。年度末ランクもシングルスで46位[30]、ダブルスで45位[31] と単複共トップ50に到達し、前年に引き続き好調なシーズンを送った。

また4月にはフェドカップ日本代表に初選出。同月22,23日にドイツフライブルクで行われたワールドグループI1回戦、対ドイツ戦のダブルスで伊達公子とのペアで起用され、代表デビュー戦を勝利で飾っている[32]

ツアー以外では5度目の出場となった全日本テニス選手権女子シングルスで全試合ストレート勝ちの圧倒し悲願の初優勝を果たす[33]。翌年から杉山のコーチを務めることになる丸山淳一と共に出場した混合ダブルス部門でも全試合ストレート勝ちで優勝[34] し2冠となった。

1996年 ダブルスのスペシャリストに

1996年は第23シードで出場したリプトン選手権シングルス3回戦で当時世界ランク10位、大会第7シードのヤナ・ノボトナを6-3, 6-3のストレートで破り4回戦に進出。第4シードで出場した4月第3週のジャパン・オープンシングルスでは第1シードの伊達公子との準決勝まで進出した他、伊達と組んで主催者推薦で出場したダブルスでも優勝する好成績を残した[35]。翌週の4月27〜28日には有明コロシアムで開催されたフェドカップ:ワールドグループ1回戦、対ドイツ戦最終試合のダブルスに於いて、長塚京子とのペアで出場。日本はシングルスで伊達公子、沢松奈生子を、ドイツはシュテフィ・グラフアンケ・フーバーと両国ともトップ選手を擁する布陣で臨み、2勝2敗の五分で杉山&長塚組対グラフ&フーバー組のダブルスにチームの勝敗がかかったが、杉山&長塚組はグラフ&フーバー組を4-6, 6-3, 6-3のフルセットの逆転で破り、日本がドイツを破って代表史上初めてワールドグループ準決勝に進出する大金星を挙げた[36][37]。6〜7月のウィンブルドン選手権シングルスでは、3回戦で当時世界ランク5位、大会第5シードのアンケ・フーバーを7-6(3), 6-1のストレートで破る活躍で4回戦に進出している[38]

ツアー以外では7月〜8月に行われたアトランタオリンピックでテニス日本代表として単複両部門に出場。長塚と組んで出場したダブルスでは1回戦でカナダ代表のジル・ヘザリントン&パトリシア・ヒー=ブーレ組に6-7(2), 6-1のストレートで敗れた[39] が、ノーシードで出場したシングルスでは、2回戦で第15シードのマルチナ・ヒンギスを6-4,6-4のストレートで破る活躍でヤナ・ノボトナとの3回戦まで進出している[40]

また11月の全日本テニス選手権ではシングルス、混合ダブルス部門を連覇[41][42]。吉田友佳と組んで出場した女子ダブルス部門でも準優勝を果たしている[43]。この年の杉山は全日本ランクを2位で終えたが、1位は同年9月に現役を引退した伊達であったため、この時点で実質的な日本女子トップに立った[10]

1997年 シングルス初タイトル

日本人選手トップとなって臨んだ1997年は、杉山を様々な角度からサポートする「チーム愛」を結成、コーチに丸山淳一、コーディネーターに母親の芙紗子を付けた他、トレーナー、マネージャーも加わるチーム体制でツアーを転戦するようになる[44]。シングルスでは第6シードで出場した年初のゴールドコースト・クラシックで準優勝の好成績を収めると[45]、第4シードで出場した4月のジャパン・オープンでは準決勝で第2シードのキンバリー・ポーを5-7, 6-4, 6-1で、決勝でエミー・フレージャーを4-6, 6-4, 6-4の逆転でそれぞれ下し、4度目のツアーシングルス決勝で初優勝を果たす[46][47]。さらにノーシードで出場した10月のクレムリン・カップでは2回戦で第7シードのブレンダ・シュルツ=マッカーシーを6-4, 7-5で、準々決勝で第3シードのアランチャ・サンチェス・ビカリオ6-1, 7-6(1)のストレートで下す番狂わせを起こし決勝に進出。決勝では第1シード、当時世界ランク2位のヤナ・ノボトナに3-6, 4-6のストレートで敗れるも、自身初のティアI大会準優勝を果たした[48]

ダブルスではこの年からエレーナ・リホフツェワと主にペアを組むことが多くなり、5月のストラスブール国際ではこのペアで準優勝した他[49]、9月のトヨタ・プリンセス・カップではモニカ・セレシュと組んで出場し、単複通じて同大会日本人初優勝を決めている[50][51]。これらの活躍により年度末ランクはシングルスが20位と初めてトップ20で終了し[52]、ダブルスでも77位[53] と不調だった前年から52位上昇する25位でシーズンを終えた[54]

1998年 ベスト8進出

シングルスでは年初のタルゴ・オーストラリア女子ハードコート選手権優勝[55] から次週のアディダス国際準決勝まで8連勝のスタートダッシュを切ると[56]、好調のまま臨んだ全豪オープンではグランドスラムシングルスで初めてシード選手となる第16シードで出場、1996年ウィンブルドン以来のグランドスラム4回戦進出を果たす[57]。大会第1シード、ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ4月のジャパン・オープン決勝ではコリーナ・モラリューを6-3, 6-3のストレートで下し大会2連覇[58][59]。この年は他にも東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントWTAドイツ・オープンのティアIグレード2大会を含む5大会でツアーベスト8に進出するなど安定して好成績を残し、年度末ランクも18位に上昇した[60]

この年は出場した全大会で固定ペアを組んだリホフツェワとのダブルスで更なる躍進を見せ、年初のタルゴ・オーストラリア女子ハードコート選手権で優勝すると[55]、10月のSEATオープン[61]、11月のスパルカッセン・カップ[62]アドバンタ選手権[63] で3週連続優勝を果たし年間4勝を挙げる。この年は他にも東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント、ストラスブール国際でベスト4に進出した他、全豪オープンを含む7大会でベスト8に進出し、年末最終戦チェイス選手権への初出場を果たす。この活躍により年度末ランクは13位まで上昇した[64]

1999年 グランドスラムダブルス優勝・シングルスベスト8

シングルスでは第4シードのディフェンディングチャンピオンとして臨んだ年初のタルゴ・オーストラリア女子ハードコート選手権では準決勝で第2シードのパティ・シュナイダーに2-6, 6-7(6)のストレートで敗退[65]。同じくディフェンディングチャンピオンとして第1シードで臨んだジャパン・オープンでは全試合ストレート勝ちで決勝に進出するも、決勝では第2シードのエミー・フレージャーに2-6, 2-6のストレートで敗退し大会3連覇を逃した[66]。この年は他にも第8シードで出場した9月のトヨタ・プリンセス・カップ準々決勝で当時シングルス世界ランク8位、大会第3シードのジュリー・アラール=デキュジスを6-2, 7-5のストレートで下す活躍でモニカ・セレスとの準決勝まで進出した他[67]、ノーシードで出場した10月のクレムリン・カップ2回戦でも当時世界ランク6位、大会第1シードのマリー・ピエルスを6-4, 3-6, 6-3のフルセットで破りベスト8に進出[68]。8月第1週のTIGクラシック1回戦と8月第3週のデュモーリエ・オープン2回戦でも、それぞれ世界ランク6位のマリー・ピエルスと同7位のヤナ・ノボトナを破った[69][70]。しかしその一方前シーズンでは2大会のみだったツアー1回戦負けを8回喫するなど好不調の波も激しく、年度末ランキングでは前年の18位より6位順位を下げ24位でシーズンを終えた[71]

