琢如
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琢如 | |
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寛永2年7月2日 - 寛文11年4月14日 | |
幼名 | 茶々麿 |
法名 | 琢如 |
号 | 愚玄 |
院号 | 淳寧院 |
諱 | 光瑛 |
尊称 | 琢如上人 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | (後の、東本願寺系諸派) |
廟 | 大谷祖廟 |
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琢如(たくにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十四代法主[1] 。「琢」ではなく、「琢」の字を用いるのが正式の表記である。
学寮(現、大谷大学)の創設、大谷御坊(現、大谷祖廟)の造営と活躍した。
生涯
年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。また、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記した。
- 寛永2年7月2日[2](1625年8月4日)、東本願寺第十三代 宣如の第2子(次男)として誕生。母は九条幸家の娘。
- のちに伯父九条道房の猶子となる。
- 寛永15年(1639年)、得度。
- 承応2年(1653年)、宣如の隠居により第十四代法主を継承。
- 寛文4年(1664年)11月、隠居し東本願寺法主を長男・常如に譲る。
- 寛文5年(1665年)、本山敷地内に学寮を創設する。
- 寛文10年(1670年)8月2日、東本願寺境内の親鸞及び本願寺歴代の仮墓を、教如・宣如の両墓と共に、本願寺発祥地近くの東山大谷(現、京都市東山区)の地に祖廟を移転し、「大谷御坊」と称し造営に着手する。
- 寛文11年(1671年)4月14日、47歳にて示寂。
脚注
[脚注の使い方]
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本願寺寺基の移転と分立 | |||||||||||||||
東西分立前 (本願寺の歴史) | |||||||||||||||
東西分立後 |
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東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条。 | |||||||||||||||
本願寺歴代 | |||||||||||||||
東西分立前 | |||||||||||||||
東西分立後 |
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略称 - 「西」=本願寺派、「東」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺 |