時憲暦

西暦1895年に調印された下関条約。右頁に書かれている締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「明治二十八年四月十七日」となっているのに対して、時憲暦であったの日付は「光緒二十一年三月二十三日」となっている。

時憲暦(じけんれき、満州語: ᠸᠣᠷᡤᠣᠨ ᡳ
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、転写: forgon i yargiyan ton)は、明末清初に作られた中国暦の一つで、公式なものとしては中国で最後に使われた太陰太陽暦暦法である。西洋天文学の成果を取り入れ、太陰太陽暦では初めて定気法が採用された。

解説

時憲暦は、ドイツケルン出身のイエズス会宣教師アダム・シャール(湯若望)によって、初に編纂されたものである。前段階として、朝最後の皇帝・崇禎帝から、当時使用されていた大統暦よりももっと正確なを作るようにとの命を受け、徐光啓の主宰のもと複数人で『崇禎暦書』(すうていれきしょ、崇禎暦)を作成し、1634年に完成させていた。しかし改暦が実行されるより先に、1644年3月に李自成北京を占領し、崇禎帝は自殺、明は滅亡した。直後に李自成軍を破って北京を占領したは天文学に明るいシャールを重用し、同年10月に「時憲暦」として全国に公布された。また『崇禎暦書』が『西洋新法暦書』と改められて献上された。1646年、シャールは正式に国立天文台所長に任命された。

後に、乾隆帝が「弘暦」であったため、中国では「暦」の字の使用を避け時憲書(じけんしょ、満州語: ᡝᠷᡞᠨ
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ᠪᡞᠳᡥᡝ
、転写: erin forgon i ton i bithe)と呼ぶようになった。

受容

18世紀には、何国宗(中国語版)梅穀成(中国語版)梅文鼎の孫)らが『崇禎暦書』を発展させて『暦象考成』(『律暦淵源』所収)を編纂した[1]

時憲暦は燕行使によって李氏朝鮮に持ち込まれた。また『崇禎暦書』『暦象考成』は江戸時代の日本に舶来し、暦学者に読まれた[1][2]

暦の廃止とその後

中国では、1912年中華民国建国および清朝滅亡まで時憲暦が使われていた。中華民国は建国と同時にグレゴリオ暦太陽暦)を採用し、さらに清朝が滅亡すると中国全土でも同暦が正式な暦となったため、時憲暦は現在まで公式な暦として中国最後の太陰太陽暦となっている。

その後さまざまな変転があったが、21世紀現在でも春節の日取りは旧暦(= 時憲暦)をもとに決定することになっているため、公的にも一部残存する形となっている。

関連項目

  • 天保暦 - 日本における最後の太陰太陽暦による暦法。

外部リンク

脚注

  1. ^ a b 『暦象考成』 - コトバンク
  2. ^ 『崇禎暦書』 - コトバンク
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中国暦順治元年(1644年) - 宣統3年(1911年))
紀元前→後漢 古六暦
?-?
顓頊暦
?-BC105
太初暦
BC104-4
三統暦
5-84
後漢→魏 四分暦
85-236
景初暦
237-444
魏→南朝 元嘉暦
445-509
大明暦
510-589
 
四分暦
222
乾象暦
223-280
北朝 景初暦
398-451
玄始暦
412-522
正光暦
523-565
興和暦
540-550
天保暦
551-577
天和暦
566-578
四分暦
221-263
 
北朝→隋 大象暦
579-583
開皇暦
584-596
大業暦
597-618
戊寅元暦
619-664
麟徳暦
665-728
大衍暦
729-761
五紀暦
762-783
正元暦
784-806
観象暦
807-821
宣明暦
822-892
 
唐→後周 崇玄暦
893-955
後周、北宋、南宋 欽天暦
956-963
応天暦
963-981
乾元暦
981-1001
儀天暦
1001-1023
崇天暦
1024-1065
明天暦
1065-1068
崇天暦
1068-1075
奉元暦
1075-1093
観天暦
1094-1102
占天暦
1103-1105
紀元暦
1106-1135
後晋、遼 調元暦
893-943?
961-993
大明暦
994-1125
 
南宋 統元暦
1136-1167
乾道暦
1168-1176
淳熙暦
1177-1190
会元暦
1191-1198
統天暦
1199-1207
開禧暦
1208-1251
淳祐暦
1252
会天暦
1253-1270
成天暦
1271-1276
元以降 重修大明暦
1182-1280
授時暦
1281-1644
時憲暦
1645-1911
グレゴリオ暦
1912-
大明暦
1137-1181