ダブルスでは引き続きリホフツェワとの固定ペアで好成績を収め、アディダス国際、ストラスブール国際の2大会で優勝[72][73]。他にも2月のフランス・ガス・オープン、5月のストラスブール国際の2大会で準優勝の成績を収め[74][75]、2年連続でチェイス選手権へ出場。年度末ランクは16位で終了した[76]

またこの年はマヘシュ・ブパシと組んだ混合ダブルスでも好成績を残し、第3シードで出場した全仏オープンでベスト8に進出すると[77]、第2シードで出場した全米オープンでは自身初のグランドスラムタイトルを獲得[78][79][80]。日本人選手の混合ダブルス部門優勝は1997年全仏オープンでマヘシュ・ブパシ&平木理化組が優勝して以来、2年ぶり3人目であった。

2000年 全米オープン優勝 世界ランク1位

杉山はこの年からコーチを丸山からマリー・ピエルスアマンダ・クッツァーらのコーチを歴任してきた[81]南アフリカ共和国のマイケル・ディオン[8] に変えツアーに臨んだ。 ダブルスではこの年から新たにジュリー・アラール=デキュジスと組み、第2シードで出場した全米オープン決勝で第10シードのカーラ・ブラック&エレーナ・リホフツェワ組を6–0, 1–6, 6–1のフルセットで下し、1975年ウィンブルドンアン清村と組んで優勝した沢松和子以来、25年ぶりのグランドスラム女子ダブルス優勝を果たす[12]。この年は他にもアラール=デキュジスとのペアで4月のマイアミ・マスターズと10月のクレムリン・カップの二つのティアI大会を含むツアー6勝を、またナタリー・トージアとのペアでも1勝を挙げ、年間7勝を記録。この活躍により10月には日本人選手として初めてWTAダブルスランキング1位になり[82]、年度末ランクでも1位でシーズンを終えた[83]。一方シングルスではノーシードで出場した全豪オープン4回戦で、当時世界ランク5位の第4シードマリー・ピエルスを7-5, 6-4のストレートで下し、自身初のグランドスラムシングルスベスト8進出を果たす。また全仏オープンでも5年ぶりに4回戦に進出した。しかしこれ以外では2月のステート・ファーム・クラシックでベスト8に進出した他は全てツアー1〜2回戦負けに終わり、2度目の出場となったシドニーオリンピックでも、第14シードで出場したシングルスは1回戦でエレナ・ドキッチに0-6, 6-7(1)[84]宮城ナナとのペアで第4シードとして出場したダブルスも2回戦でタイのベンジャマス・サングラム&タマリン・タナスガーンに6-2, 5-7, 2-6のフルセットで敗退するなど[85]、シングルスでスランプに陥る。杉山は後のインタビューでこの頃を振り返り「あの時の私はダブルスばかり戦績が出て、日曜日まで勝ち残るのに、シングルスでは負けが続き、トーナメントの過ごし方が分からなくなっていた。自分のテニスを見失い、それこそ私の打ち方どうなっているの?というレベルまで落ちてしまった。周りの選手達が25〜6歳で辞めていった時期でもあり、尚更私はどうなっていくのか」と悩んだという[86]。コーチとの関係も上手く行かなくなり、キャリアで初めて壁にぶつかったと感じた杉山は、米国遠征中に母芙沙子に電話をかけ「もうテニスを辞めたい」と涙ながらに弱音を吐く程追い詰められていた。しかし、この電話を切っ掛けに話し合いの末、シーズン終了後からデヨングに代わり芙沙子がコーチを務めることが決定し、親子二人三脚のツアー転戦が始まることとなる[87]

2001年 ウィンブルドン2年連続決勝進出

芙沙子がコーチに就任して最初の年となった2001年はダブルスでニコル・アレントと組んでシーズンを戦う。アレントとのペアで出場した全豪オープンダブルスは準決勝に進出。ツアーでもキャンベル国際とインディアンウェルズ・マスターズで2勝を上げるなど好調であったが、3月のマイアミ・マスターズを最後にペアを解消。その後単発で数人の選手と組むもペア固定とまでは行かずツアー1〜2回戦負けが続いた。しかし第4シードとして出場したウィンブルドン選手権で、前年のアキュラ・クラシック以来2度目のペアとなったキム・クライシュテルスとのダブルスが成功し、準決勝で第1シードのリサ・レイモンドレネ・スタブス組に3-6, 7-5, 6-2のフルセットで勝利する活躍で同部門2年連続の決勝進出を果たす。決勝では第8シードのビーナス・ウィリアムズ&セリーナ・ウィリアムズ組にストレートで敗れるも、後に本格的に固定ペアとしてツアーを回る切っ掛けとなった。一方シングルスではアキュラ・クラシック2回戦で当時世界ランク5位のクライシュテルスをストレートで下すなどの活躍も見られたがシーズン全体では前年に続き低調な成績が続き、年度末ランクも30位と前年より2ランク上げるに留まった[88]。母芙沙子は当時を振り返り「コーチと選手の関係になってからの1年はお互いが選手とコーチとして自立するのに時間が掛かり葛藤があった」とお互いに戸惑いがあったとしながらも「あの1年があって愛の長い競技人生に繋がったと思う」と述懐している[89]

2003年 グランドスラム2冠 キャリアハイ

2003年はシングルス・ダブルス共にキャリア最高の成績を収めることとなる。 2〜3月に米国のスコッツデールで行われたステート・ファーム・クラシックでは、2回戦でリンゼイ・ダベンポートをフルセットで破り、勝ち上がる。しかし前日の雨の影響でシングルス・ダブルスの準決勝・決勝を最終日に行うという過酷な日程を強いられる。まず、シングルスの準決勝では、相手にマッチポイントを3回握られながらも、6-7, 7-5, 7-6(7)と2時間を越える激戦を逆転で制し、決勝ではキム・クライシュテルスを3-6, 7-5, 6-4と再び逆転で破り、シングルスでまず優勝を果たす。その後、シングルスの決勝を戦ったクライシュテルスとのダブルスでは準決勝、決勝共にストレート勝ちで単複2冠を果たした。なおこの大会でのシングルスのタイトルが杉山にとって最もグレードの高いシングルスのタイトルである。

その後ダブルスではキム・クライシュテルスとのコンビで、全仏オープンウィンブルドンでは共に第1シードのビルヒニア・ルアノ・パスクアルパオラ・スアレス組を破り、4大大会2連勝を達成し、ダブルスランキング1位に返り咲く。この年は8つのダブルスタイトルを獲得し、うち7つはクライシュテルスと組んで獲った。

シングルスでは、10月にリンツオーストリア)の大会でも優勝し、2003年はシングルスで2度優勝を果たす。11月には、年間獲得ポイント世界上位8名によるWTAツアー選手権に初めて出場し、グループリーグでアナスタシア・ミスキナに4-6, 3-6で、ジェニファー・カプリアティに5-7, 6-7(3)のスコアでそれぞれ敗れたが、第2戦の当時世界ランク1位であったジュスティーヌ・エナン・アーデンを6-2, 6-4のスコアで破り、大会後の最新ランキングでは自己最高のシングルス世界ランク10位に上昇、伊達公子(自己最高ランキングは1995年の4位)以来2人目のシングルストップ10入りを果たした。翌2004年2月には世界ランキング8位となり、自己最高位を更新している。

しかし、クライシュテルスがシングルスに専念するため全米オープンを途中棄権するなどし、その後のWTAツアー選手権を最後にペアを解消する。

2004年 ウィンブルドンダブルス決勝進出・シングルスベスト8

杉山は再びパートナー探しに悩み、2004年はリーゼル・フーバーと組んだ。その後、急遽エレーナ・デメンチェワをパートナーに指名したが、このコンビは臨時の組み合わせであった。

2006年 全仏準優勝

その後ダニエラ・ハンチュコバと組み、2006年の全仏オープンで決勝に進出したが、リサ・レイモンド&サマンサ・ストーサー組に敗れて準優勝になった。

2007年 2度の4大大会決勝進出

2007年の全仏オープンでも、カタリナ・スレボトニクとのコンビで決勝に進出したが、アリシア・モリク&マラ・サンタンジェロ組に敗れ、2年連続の準優勝となった。続くウィンブルドンでもスレボトニクと組み、リーゼル・フーバー&カーラ・ブラック組との決勝に進出したが、こちらも準優勝に終わっている。

2009年 引退

2009年のウィンブルドンパティ・シュナイダーと対戦する杉山愛

2009年の全豪オープンでは、久々にハンチュコワとのペアを復活させて初の決勝戦に進出する。女子ダブルスのキャリア・グランドスラムがかかった決勝戦では、ビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹組に3-6, 3-6で敗れた。後述する杉山の引退により彼女の女子ダブルス「キャリア・グランドスラム」は叶わなかった。

東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントでは引退セレモニーが行われた

2009年9月9日、杉山は同月27日からの東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント出場を最後に、今シーズンを以て現役生活にピリオドを打つことを表明した[90]。杉山が引退を表明した全米オープンテニスに出産による2年のブランクを経てワイルドカードで現役に復帰したクライシュテルスはかつてのダブルスパートナーであり非常に親しかった杉山の引退を惜しんだ[91]

現役として最後の大会となった東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントでは大会前に引退セレモニーが行われ、ダブルスパートナーのハンチュコワを初め、かつてのダブルスパートナーであったスレボトニクや後輩選手の森田や森上、今大会第1シードのディナラ・サフィナら大会出場選手も参加してセレモニーに花を添えた。シングルスでは1回戦で第13シードのナディア・ペトロワと対戦。0-6, 1-2としたところで体調不良による棄権となる不本意な結果に終わったが、試合後には長年活躍した杉山を労いたいとの考えから観戦に訪れていた上皇后美智子と懇談し労いの言葉をかけられた[92]。一方ハンチュコワと組んで第9シードで出場したダブルスでは準々決勝で第2シードのアナベル・メディナ・ガリゲス&ビルヒニア・ルアノ・パスクアル組に7-6(5), 3-6, 10-7で勝利するなどの活躍で決勝に進出。決勝ではアリサ・クレイバノワ&フランチェスカ・スキアボーネ組に4-6, 2-6のストレートで敗れ、17年の選手生活をダブルス準優勝で締めくくった。

先輩の伊達公子が引退した後(2008年から現役復帰)、日本テニス界全体は杉山ひとりの活躍に頼りきりの状態が長期間続いていた。杉山と同年代の遅咲き選手だった浅越しのぶも、2006年全米オープンを最後に現役を引退する。日本女子テニスの後輩選手としては、森上亜希子中村藍子、また杉山の引退時にはシングルスランキングで杉山より上位となった森田あゆみなどが著しい成長を見せた。

現在の活動

引退後の杉山は、テニス普及活動などを進める傍ら、テレビのテニス中継の解説者を務めたり、情報番組のコメンテーターとして出演する機会が増えている。

2011年11月7日、『スッキリ!!』(日本テレビ放送網)に出演して11月3日に6歳年下の一般男性と結婚したことを発表した[93]。そして12月1日に米国ハワイ州で結婚式を執り行ったことを自らのブログで報告している[94]

2015年2月16日、『スッキリ!!』に出演した際に自身が第1子妊娠中であることを公表した[95]。同年7月8日、第1子男児を出産[96]。産休を経て、11月2日、『スッキリ!!』に復帰した[97]

2017年東京2020エンブレム委員[98]に続き、東京2020大会マスコット選考検討会議委員に就任[99](大会組織委のブランドアドバイザリーグループの一員でもある)。

2021年2月15日、第2子妊娠を報告[100]7月15日、第2子女児の出産を報告[101]

2023年度より女子の国別対抗戦であるビリー・ジーン・キング・カップを戦う日本代表監督に就任する[102]

ギネス記録

杉山は1994年ウィンブルドン選手権から4大大会シングルス連続出場を続け、2008年ウィンブルドンで杉山の連続出場記録は「57」に到達した。これは男女を通じても、ウェイン・フェレイラの「56」大会連続出場を抜き、最長記録を樹立した[103](フェレイラの連続記録は、1991年全豪オープンから2004年全米オープンまで)。その後も連続出場を続け、翌年の2009年全米オープンまで記録を更新し、シングルス連続出場記録を「62」とした。この連続出場記録は杉山のマネジメント会社によりギネス・ワールド・レコーズへの申請準備がなされ[104]、認定された。同年11月の全日本テニス選手権最終日に特別セレモニーが行われ、日本テニス協会特別表彰と合わせて授与された[105][106]ニューヨーク・タイムズ紙は、この連続記録に絡み杉山を「カル・リプケン・ジュニアグレイトフル・デッドと同様の驚異的な回復力を持つ選手」と讃え報じた。

評価

身長163cm体重55kgという杉山の体格は男女共に大型化の進むプロテニス界において決して恵まれたものではなかったが[87]、ダブルスで鍛えたフットワークの良さとスタミナの高さでそのハンデを補ってみせた。その最たる例として挙げられるのが2003年3月のウエスト・ファーム・クラシックである。杉山はこの大会の単複両部門に出場しどちらも準決勝に進出するなど順調に勝ち進んでいたが、大会を通して悪天候が続き試合進行が大幅に遅れ、最終的に単複準決勝、決勝を1日でこなす強行日程が組まれてしまう。しかし杉山はこの4試合を戦い抜き見事単複優勝を収めたのである。4試合の総計時間は6時間18分、総ゲーム数は108ゲーム、10セットにも達する壮絶なもので、WTAツアーで女子選手が1日にこなした試合時間、総ゲーム数、総セット共に史上最長最多のものとなっている[107]。当時杉山のプライベートコーチを務めていた高田充によるとこの活躍は翌日の地元紙でも「Sugiyam Slam!」の見出しで讃えられたという[108]。また上述のグランドスラム連続出場に象徴されるようにキャリアを通して1度も大きな怪我や病気によるツアー離脱に見舞われずトップレベルで選手生活を全うできたのも非常に稀有な例であり、松岡修造は自身の雑誌連載コラムで、「怪我をしないようにアフターケアとトレーニングを続けることは選手として最低限必要なことであるが、多くの選手はその繰り返しに気持や体が追いつかなくなってしまう。其故それを毎日行うのは並大抵の事ではない」とし、その点杉山にはこれを可能にする特別な才能が備わっていたと思うと記している[109]。また松岡は杉山が長く現役を続けることに成功したもう一つの要因として杉山の国際性を挙げ、「英語も上手で自分たちのチームに篭るのではなく、ツアーの中に友人を作り他の選手達と交流出来る選手であったことも大きい」と分析している[110]。一方杉山の技術面について松岡は「サービスとフォアハンドが悪いというわけではないが、緊張するとボールが飛んでいかなくなってしまうことがあった。大事な所で緊張せずに自分のプレーが思い切って出来ていれば、彼女はもっともっと高いところにいけたと思う」とし、それを考えれば杉山のシングルス最高8位というのは大したものだと評価している[110]

スポーツジャーナリストの武田薫は2000年全米オープンダブルスでの優勝に際し「伊達公子のような素質もなければ、沢松奈生子のようなテニス環境を持っていた訳でもないが、杉山はジュニア時代からはっきりプロとして世界ツアーを回ることを目標に努力してきた選手であり、伊達や沢松を遥かに上回るプロ意識を持ち続けてきた選手だった。」と評し、「これほどテニスを愛し、これほどテニスにこだわった選手を強いて挙げるならば(日本人選手では)他に松岡修造位であり、杉山以降の若手が育たなかった原因は彼女ほど一生懸命に努力していないからだ」と記している[12]。また日本人選手として沢松和子以来28年ぶりとなった2003年ウィンブルドン選手権ダブルス優勝の際には「(沢松が優勝した)1975年以降、日本のテニス界は「沢松以来」という枕詞に縛られてきており、意識的な壁を作っていた。それがさほど素質はないと言われてきた杉山によって外されたことで、(日本人)選手の視野は格段に広くなっただろう。自分たちもできるのではないかと思えること、これは大きい。」と、杉山の優勝は日本テニス界において大きな意義を持つものであると記している[111]

2009年の引退に際し武田は杉山を伊達と比較した上で「伊達の集中力と学習能力にはイチローに通ずる明快さがある。一方、グランドスラム62大会連続出場に代表される杉山はやや地味なのだが、自分はきっと出来ると17年間信じ続け、夢を貫く姿勢は真似できない。伊達のグランドスラムシングルス3度のベスト4進出という快挙も素晴らしいが、杉山がグランドスラムで達成したダブルス、ミックスダブルス計4度の優勝に達する選手も二度と出ないだろう。」と、杉山が伊達に比肩する日本テニス界不世出の選手の一人であったと評価している[112]

その他の活動

杉山は母親・芙沙子らと共に、後進育成やテニスの普及活動を目的とした特定非営利活動法人「パームインターナショナル湘南」を2005年に立ち上げ、理事長に就任した[113]。上述の森田あゆみはジュニア時代、このNPO団体が行っているプロジェクトの一つ「LOVE'S DREAM 杉山愛ジュニア育成基金」からの支援を受けていた[114]。また、2008年7月には杉山一家が運営していたパーム・インターナショナル・テニスアカデミーを移転リニューアルし、杉山本人の活動拠点並びに世界を目指すジュニア育成の拠点、将来的に他のスポーツやジム機能を備えた総合スポーツクラブとして発展させることを視野に、“Palm International Sports Club”(パーム・インターナショナル・スポーツ・クラブ)を神奈川県茅ヶ崎市に設立した[115]

このテニスアカデミーは他の日本のプロ選手が練習拠点として用いることもあり、過去には新井麻葵、米村明子らが同アカデミーに所属している[116][117]。また慈善活動にも取り組んでおり、現役時代には2005年から毎年ツアーで1試合勝つ毎に1万円を日本対がん協会の「乳がんをなくす ほほえみ基金」に寄付していた[118] 他、2007年には揃って扁平上皮癌に見舞われたオーストリアの双子のテニス姉妹、サンドラ・クレメンシッツとダニエラ・クレメンシッツ姉妹が病状の悪化から保険が適用されず、7万ドル以上の高額な治療費を必要としていたため、WTAがチャリティーオークションを開き医療費を工面する中、杉山自身も同年のジェネラーリ女子ダブルス準優勝賞金全額を姉妹に寄付した。また当時のダブルスパートナーであったカタリナ・スレボトニクと共に寄付金集めに動き治療費を捻出[119]

その後ダニエラは治療及ばず翌2008年4月に亡くなったが、サンドラには治療が効き快方に向かい、同年7月にはツアーに復帰出来るまでに回復した[120]2008年4月にはボシュロム選手権において、これらの社会貢献活動が評価され表彰を受けている[121]

キャリア通算成績

詳細は「杉山愛の通算成績一覧」を参照

グランドスラム

女子ダブルス

結果 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
準優勝 2000年 ウィンブルドン フランスの旗 ジュリー・アラール=デキュジス アメリカ合衆国の旗 セリーナ・ウィリアムズ
アメリカ合衆国の旗 ビーナス・ウィリアムズ
3-6, 2-6
優勝 2000年 全米オープン ハード フランスの旗 ジュリー・アラール=デキュジス ジンバブエの旗 カーラ・ブラック
ロシアの旗 エレーナ・リホフツェワ
6–0, 1–6, 6–1
準優勝 2001年 ウィンブルドン ベルギーの旗 キム・クライシュテルス アメリカ合衆国の旗 リサ・レイモンド
オーストラリアの旗 レネ・スタブス
4-6, 3-6
優勝 2003年 全仏オープン クレー ベルギーの旗 キム・クライシュテルス スペインの旗 ビルヒニア・ルアノ・パスクアル
アルゼンチンの旗 パオラ・スアレス
6–7(5), 6–2, 9–7
優勝 2003年 ウィンブルドン ベルギーの旗 キム・クライシュテルス スペインの旗 ビルヒニア・ルアノ・パスクアル
アルゼンチンの旗 パオラ・スアレス
6-4, 6-4
準優勝 2004年 ウィンブルドン 南アフリカ共和国の旗 リーゼル・フーバー ジンバブエの旗 カーラ・ブラック
オーストラリアの旗 レネ・スタブス
3-6, 6-7(5)
準優勝 2006年 全仏オープン クレー スロバキアの旗 ダニエラ・ハンチュコバ アメリカ合衆国の旗 リサ・レイモンド
オーストラリアの旗 サマンサ・ストーサー
3-6, 2-6
準優勝 2007年 全仏オープン クレー スロベニアの旗 カタリナ・スレボトニク オーストラリアの旗 アリシア・モリク
イタリアの旗 マラ・サンタンジェロ
6-7(5), 4-6
準優勝 2007年 ウィンブルドン スロベニアの旗 カタリナ・スレボトニク ジンバブエの旗 カーラ・ブラック
南アフリカ共和国の旗 リーゼル・フーバー
6-3, 3-6, 2-6
準優勝 2009年 全豪オープン ハード スロバキアの旗 ダニエラ・ハンチュコバ アメリカ合衆国の旗 セリーナ・ウィリアムズ
アメリカ合衆国の旗 ビーナス・ウィリアムズ
3-6, 3-6

混合ダブルス

結果 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
優勝 1999年 全米オープン ハード インドの旗 マヘシュ・ブパシ アメリカ合衆国の旗 キンバリー・ポー
アメリカ合衆国の旗 ドナルド・ジョンソン
6–4, 6–4

WTAツアー年間最終戦

ダブルス

結果 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
準優勝 2003年 ロサンゼルス インドアハード ベルギーの旗 キム・クライシュテルス スペインの旗 ビルヒニア・ルアノ・パスクアル
アルゼンチンの旗 パオラ・スアレス
4-6, 6-3, 3-6
準優勝 2007年 マドリード インドアハード スロベニアの旗 カタリナ・スレボトニク ジンバブエの旗 カーラ・ブラック
アメリカ合衆国の旗 リーゼル・フーバー
7-5, 3-6, 8-10

4大大会ダブルス成績

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 通算成績
全豪オープン A A 1R A 2R 2R 1R QF 2R QF SF 3R QF SF 3R 3R QF 2R F 35-14
全仏オープン A A A A 2R 2R 2R 3R QF SF 3R SF W 1R 2R F F 2R 3R 38-14
ウィンブルドン A A A 1R 1R 1R 1R 3R 2R F F 3R W F QF 1R F 2R 2R 35-15
全米オープン A A A 2R 3R 1R 2R A 1R W A 1R 2R SF 3R 2R QF SF 3R 27-11

著書

  • コラボレーション―母と娘の世界挑戦 (杉山芙紗子共著,2004年6月, 集英社)ISBN 978-4083330285

テレビ出演

CM

参考文献

  • 『コラボレーション―母と娘の世界挑戦』(初版)集英社(原著2004年6月30日)。ISBN 978-4083330285。 

脚注

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  2. ^ 杉山、p.22-23
  3. ^ 杉山、p.43
  4. ^ 杉山、p.43-44
  5. ^ 杉山、p.44-45
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  119. ^ “健康な身体を与えてもらえていることに感謝”. 杉山 愛・ツアーより愛をこめて (2007年11月8日). 2010年4月10日閲覧。
  120. ^ “Despite Loss, Cancer Survivor Sandra Klemenschits Wins In Grand Slam Debut”. TennisGrandstand (2008年9月4日). 2010年4月10日閲覧。
  121. ^ “award”. 杉山 愛・ツアーより愛をこめて (2008年4月11日). 2010年9月1日閲覧。
  122. ^ “第46回奨励賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2010年4月24日閲覧。
  123. ^ “テニス太郎:番組リニューアルで松岡修造の新コーナーなどスタート 季葉が公式サポーターに”. MANTANWEB. (2016年4月18日). https://mantan-web.jp/article/20160418dog00m200020000c.html 2016年4月20日閲覧。 

外部リンク

女子テニス協会ダブルス世界ランキング1位
  • (開始年/終了年 – 週)
  • 2018年10月29日付
 
杉山愛獲得タイトル
20世紀
21世紀
全仏テニス選手権(1925–1967)女子ダブルス優勝者
イギリスの旗 ウィンブルドン(オープン化以後)女子ダブルス優勝者
全米テニス選手権(1889–1967)女複 || 男単 • 女単 | 男複 • 混複
全米選手権(1892–1967)混複 || 男単 • 女単 | 男複 • 女複
男単 | 男複 • 女複 • 混複
20・30年代
  • (1924年)鴨井一枝&小林春子
  • (1925年・26年)羽山住江&安宅登美子
  • (1927年・28年)滝口澪子&飯村敏子
  • (1929年)朝吹磯子&小林知子
  • (1930年)戸田定代&増田登志江
  • (1931年)滝口澪子&小林知子
  • (1932年)中村千賀&棚橋糸子
  • (1933年)立花文子&林美喜子
  • (1934年・35年)岡田早苗&山岸久子
  • (1936年)佐々倉久美&原田美智子
  • (1937年)戸田定代&マリー・ホーン
  • (1938年)大浦直子&原久子
  • (1939年)木全豊子&沢田佳
40・50年代
60・70年代
  • (1960年-62年)宮城黎子&福井昭子
  • (1963年)小幡陽子&空野桂子
  • (1964年)ヘルガ・シュルツェ&マーゴット・シュルツェ
  • (1965年)太田智恵子&風呂本操
  • (1966年・67年)小幡陽子&後神澄江
  • (1968年)畠中君代&飯田藍
  • (1969年)畠中君代&村上智佳子
  • (1970年)キャスリーン・ハーター&エヴァ・ルンドクイスト
  • (1971年・72年)畠中君代&村上智佳子
  • (1973年)沢松和子&福岡加余子
  • (1974年)飯田藍&野村貴洋子
  • (1975年)楊正順&雀景美
  • (1976年)佐藤直子&中川清美
  • (1977年)塚本国代&中川清美
  • (1978年)畠中君代&米沢そのえ
  • (1979年)塚本国代&中川清美
80・90年代
00・10年代
男単 •女単 | 男複 • 混複
スッキリ
総合司会・サブ司会
ニュース
現在
過去
お天気
コメンテーター
リポーター
現在
過去
芸能リポーター・その他
歴代サブ司会
曜日ごとの企画
現在
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メインナレーション
クイズッス
  • 天の声月曜日から木曜日
  • 天の声ゴールド(金曜日
関連項目
関連人物
曜日は太字で表記。コメンテーター、曜日ごとの企画などの担当は、担当出演者の前もしくは後ろに表記。
芸能
政治
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特別
記載のない年は選出なし
「社会経済部門」は、2019年まで「経済部門」
第1回
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第70回
第71回
第72回
第73回
第74回
2022
大賞

中島瑞木(coly 代表取締役社長)
中島杏奈(coly 代表取締役副社長)

世界に希望を紡ぐ科学者賞

岩崎明子(米イェール大学医学部 免疫学教授)

理系の新・ロールモデル賞

平澤聡美(東洋合成工業 取締役・感光材事業部長)

思いやり経営賞

藤﨑忍ドムドムフードサービス 代表取締役社長)

子育てダイバーシティ賞

北川聡子(社会福祉法人 麦の子会 理事長・総合施設長)

心の揺らぎサポート賞

櫻本真理(cotree/コーチェット 代表取締役)

途上国の自立支援に貢献賞

田口愛(Mpraeso合同会社 CEO)

循環型社会へのイノベーター賞

坂野晶(一般社団法人ゼロ・ウェイスト・ジャパン 代表理事)

2021
大賞

端羽英子(ビザスク 代表取締役CEO)

受賞

米良はるかREADYFOR 代表取締役CEO)

受賞

尾形優子(メロディ・インターナショナル CEO)

受賞

村本理恵子(ピーステックラボ 代表取締役社長)

受賞

佐野環(キリンホールディングス執行役員、ヘルスサイエンス事業部長)

受賞

山野千枝(一般社団法人ベンチャー型事業承継 代表理事)

受賞

中村有沙(オアシススタイルウェア 代表取締役)

2020
大賞
準大賞

長嶋愛(日本放送協会 ディレクター)

受賞

石川賀代(社会医療法人 石川記念会理事長、石川ヘルスケアグループ 総院長)

受賞

片岡真実森美術館 副館長兼チーフ・キュレーター)

受賞

林有理(大阪府四條畷市 副市長

受賞

平田麻莉(一般社団法人プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会 代表理事)

受賞

水越由利子(江崎グリコマーケティング本部 ベビー・育児マーケティング部 ブランドマネージャー)

特別賞

近藤麻理恵(片づけコンサルタント)

2019
大賞

中村朱美(minitts 代表取締役)

再出発サポート賞

川口加奈(NPO法人Homedoor 理事長)

新・事業承継モデル賞

丹後佳代(丹後 取締役)

世界の子供を守る賞
ブレイクドラマ制作賞

貴島彩理テレビ朝日総合編成局ドラマ制作部 プロデューサー)

イノベーティブ起業家賞

平野未来(シナモン CEO)

日本を伝えるメディア賞

末松弥奈子ジャパンタイムズ 代表取締役会長)

子育て支援サポート賞

高塚清佳(新生企業投資 インパクト投資チーム シニアディレクター)
黄春梅(新生企業投資 インパクト投資チーム シニアディレクター)

特別賞

小平奈緒(スピードスケート選手)

2018
大賞

末延則子(ポーラ 執行役員)

人生100年時代のロールモデル賞

若宮正子(アプリ開発者)

働き方改革サポート賞

和田幸子(タスカジ 代表取締役)

超高齢化社会の希望賞

矢田明子(Community Nurse Company 代表取締役)

共感型プロモーション賞

和気洋子(ヤフー コーポレートコミュニケーション本部 ブランドマネジメント室リーダー)

「アストロウーマン」の道開拓賞

伊藤美樹(アストロスケール 代表取締役社長)

特別賞

中満泉国際連合 事務次長・軍縮担当上級代表)
伊達公子(元プロテニスプレーヤー)

2017
大賞

弭間友子(東宝 映像本部 映像事業部 アニメ事業グループ 宣伝プロデューサー)

デザインものづくり賞

林千晶ロフトワーク 代表取締役)

「ドボジョ」キャリア開拓賞

大西陽子(大林組 海外支店ジャカルタ高架橋工事事務所所長)

食ビジネス革新賞

小林せかい(未来食堂 代表)

イノベーティブものづくり賞

小島由香(FOVE CEO)

子育て家庭応援ビジネス賞

馬場加奈子(サンクラッド 代表取締役)

チーム2017賞

秋山正子(NPO法人マギーズ東京 共同代表理事・マギーズ東京センター長)
鈴木美穂(NPO法人マギーズ東京 共同代表理事)

2016
大賞

須永珠代トラストバンク 代表取締役社長)

メガヒットメーカー賞

浅井茉莉子(文藝春秋 『文學界』編集部)

次世代ものづくり賞

中澤優子(UPQ CEO 代表取締役)

ベストマーケッター賞

藤原かおり(カルビー マーケティング本部 フルグラ事業部 事業部長)

未来をつくるサイエンティスト賞

髙橋政代(理化学研究所 多細胞システム形成研究センター網膜再生医療研究開発プロジェクト プロジェクトリーダー・眼科医)

情熱経営者賞

石坂典子(石坂産業 代表取締役)

チェンジメーカー賞

村木真紀(特定非営利活動法人虹色ダイバーシティ 代表)

2015
大賞
準大賞〈リーダー部門〉

玉城絵美(H2L株式会社 チーフリサーチャー)

準大賞〈キャリアクリエイト部門〉

山上遊(LIXIL総合研究所 新事業創造部グローバル環境インフラ研究室 主幹)

入賞〈リーダー部門〉

堀田聰子(独立行政法人 労働政策研究・研修機構 研究員)
森本咲子(ユー・エス・ジェイ マーケティング部プロダクト担当部長)

入賞〈キャリアクリエイト部門〉

大森智子(Go Go Curry USA, Inc. President & CEO)
御手洗瑞子(株式会社気仙沼ニッティング 代表取締役社長)

入賞〈ヒットメーカー部門〉

川村有里(シャープ 健康・環境システム事業本部 調理システム事業部 商品企画部 係長)
小林靖子(脚本家)
横手莉加(ライオン株式会社 ヘルス&ホームケア事業本部ビューティケア事業部)

2014
大賞<キャリアクリエイト部門>
準大賞<リーダー部門>

片田江舞子(株式会社東京大学エッジキャピタル パートナー)

準大賞<ヒットメーカー部門>

岩倉暢子日本放送協会 デザインセンター 映像デザイン部)

入賞<リーダー部門>

山田由佳(パナソニック 先端技術研究所 エコマテリアル研究グループ グループマネージャー)

入賞<ヒットメーカー部門>

川上登美子(資生堂 国際事業部 アジアパシフィック営業部)
藤代智春(ピップ 商品開発事業本部 マーケティング部)

入賞<キャリアクリエイト部門>

坪内知佳(萩大島船団丸 代表)
田中知美(合同会社エッジ 代表 合同会社ドリームオン 代表)
吉田正子(東京海上日動火災保険株式会社 執行役員 旅行業営業部長)

2013
大賞<リーダー部門>

諏訪貴子ダイヤ精機 代表取締役)

