アッパー・カナダ

アッパー・カナダ
Upper Canada  (英語)
ケベック植民地 1791年 - 1841年 カナダ植民地
カナダの国旗
国旗
カナダの位置
アッパー・カナダの位置
公用語 英語
首都 ニューアーク
(1792年-1797年)
トロント(ヨーク)
(1797年-1841年)
君主
1791年 - 1820年 ジョージ3世
1820年 - 1830年ジョージ4世
1830年 - 1837年ウィリアム4世
1837年 - 1841年ヴィクトリア
面積
1836年258,999km²
人口
1823年150,196人
1836年358,187人
変遷
設立 1791年12月26日
連合1841年2月10日
通貨ハリファックス・ポンド
現在カナダの旗 カナダ

アッパー・カナダ: Upper Canada)は、現在のカナダオンタリオ州に存在していたイギリス植民地である。

公式には1791年から1842年まで存在し、領域は大まかに現在の南オンタリオに一致した。アッパーという名前は緯度ではなく、川の上流という意味(海抜とも言い換えられる)から来ており、ローワー・カナダからはセントローレンス川の上流 (upper) に位置した。

概要

今日の南オンタリオの地域が最初にヨーロッパの支配下に入ったのは、ヌーベルフランスの一部としてだった。1763年のパリ条約でフランスからイギリスへ割譲され、1774年のケベック法でケベック植民地 (1763年 - 1791年)(英語版)に組み込まれた。アッパー・カナダは、1790年にイギリスの議会を通過した植民地統治法(英語版)によって1791年12月26日に一つの政体となった。この法はケベック植民地をアッパー・カナダとローワー・カナダに分け、それぞれの統治のやり方を定めたものだった。この区分により、アッパー・カナダに住む王党派アメリカ開拓者とイギリスからの移民はイギリスの法律と機構に組み込まれ、フランス語話者の多いローワー・カナダはフランスの市民法とカトリックの信仰を続けることができた。

植民地の統治は、副総督と行政委員会および立法議会によって行われた。初代副総督はジョン・グレイブス・シムコーであった。1796年2月1日、アッパー・カナダの首都はニューアーク(今日のナイアガラオンザレイク)からヨーク(今日のトロント)に移された。これはアメリカ合衆国からの攻撃に耐えやすいと判断したためであった。

アッパー・カナダの地方政府は「地区」が基本であった。1788年に4つの地区が置かれた。

  • ルーネンバーグ地区(1792年にイースタン地区に改称)
  • メクレンバーグ地区(後にミッドランド地区に改称)
  • ナッソー地区(後にホーム地区に改称)
  • ヘッセ地区(後にウェスタン地区に改称)

人口が増えるに連れて既存の地区の中から新しい地区が生まれ、1849年からは郡制が布かれたのでこちらが主流になった。この時、20の地区が存在したが、新しくケント地区を設立する立法は成立せずに終わる。1841年まで地区の役人は、たいていその地元の出身者であったが、副総督が任命した。地区の管理状況を監視して訴訟を扱うため、各地区には年4回、四季裁判所が設けられた。

米英戦争 (1812年-1815年)

米英戦争の間、アッパー・カナダは防御が弱く、アメリカから移住者が多く居たためにアメリカの主要な目標になった。しかしアメリカ合衆国内の分裂、ピリッとしないアメリカの民兵、能力の落ちるアメリカ軍の指揮官、それにイギリス軍指揮官アイザック・ブロックの素早く思い切りの良い行動によって、アッパー・カナダを北アメリカイギリスの一部として守り続けた。

イギリス軍は1812年8月6日デトロイトを占領した。ミシガン準州はイギリス軍の支配下におかれ、1813年にイギリス軍が放棄するまで続いた。

アッパー・カナダ領内で戦われた戦闘は次のようなものがあった。

アメリカ領内のアッパー・カナダ境界である北西部領土(ほとんどは今日のミシガン州)、ニューヨーク州北部および五大湖でも、多くの戦いが行われた。

1815年に批准されたガン条約で戦争が終わり、両国とも元の状態に戻すことで合意された。

反乱分子と1837年の反乱

1800年以後、王党派によって植民地が方向付けられ管理されていくことに疑問を投げかける反乱分子が、植民地にもイギリス本国の役人にも現れた。その指導者はロバート・ソープ、ジョセフ・ウィルコックス、ロバート・グーレイおよび極めつきはウィリアム・ライアン・マッケンジーであった。彼らは税金、土地に関する政策、イギリス聖公会と家族盟約の特権、政府歳出予算および報道の自由について体制にことごとく挑戦した。すべての市民は選挙権は無くとも発言の権利はあるものと主張したが、党派は作らなかった。1831年に王党派がマッケンジーを議会から追放すると紛争が拡大した。1837年、反乱分子の簡単な武装蜂起は失敗した。政府はアメリカの影響を非難して、「この国では、不幸なことにアメリカ市民の定住があまりに多く認められ、奨励された。このために地域社会の中には不誠実な敵がいる。 ... 植民地の多くの地域で、教師達はアメリカ人である。... これらの教師はイギリスのことを全く知らず、生徒を教えるときにイギリスと植民地の関係が投げかける義務のどれ一つも教えられない」とした。寡頭政治的な家族盟約を守護する王党派は次のように説明した。「急進派、革命家あるいは破壊分子はすべてアメリカの開拓者と土地の投機家で構成されており、古い階級の農夫で単純で無知な輩と毎年のようにアメリカやイギリスからやってくる冒険の徒が、それぞれの国の法律から逃れようとしている。」

初代ダーラム伯爵ジョン・ラムトン(ダーラム卿)による「責任ある政府」の支持により王党派の勢力を削ぎ、徐々に大衆は行政の貧弱さ、不公平な土地と教育の政策および性急な輸送需要に対する不適切な関心を拒絶していった。1840年代遅くまでにロバート・ボールドウィンとルイ・ラフォンテーヌによる責任ある政府が実現した。

土地の開拓

土地はフランス統治時代から開拓され続け、特にデトロイト川セントローレンス川沿いは開拓された。しかし、アメリカ独立戦争後の1784年に王党派逃亡者と軍事関係者によって土地の開拓が加速された。その結果、1791年のアッパー・カナダ設立以前に、1763年宣言に従って、多くの土地が先住民族からイギリスに割譲されてきた。この土地はケベック政府によって調査され、特にセントローレンス川沿いの東オンタリオは西部郡区に、ローワー・カナダでは東部郡区として調査された。

初期の市政は地区の創設とともに始まった。特にウエスタン地区(今日のブラントフォードを含む)、イースタン地区、ゴア地区(今日のハミルトンを含む)およびホーム地区(今日のトロントを含む)で顕著であった。

アッパー・カナダでは1793年7月9日奴隷制度反対法が成立した。

組織的な開拓地地割が決められたが、牧師保留地は別にされた。また1804年に設定されたエリー湖北岸のタルボット開拓地は例外とされた。

この開拓地地割は米英戦争の後、セントローレンス川、オンタリオ湖、エリー湖の岸を越えて広がった。1828年、イギリスはアッパー・カナダの初代移民局長官にA.C.ブキャナンを指名した。この肩書きは当時の植民地における移民に関してイギリスの中央政府寄りの考え方を反映しており、特に新しく到着する者の多くがイギリスから来ていたことによっていた。

戦争を経験したイギリス軍の古参兵は無償で土地を提供され厳しい冬を耐えて定着した。戦争の前の期間とは異なり、移民はヨーロッパ、特にイギリスからであり、戦争前は大挙してやってきたアメリカからではなかった。非常に安価な、時には無償の土地が移民の気を引くための広告代わりに提供された。これは財政的に厳しい場合でも行われた。大西洋を渡る旅費も木材を運ぶ船の帰り便を利用することによって安価に抑えられた。1830年代初期、人口は毎年10%の率で増え続けた。1820年代には、多くのドイツ語を話すメノナイト移民がペンシルベニア州からアッパー・カナダのグランド川地区に移住し、やはりドイツ語を話すアーミッシュに加わった。彼らの子孫の多くは現在でもペンシルベニアドイツ語を話している。

地下鉄道 (秘密結社)のルートを使って何千もの逃亡奴隷がアメリカからアッパー・カナダへ入っていると見積もられている。

アッパー・カナダは1840年の連合法で政体としては消え、ローワー・カナダと合併してカナダ連合を形成した。これは主としてアッパー・カナダとローワー・カナダでそれぞれ1837年と1837年から1838年に起こった反乱に対応するものだった。1867年のカナダ連邦が造られた時、カナダ連合は再び元の境界で分けられオンタリオ州とケベック州となった。

アッパー・カナダという名前は幾つかの化石化した形で残されている。顕著なものはアッパー・カナダ法律協会、アッパー・カナダ木材、アッパー・カナダ・カレッジ、アッパー・カナダ・モール(オンタリオ州ニューマーケット)およびアッパー・カナダ醸造会社である。

