田漢

全国人民政治協商会議の代議員時代

田漢(でんかん、簡体字表記は田汉1898年3月12日 - 1968年12月10日)は、中国劇作家にして詩人。中華人民共和国の国歌義勇軍進行曲』の作詞者として知られる。湖南省長沙出身。

生涯

1912年に長沙師範学校に入学。1917年に日本に留学、東京高等師範学校に学ぶ。このころ郭沫若と親交を結ぶ。1920年に帰国し、翌21年に上海で中華書局に勤務し、妻の易漱瑜とともに雑誌『南国月刊』を創刊、戯曲(劇文学)を発表する。その後も戯曲を発表し続け、中国話劇の代表的劇作家の一人となる。25年には〈南国社〉を創設し、28年には文学・絵画・音楽・演劇・映画の5部門をもつ南国芸術学院に発展させた。

聶耳(左)と田漢(右)、1933年上海で

1932年に中国共産党に入党する。1935年の映画『風雲児女』の主題歌として「義勇軍進行曲」を作詞した。戦時中は桂林で演劇団体を組織した。

中華人民共和国成立後は中国戯劇家協会主席、政府文化部の戯曲、芸術部門の責任者をつとめた。話劇のほか、京劇など伝統演劇改革をも指導し、京劇『白蛇伝』などの上演台本も執筆。しかし1966年からの文化大革命で、彼の持つ歴史や民族的文化に対する意識の原点が日本文化に依拠していることなど批判の対象となり逮捕投獄され、1968年12月10日、獄中で没した。

没後

1970年、周揚・夏衍・陽翰笙とともに〈4大悪漢〉とされ、さらには1975年には永遠に党籍を剥奪すると決定された。そのため、彼の作詞した歌は歌えず、国歌も曲の演奏にとどめられた。集会ではその代わりに『東方紅』が歌われた。

1979年、この決定は覆され、田漢の名誉は回復された。1982年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会でふたたび『義勇軍進行曲』が中華人民共和国の国歌と定められた。

その他

田漢の姪である田偉(でん・い)は1988年に来日し、1996年には東方文化芸術団を設立するなど日中文化交流活動に努めている[1]

参考文献

  • 劉平『戯劇魂-田漢評伝』 中央文献出版社 1998
  • 田本相・呉戈・宋宝珍『田漢評伝』 重慶出版社 1998
  • 佐藤春夫『一旧友』- 久しぶりに来日した田漢の日本滞在中の話をもとにした小説[2]
  • 谷崎潤一郎『上海見聞録』1926『上海交遊記』1926 - 随筆。二度目の上海行きの際に交流した中国文壇の人々(他に欧陽予倩、郭沫若など)の事が書かれている。

脚注

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  1. ^ “東方文化芸術団プロフィール”. 東方文化芸術団. 2023年3月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月28日閲覧。
  2. ^ 王俊文「一九二七年日中両国作家の「人間事」 : 佐藤春夫・田漢・芥川龍之介・辜鴻銘を中心として」『東京大学中国語中国文学研究室紀要』第12巻、東京大学文学部中国語中国文学研究室、2009年10月、(1)-(22)頁、doi:10.15083/00035268、ISSN 13440187、NAID 120001642910。 
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