準大賞<ヒットメーカー部門>

白井明子(ローソン 広告販促企画部 兼CRM推進部アシスタントマネジャー)

準大賞<リーダー部門>

坪内南(一般財団法人 教育支援グローバル基金 理事・事務局長)

リーダー部門入賞

阿部玲子(オリエンタルコンサルタンツ GC事業本部軌道交通部 部長)
関根近子(資生堂 執行役員 美容統括部長ビューティークリエーション担当、資生堂学園担当)

入賞<ヒットメーカー部門>

稲垣あゆみ(NHN Japan株式会社 ウェブサービス本部 UXデザイン室 UXチーム)
久米さやか(サントリー食品インターナショナル 食品事業本部 食品事業部 ブランド戦略部)

入賞<キャリアクリエイト部門>

遠藤貴子(株式会社つ・い・つ・い 代表取締役)
櫻井千秋(大塚製薬 常務執行役員ニュートラシューティカルズ事業部コスメディクス事業部門担当リーダー)
鮫島弘子(andu amet (アンドゥ アメット) 代表取締役)

2012
大賞

石井美恵子(日本看護協会 看護研修学校 認定看護師教育課程 救急看護学科 主任教員)

準大賞

森本千絵(goen゜主宰 コミュニケーションディレクター アートディレクター)

準大賞

瀬谷ルミ子(特定非営利活動法人 日本紛争予防センター 事務局長)

リーダー部門入賞

野坂千秋(味の素 執行役員 食品事業本部 食品研究所 商品開発センター長)

リーダー部門入賞

服部道江(大林組 新タワー建設工事事務所 副所長)

ヒットメーカー部門入賞

東文恵(アテックス 商品開発部 部長)

ヒットメーカー部門入賞

橋本芙美共同テレビジョン 制作センター第1制作部 プロデューサー)

キャリアクリエイト部門入賞

塚本良江(NTTコミュニケーションズ アプリケーション&コンテンツサービス部 マーケティングソリューション部門 部門長)

ヒットメーカー部門入賞

安田玲美(CRC世研有限公司 総経理)

特別賞
2011
大賞 1位

福島理恵子(東芝 研究開発センターマルチメディアラボラトリー 主任研究員兼エコテクノロジー推進室参事)

2位

大石亜紀子(スタートトゥデイ 取締役(想像戦略室・フルフィルメント本部担当))

3位

清水季子日本銀行 高松支店長)

4位

日置真世(北海道大学大学院教育学研究院附属子ども発達臨床研究センター助手/NPO法人地域生活支援ネットワークサロン理事兼事務局顧問)

5位

屋代浩子(フォルシア 代表取締役社長・最高経営責任者)

6位

五十嵐麻子(飛鳥新社 出版部 第三編集)

7位

青木計世(キューデン・エコソル 常務取締役)

8位

長谷川歩(バンダイ ボーイズトイ事業部 ホビーチーム)

9位

熨斗麻起子(中国・深圳 可宝得環保技術有限公司 総経理)

10位

小林麻美(日本コカ・コーラ マーケティング本部 ウォーターカテゴリーウォーターグループマネジャー)

ヒットメーカー部門

二宮恭子(ポーラ 商品企画部 課長)
仁平知世(東宝 映像本部 映画企画部 プロデューサー)

キャリアクリエイト部門

白木夏子(株式会社HASUNA 株式会社HASUNA 代表取締役)
高橋啓子(米国サンフランシスコのフランス料理店「EL PASEO」エグゼクティブ・シェフ)

2010
大賞 1位<リーダー部門>

西郷真理子(都市計画プランナー/株式会社まちづくりカンパニー・シープネットワーク代表取締役)

2位<リーダー部門>

小竹貴子(クックパッド 執行役)

3位<キャリアクリエイト部門>

清村千鶴(ファイザー 執行役員)

4位<リーダー部門>

関西佳子(水間鉄道 代表取締役社長)

5位<ヒットメーカー部門>

梶原奈美子(キリンビール マーケティング部 商品開発研究所 新商品開発グループ)

6位<キャリアクリエイト部門>

和崎揚子(日本郵船 経営委員)

7位<リーダー部門>

渡邊智恵子(株式会社アバンティ 代表取締役)

8位<ヒットメーカー部門>

呉裕利子(花王 ファブリック&ホームケア事業ユニット ファブリックケア事業グループ シニア開発マネージャー)

9位<リーダー部門>

高橋泉(KSGグループ CEO)

10位<ヒットメーカー部門>

吉本光里(松竹 映画宣伝部 宣伝企画室 宣伝プロデューサー)

今年の顔

福島みずほ(内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全、少子化対策、男女共同参画)
湊かなえ(作家)

2009
大賞 1位<ヒットメーカー部門>

白井恵美(ユニクロ 執行役員 商品本部 ウィメンズMD部 部長)

2位<リーダー部門>

石黒不二代ネットイヤーグループ ネットイヤーグループ 代表取締役社長 兼 CEO)

3位<ヒットメーカー部門>

田渕久美子(脚本家)

4位<キャリアクリエイト部門>

神崎夕紀(キリンビール 栃木工場 醸造担当 部長)

5位<キャリアクリエイト部門>

須田久美子(鹿島建設 東京土木支店裏高尾JV工事事務所 副所長)

6位<ヒットメーカー部門>

岡田圭子(シナリオライター)

7位<リーダー部門>

中橋恵美子(シャープ 健康・環境システム事業本部 調理システム事業部長)

8位<リーダ-部門>

相幸子(三菱UFJ信託銀行 フロンティア戦略企画部 環境室 室長)

9位<リーダー部門>

松浦真弓宇宙航空研究開発機構 JEM運用プロジェトチーム フライトディレクタ)

10位<ヒットメーカー部門>

吉本光里(ワニブックス書籍編集部 主任)

特別賞

上野由岐子2008年北京オリンピック ソフトボール日本代表)

話題賞

勝間和代(経済評論家)

2008
大賞 1位<リーダー部門>

野尻知里テルモ 執行役員 テルモハート社 社長)

2位<リーダー部門>

永谷亜矢子東京ガールズコレクション 実行委員会 チーフプロデューサー)

3位<リーダー部門>

松場登美(石見銀山生活文化研究所 取締役所長)

4位<キャリアクリエイト部門>

小島幸子(クメール アンコール フーズ 代表取締役社長)

5位<ヒットメーカー部門>

海老澤香織(花王 ビューティケア事業ユニット プレミアム・ヘアケアグループ インバスグループ)

6位<ヒットメーカー部門>

中園ミホ(シナリオライター)

7位<リーダー部門>

松村文代(東芝 産業システム社 事業開発推進統括部 課長代理)

8位<リーダ-部門>

吉高まり(三菱UFJ証券 クリーン・エネルギー・ファイナンス委員会 主任研究員)

9位<ヒットメーカー部門>

遠藤千咲(タカラトミー マーケティング統括本部 ニュープロダクトチーム)

