須卜単于

須卜単于呉音:しゅほくぜんう、漢音:しゅうほくせんう、拼音:Xūbŭchányú、生没年不詳)は、中国代に王莽によって立てられた匈奴の対立単于。姓は須卜氏、名はという。攣鞮氏の単于ではなく、その姻戚関係にある貴種の須卜氏の出身なので須卜単于と呼ばれる。もとは右骨都侯であった。

生涯

須卜当は復株累若鞮単于王昭君の娘である云(伊墨居次)を娶る。

始建国元年(9年)、中国で王莽が帝位を簒奪し、を滅ぼしてを建てた。王莽は五威将の王駿らを匈奴へ派遣し、烏珠留若鞮単于に新たな単于印[1]を与えた。しかし、その印綬が匈奴を辱める物になっていたので、烏珠留若鞮単于は右骨都侯の須卜当を王駿らの所へ行かせて抗議させた。

始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于が死去すると、匈奴の国人たちは右骨都侯の須卜当を大臣に起用した。そして、その妻である伊墨居次は孝単于の咸を烏累若鞮単于として即位させ、新の王莽と和親を結ばせた。

天鳳元年(14年)、伊墨居次と須卜当が和親侯の王歙[2]と会見したいと申し出たので、王莽は王歙とその弟である騎都尉展徳侯の王颯を遣わし、単于即位の祝賀と、黄金衣被繒帛を賜い、さらに烏累若鞮単于の子の登が健在であること[3]と、反逆者である陳良と終帯らの送還を求めることを伝えさせた。烏累若鞮単于はこれに応じ、陳良と終帯らを拘束し、新に渡した。

天鳳2年(15年)、須卜当は王莽によって後安公に封ぜられ、息子の須卜奢が後安侯に封ぜられた。

天鳳5年(18年)、烏累若鞮単于が死去し、左賢王の輿が呼都而尸道皋若鞮単于となった。呼都而尸道皋若鞮単于は須卜当の子である大且渠の須卜奢を新へ遣わし、奉献させた。王莽は彼を帰すついでに和親侯の王歙をつけてやり、匈奴の実質的な権力者である須卜当夫婦を長安まで連れてこさせようとした。須卜奢は匈奴に逃げ帰ったが、須卜当は長安に連れてこられ、王莽より須卜単于を拝命された。

須卜単于が病死すると、王莽は自分の娘である陸逯任を須卜奢に娶らせた。

妻子

  • 居次(妻)
    • 伊墨居次(須卜居次、云)…王昭君の娘
    • 須卜奢

脚注

  1. ^ 従来の漢による印綬には「匈奴単于璽」と刻まれていたが、新の印綬には「新匈奴単于章」と刻まれていた。前の印綬には匈奴の自立性を尊重して“漢”の文字を入れなかったが、新しい印綬には新朝に服属するという意味を込めて、わざわざ“新”の文字を入れ、さらに“璽”から“章”にランクを落とされた。
  2. ^ 王歙は王昭君の兄の子であり、伊墨居次の従兄弟にあたる。
  3. ^ この時にはすでに王莽によって処刑されており、嘘を伝えたことになる。

参考資料

  • 漢書』(匈奴伝下)
匈奴対立単于(18年 - 21年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21

北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴
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