寿都郡

北海道寿都郡の位置(1.寿都町 2.黒松内町 緑:後に他郡から編入された区域)

寿都郡(すっつぐん)は、北海道後志国後志総合振興局

人口5,157人、面積440.9km²、人口密度11.7人/km²。(2024年3月31日、住民基本台帳人口)

以下の2町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。

  • 寿都町の一部(樽岸町以西)[1]
  • 黒松内町の一部(旭野、黒松内、中里、豊幌、大成、東川以南)[1]

歴史

郡発足までの沿革

江戸時代、寿都郡域は和人地となる。松前藩によってスツツ場所が開かれ、寛永4年4月には寿都神社が創建されている。

陸上交通は、沿岸部に渡島国から天塩国増毛郡へ至る道(国道229号の前身)が通じ、また胆振国山越郡からの道はもともと寛政・文化年間よりもあとに黒松内在住の利右衛門が木賃宿渡船を営んでいたが、安政年間に黒松内越(道道寿都黒松内線の前身)が開削され、これは黒松内を通り追分で分岐しそれぞれ寿都と歌棄郡に通じていた。黒松内越は歌棄場所請負人桝屋栄五郎の父・定右衛門が黒松内以北を、黒松内以南は箱館弁天町の福治郞、千代田の才太郎の2人が工事を請け負っている。海上交通は北前船の航路も開かれていた。

江戸時代後期の文化4年には、寿都郡域は天領とされた。文政4年には松前藩の元に戻されたものの、安政2年再び天領となり、津軽藩が寿都に出張陣屋を築き警固にあたった。安政6年の6藩分領時から戊辰戦争までは津軽藩領となっていた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して寿都郡が置かれた。郡の成立時、東に隣接する歌棄郡とは朱太川で境界を成し、緑橋より上流の黒松内地区は当初胆振国虻田郡に属していた。

郡発足以降の沿革

北海道一・二級町村制施行時の寿都郡の町村(25.寿都町 26.黒松内村 27.政泊村 28.樽岸村 緑:寿都町 下橙:黒松内町)
  • 明治2年8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、後志国および寿都郡が設置される。開拓使が管轄。
  • 明治5年 - 胆振国虻田郡黒松内村の所属郡が本郡に変更[2]
    • 4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
    • 10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
  • 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
  • 第7大区
    • 4小区 : 湯別村、樽岸村、六条村、岩崎村
    • 5小区 : 中歌村、矢追村、政泊村
    • 6小区 : 黒松内村

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b その他の区域は1955年歌棄郡磯谷郡から編入。
  2. ^ [1]

参考文献

関連項目

札幌市
その他市部
石狩振興局管内の郡
渡島総合振興局管内の郡
檜山振興局管内の郡
後志総合振興局管内の郡
空知総合振興局管内の郡
上川総合振興局管内の郡
留萌振興局管内の郡
宗谷総合振興局管内の郡
オホーツク総合振興局管内の郡
胆振総合振興局管内の郡
日高振興局管内の郡
十勝総合振興局管内の郡
釧路総合振興局管内の郡
根室振興局管内の郡
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