10位<キャリアクリエイト部門>

橘田佳音利(フラジュテリー 代表取締役社長)

特別賞

菊地凛子(女優)

2007
大賞 1位<リーダー部門>

南場智子ディー・エヌ・エー 代表取締役社長)

2位<リーダー部門>

宮井真千子松下電器産業 クッキング機器ビジネスユニット長)

3位<リーダー部門>

中村利江夢の街創造委員会 代表取締役社長)

4位<キャリアクリエイト部門>

橋本真由美ブックオフコーポレーション 代表取締役社長兼COO)

5位<ヒットメーカー部門>

中川潤子シャープ 情報通信事業本部 通信融合端末事業部 第1商品企画部部長)

6位<リーダー部門>

大石佳能子(株式会社メディヴァ 代表取締役)

7位<キャリアクリエイト部門>

根本かおる国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) ネパール・ダマク駐在事務所所長)

8位<リーダ-部門>

清岡久幸(株式会社タケックス・ラボ 代表取締役)

9位<ヒットメーカー部門>

鈴木里佳(三洋電機 パワーグループ モバイルエナジーカンパニー マーケティング部 マーケティング課 主任)

10位<ヒットメーカー部門>

横井千香子(クレディセゾン 取締役クレジット本部副本部長)

特別賞

荒川静香(プロフィギュアスケーター)

2006
大賞 1位<リーダー部門>

木山啓子(インテグレックス NPO法人ジェン(JEN)理事・事務局長)

2位<キャリアクリエイト部門>

林文子ダイエー 代表取締役会長 兼 CEO)

3位<リーダー部門>

秋山咲恵(サキコーポレーション 代表取締役社長)

4位<ヒットメーカー部門>

郡司裕子(新潮社 出版部 文芸第二編集部副編集長)

5位<リーダー部門>
6位<リーダー部門>

南場智子ディー・エヌ・エー 代表取締役社長)

7位<リーダー部門>

秋池玲子産業再生機構 マネージングディレクター)

8位<リーダ-部門>

奥キヌ子( レキオファーマ 代表取締役社長)

9位<ヒットメーカー部門>

平岡利枝(三菱電機 冷蔵庫製造部冷蔵庫先行開発グループマネージャー)

10位<ヒットメーカー部門>

高橋美由紀(日産自動車 マーケティング本部マーケティングダイレクターオフィス マーケティング・ダイレクター)

特別賞

宮里藍(プロゴルファー)

話題賞

中島美嘉(アーティスト)

2005
大賞 1位<リーダー部門>

秋山をね(インテグレックス 代表取締役)

2位<ヒットメーカー部門>

丸田智子国際メディア・コーポレーション 映像事業部 シニアマネージャー)

3位<リーダー部門>

水越洋子(ビッグイシュー日本版 編集長)

4位<リーダー部門>

岩宮陽子(飾一 代表取締役社長)

5位<リーダー部門>

内出幸美(気仙デーサービスセンターグループホーム「ひまわり」総所長)

6位<リーダー部門>

関幸子(まちづくり三鷹 事業部企画事業 グループマネジャー)

7位<リーダー部門>

坂東敬子(ワコール ワコールブランド事業本部 コンフォートプロデューサー)

8位<ヒットメーカー部門>

荒金久美(コーセー 商品開発部部長)

9位<ヒットメーカー部門>

齋藤未来(ナムコ チームナンジャ「自由が丘スイーツフォレスト」ストアディレクター)

10位<キャリアクリエイト部門>

金城祐子(グレイスラム代表取締役社長)

2004
大賞 1位<リーダー部門>

唐木幸子オリンパス ライフサイエンスカンパニーゲノム医療事業推進室グループリーダー)

2位<リーダー部門>

浅川智恵子日本IBM 東京基礎研究所 アクセシビリティーリサーチ グループリーダー)

3位<リーダー部門>

野田由美子(プライスウオーターハウスクーパース・フィナンシャル・アドバイザー・サービス パートナー)

4位<ヒットメーカー部門>

本間絹子電通 コピーライター/CMプランナー)

5位<リーダー部門>

岸谷美穂(ピースウィンズ・ジャパン 海外事業部 前クルド人自治区コーディネーター)

6位<リーダー部門>

名取美和(タイ・チェンマイHIV感染孤児施設「バーンロムサイ」代表)

7位<キャリアクリエイト部門>

新井順子(資生堂[要出典] フランスワイン醸造家)

8位<ヒットメーカー部門>

星野有香(ギャガ・コミュニケーションズ ギャガ・ディストリビューション・カンパニーバイスプレジデント)

9位<ヒットメーカー部門>

井上由美子(脚本家)

10位<今年の顔>

杉山愛(プロテニスプレーヤー)

2003
大賞 1位<リーダー部門>

小川善美インデックス代表取締役社長)

2位<リーダー部門

惣万佳代子(NPO法人このゆびとーまれ代表)

3位<キャリアクリエイト部門>

堀木エリ子(堀木エリ子&アソシエイツ代表 和紙プロデューサー)

4位<ヒットメーカー部門>

池田香代子(翻訳家 口承文芸研究家)

5位<ヒットメーカー/リーダー部門>

加治木紀子(オフィスノア代表取締役)

6位<リーダー部門>

小出寛子(日本リーバ取締役 粧業品マーケティング本部長)

7位<今年の顔>

上原彩子(ピアニスト)

8位<リーダー部門>

飯田桂子(シグノシステムジャパン代表取締役社長)

9位<リーダー部門>

藤井絢子(菜の花プロジェクトネットワーク代表)

10位<今年の顔>

元ちとせ(歌手)

特別賞<今年の顔>

高橋尚子(マラソン選手)

2002
大賞 1位<リーダー部門>
2位<ネット部門>

宮田由美子

3位<リーダー部門>

木山啓子

4位<ヒットメーカー部門>

藪ゆき子

5位<リーダー/ネット部門>

小川義美

6位<ヒットメーカー部門>

中山千恵子

7位<ネット部門>

関根千佳

8位<カルチャー部門>
9位<キャリアクリエイト部門>

森木千津美

10位<カルチャー部門>
2001
大賞 1位<ヒットメーカー部門>
2位<リーダー部門>
3位<リーダー部門>
4位<脱・事務部門>

池田章子

5位<カルチャー部門>
6位<ネット部門/リーダー部門>

村本理恵子

7位<リーダー部門>
8位<ヒットメーカー部門>
9位<ネット部門>
10位<カルチャー部門>
2000
大賞 1位<ヒットメーカー部門>
2位<キャリア・起業家部門>

筑紫みずえ

3位<ヒットメーカー部門>

渡辺加奈

4位<カルチャー部門>
5位<キャリア・起業家部門>

斉藤裕美

6位<ヒットメーカー部門>
7位<脱・事務部門>

瀬川祐代

8位<カルチャー部門>
9位<キャリア・起業家部門>
10位<ヒットメーカー部門>

川口美也

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全般
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