羽生隆

羽生 隆(はにゅう たかし)は、大正から昭和前半期の中等教育教育者である。

来歴・人物

1919年(大正8年)4月、愛知県第八中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)の初代校長に就任し、英国の名門パブリックスクール・イートン・カレッジ(通称イートン校)をモデルとした教育を推進した(同校は1988年からはイートン校と正式に交換留学を実施している)。 大正デモクラシーを背景にリベラルな教育も推進したが、校内ではあえて当時盛んであった野球を禁止し、蹴球を奨励した。

大阪府立高津中学校(現・大阪府立高津高等学校)第2代校長に着任した時、先代の三澤糾校長の唱えた「自由と創造」を受け継ぎ、創造のためには日々に進み、日々に新たなる自分の発見が必要だ、として校是に「日新日進」を採用した。 また、戦時中で精神鍛錬主義が強いられていたが、生徒の勉強能率を重視し、学校の教室に当時としては画期的なスチーム(低圧蒸気暖房)を設置した。

1943年(昭和18年)~1945年(昭和20年)の国語審議会では府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)校長として委員の一人に名を連ねた。

略歴

  • 1919年 愛知八中(現・刈谷高校)初代校長に就任
  • 1925年 愛知一中(現・旭丘高校)校長を経て、大阪府立高津中学校(現・高津高校)第2代校長に就任
  • 1941年 - 1945年 東京府立一中(現・日比谷高校)第12代校長
  • 1943年 東京府立二十三中(現・大森高校)初代校長兼任[1]
  • 1945年 宮城女専(現・東北大学)校長に就任

脚注

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  1. ^ 沿革 都立大森高等学校HP
東北大学総長(宮城県女子専門学校長:1945年 - 1949年)
東北帝国大学総長
東北大学総長
※1949-1994学長
 
前身諸学校・大学長
 
第二高等学校長
第二高等中学校長
  • 吉村寅太郎 1887-1894
第二高等学校長
 
仙台医学専門学校長
第二高等中学校医学部主事
  • 学部長/主事 山形仲芸 1888/1888-1894
第二高等学校医学部主事
  • 山形仲芸 1894-1901
仙台医学専門学校長
  • 心得/校長 山形仲芸 1901/1901-1912
東北帝国大学附属医学専門部主事
  • 山形仲芸 1912-1918
 
仙台高等工業学校長
東北帝国大学附属工学専門部主事
  • 神谷竜彦 1912-1915
  • 心得/主事 新保徳寿 1915/1915-1921
仙台高等工業学校長
仙台工業専門学校長
  • 鶴見一之 1944-1945
  • 田中正三郎 1945-1948
  • 内田黍郎 1948-1951
 
宮城県女子専門学校長
  • 雀部顕宜 1926-1933
  • 三矢英松 1933-1944
  • 事務取扱 飯野哲二 1944-1945
  • 羽生隆 1945-1949
  • 高柳真三 1949-1951