森乃福郎

森乃 福郎(もりの ふくろう)は、上方落語名跡。当代は2代目。代々の出囃子は「獅子舞(大阪名物)」。

三友派結成の立役者の一人・初代笑福亭福松の直系であり、本来の亭号は「笑福亭」であったが、初代の弟子である2代目笑福亭福三が2代目福郎を襲名するにあたり、「森乃」を正式の亭号とし、定紋も笑福亭の「五枚笹」からフクロウを模った紋に改めた。

初代

画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。2015年2月
初代 森乃もりの 福郎ふくろう
本名 仲川 吉治
生年月日 1935年9月3日
没年月日 (1998-12-27) 1998年12月27日(63歳没)
出身地 日本の旗 日本京都市中京区
師匠 3代目笑福亭福松
名跡 1. 笑福亭福郎(1956年 - 1961年)
2. 森乃福郎(1961年 - 1998年)
出囃子 獅子
活動期間 1956年 - 1998年
活動内容 上方落語
所属 松竹芸能
公式サイト 森乃福郎(初代) - 上方落語家名鑑
備考
上方落語協会会員(1957年 - 1998年)
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初代 森乃福郎1935年9月3日 - 1998年12月27日 本名:仲川なかがわ 吉治よしはる)は、落語家タレント。出囃子は『獅子』。京都市中京区出身。

来歴・生涯

落語家活動

京都先斗町の御茶屋の息子に生まれる。子供の頃から演芸が好きで、京都府立鴨沂高等学校在学中の1955年には新関西新聞主宰の演芸コンクールに出場し「強情灸」を演じる。その時の審査員の奥野しげるの紹介で、高校卒業後に1956年4月に3代目笑福亭福松(前名は2代目文の家かしく三友派で活躍した2代目桂文之助の実子)に入門、笑福亭福郎を名乗り、同年12月に戎橋松竹で初舞台。1961年後半、藤山寛美の命名で森乃福郎に改名し、終生この名で通した。ただ改名を巡る事情(次項に記述)もあり、上方落語協会の会員名簿には「森乃福郎(笑福亭福郎)」と記載され、定紋も笑福亭の五枚笹を使用した。その一方で、弟子の亭号は「笑福亭」と「森乃」が併存していた。

師の実父の名跡であり、福郎自身も憧憬を抱いていた3代目桂文之助1987年に襲名する計画が、所属する松竹芸能で立ち上がっていたが、同時に2代目笑福亭松翁を襲名する予定であった6代目笑福亭松鶴が前年に亡くなったため、立ち消えになっている。

タレント活動

入門早々からテレビ番組「奥さん!2時です」(毎日放送東京12チャンネル共同制作[1])、「23時ショー」(NETテレビ[2])、「八木治郎ショー」(毎日放送)、「森乃福郎・田辺靖雄のお昼にあいましょう」(朝日放送)、「スタジオ2時」(毎日放送)、「寛美の落語紳士録」(毎日放送)やラジオ番組「お早うキンキ、ハイハイ福郎です」(近畿放送)、「ポップ対歌謡曲」(朝日放送)等の司会者として、また漫才上方柳次・柳太とのユニット「大阪爆笑三人組」として活躍。3代目桂米朝と並んで落語家タレントの草分け的存在であった。漫談をメインとするようになったのは、1961年に花月亭九里丸が引退して関西から漫談家がいなくなることを憂慮した松竹新演芸勝忠男が説得した結果である[3]

晩年

1989年頃に体調を崩し片肺を摘出してからは第一線から退き、タレントの活動をセーブ。落語の活動を中心とした落語会、浪花座などに出演するようになる。その後は入退院を繰り返し、1998年12月27日、肺炎併発による呼吸不全のため死去。63歳没。

主なネタ

落語家としては、『滑稽清水』『太閤の猿』『大丸屋騒動』『半分垢』『崇禅寺馬場』などの古典落語の珍品や、『指南書』『象の足跡』『アメリカ人の恋』など師の実父・2代目桂文之助が作った新作落語をかける事が多く、演じた噺の中には筒井康隆が作った『妊娠』のような異色作もある。

競馬関連の活動歴

  • 競馬ファンでも知られ、1969年より関西テレビテレビ西日本の「競馬中継」の司会者を長く務めた他、馬主にもなっている。馬主としての勝負服模様は「黒・黄星散・袖水色縦縞」、所有馬の冠号は「―ハット」[4]
  • 馬券は一貫して穴買いを貫き、中央競馬で連勝式馬券が枠番連勝複式(枠連)しかなかった時代に、7万円超の配当を的中させたことがある[5]
  • 1973年桜花賞を前にして、「キシュウローレルが負けたら、逆立ちで京都競馬場を一周しますわ。」と豪語した。そして同馬は同レースでニットウチドリに完敗し2着に終わったため、「約束」の実現が期待されたが、ついに果たされなかった[6]

その他

  • 俳優田宮二郎は鴨沂高校の同級生であり、1978年12月28日の「スタジオ2時」オンエアー中に福郎の口から田宮の自殺が速報として伝えられた。この時、福郎は悔しさの余り「何さらすんじゃ!」と怒鳴って田宮の訃報が書かれた原稿を床に叩きつけ、その場で号泣した。
  • 師匠が「福太郎」を名乗っていたこともあり、若い頃には「狸(太抜き)の福郎」と言われていた。風貌は長身で端正な顔立ち、甘いルックスで、枕などでは「日本のアラン・ドロン 森乃福郎」と言っていた。
  • 中村梅之助主演のテレビ時代劇遠山の金さん捕物帳』(NET・東映制作)第67話「世にも気楽な男」にゲスト出演するなど、俳優としても活躍した。

弟子

弟子には福三(現:2代目福郎)、他に廃業した森乃みみずくがいた。

2代目

二代目 森乃もりの 福郎ふくろう
本名 山田やまだ 信悟しんご
生年月日 (1948-08-09) 1948年8月9日(75歳)
出身地 日本の旗 日本京都府
師匠 初代森乃福郎
名跡 1. 三代目笑福亭福三
(1972年 - 2000年)
2. 二代目森乃福郎
(2000年 - )
出囃子 獅子舞
牛若丸
活動期間 1972年 -
活動内容 上方落語
所属 松竹芸能
公式サイト 森乃福郎(二代目) - 上方落語家名鑑
備考
上方落語協会理事
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二代目 森乃福郎1948年8月9日 - )は、落語家。本名∶山田 信悟。所属事務所は松竹芸能。出囃子は『獅子舞』。上方落語協会会員。

来歴・人物

平安高校では同期に団時朗がいる。1968年3月に同志社大学入学後は喜劇研究会に所属。卒業目前の1972年2月に初代森乃福郎に入門。前名は三代目笑福亭福三(しょうふくていふくざ)2000年10月に二代目福郎を襲名。

主なネタ

入門3年目から新作落語を手がけ、定期的に新作落語中心の落語会「新撰落語もぎた亭」を開催。古典落語においても、初代福松や2代目文之助の流れを汲む演目や、滅んでいた演目の発掘・復活を進めている。

弟子

外部リンク

脚注

  1. ^ 当時東京12チャンネルの系列局であった毎日放送が制作する水曜日に出演。
  2. ^ 当時の系列局であった毎日放送が制作する金曜日に出演。
  3. ^ 戸田学『上方落語の戦後史』岩波書店、2014年、p.209
  4. ^ 馬主登録は本名で登録していた時期と芸名の「森乃福郎」(いわゆる「仮定名称」)で登録していた時期がある。
  5. ^ 当時司会を担当していた毎日放送日曜競馬中継時代に的中させており、本人がその事実を語っていた。
  6. ^ 週刊競馬ブックのコラム、「マイクでごめん」より(発行日不詳)
  7. ^ 東映京都スタジオ所属の俳優でもあることにちなみ、名前は「あくたー」と伸ばす。

出典

  • 「ビクター落語 上方編 初代森乃福郎」ライナーノート 解説前田憲司
  • 大盛りの福郎 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分) - オフィシャルHP
  • 上方落語家名鑑:森乃福郎(二代目) - 上方落語協会公式プロフィール
  • 『上方落語家名鑑ぷらす上方噺』(天満天神繁昌亭・上方落語協会編、やまだりよこ著、出版文化社、2006年(平成18年)、ISBN 4-88338-351-2)
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