1796年、首都が初めてニューアークからトロントに移されたとき、アッパー・カナダの議会議事堂はパーラメント・ストリートとフロント・ストリートの角にあった。この建物は米英戦争の間に燃えてしまい、再建されたものも事故で再び焼失した。この場所は結局放棄されて、議事堂は西に移された。2001年、元の議事堂の残骸が発見された。今日、開発するか歴史的な場所を解明するか、保存主義者と歴史家の間で論争が繰り広げられている。現在は政府がその場所の大部分を賃貸している。

人口

アッパー・カナダの人口 1806-1840
推定人口
1806 70,718
1811 76,000
1814 95,000
1824 150,066
1825 157,923
1826 166,379
1827 177,174
1828 186,488
1829 197,815
1830 213,156
1831 236,702
1832 263,554
1833 295,863
1834 321,145
1835 347,359
1836 374,099
1837 397,489
1838 399,422
1839 409,048
1840 432,159

参考文献

  • Armstrong, Frederick H Handbook of Upper Canadian Chronology Dundurn Press, 1985. ISBN 0-919670-92-X
  • John Clarke. Land Power and Economics on the Frontier of Upper Canada McGill-Queen's University Press (2001) 747pp. (ISBN 0-7735-2062-7)
  • Craig, Gerald M Upper Canada: the formative years 1784-1841 McClelland and Stewart, 1963, the standard history online edition
  • Dieterman, Frank Government on fire: the history and archaeology of Upper Canada's first Parliament Buildings Eastendbooks, 2001.
  • Dunham, Eileen Political unrest in Upper Canada 1815-1836 McClelland and Stewart, 1963.
  • Errington, Jane The lion, the eagle, and Upper Canada: a developing colonial ideology McGill-Queen's University Press, 1987.
  • Edward Grabb, James Curtis, Douglas Baer; "Defining Moments and Recurring Myths: Comparing Canadians and Americans after the American Revolution" The Canadian Review of Sociology and Anthropology, Vol. 37, 2000
  • Johnston, James Keith. Historical essays on Upper Canada McClelland and Stewart, 1975.
  • William Kilbourn; The Firebrand: William Lyon Mackenzie and the Rebellion in Upper Canada (1956) online edition
  • Lewis, Frank and Urquhart, M.C. Growth and standard of living in a pioneer economy: Upper Canada 1826-1851 Kingston, Ont. : Institute for Economic Research, Queen's University, 1997.
  • McCalla, Douglas Planting the province: the economic history of Upper Canada 1784-1870 University of Toronto Press, 1993.
  • McNairn, Jeffrey L The capacity to judge: public opinion and deliberative democracy in Upper Canada 1791-1854 University of Toronto Press, 2000.
  • J. Edgar Rea. "Rebellion in Upper Canada, 1837" Manitoba Historical Society Transactions Series 3, Number 22, 1965-66 online, historiography
  • Carol Wilton. Popular Politics and Political Culture in Upper Canada, 1800-1850. McGill-Queen's University Press, (2000). 311pp
  • Winearls, Joan Mapping Upper Canada 1780-1867: an annotated bibliography of manuscript and printed maps. University of Toronto Press, 1991.erdvrv

外部リンク

  • Moving Here, Staying Here: The Canadian Immigrant Experience at Library and Archives Canada

* 現在は英連邦王国  ·   現在はイギリス連邦の一員

ヨーロッパ

12世紀
1337-1453  フランス

18世紀
1708–1757  メノルカ島
1713-  ジブラルタル
1763–1782  メノルカ島
1798–1802  メノルカ島

19世紀
1800–1964  マルタ直轄植民地
1801-1921  アイルランド
1807–1890  ヘルゴラント島
1809–1864  イオニア諸島合衆国

20世紀
1921-1937  アイルランド自由国

北アメリカ

17世紀
1607–1776  バージニア
1610–1907  ニューファンドランド
1619-  バミューダ諸島
1620–1691  プリマス
1629–1691  マサチューセッツ湾植民地
1632–1776  メリーランド
1636–1776  コネチカット
1636–1776  ロードアイランド
1637–1662  ニューヘイブン植民地
1663–1712  カロライナ
1664–1776  ニューヨーク
1665–1674 及び 1702-1776  ニュージャージー
1670–1870  ルパート・ランド
1674–1702  東ジャージー
1674–1702  西ジャージー
1680–1776  ニューハンプシャー
1681–1776  ペンシルベニア
1686–1689  ニューイングランド
1691–1776  マサチューセッツ

18世紀
1701–1776  デラウェア
1712–1776  ノースカロライナ
1712–1776  サウスカロライナ
1713–1867  ノバスコシア
1733–1776  ジョージア
1763–1873  プリンスエドワード諸島
1763–1791  ケベック植民地
1763–1783  東フロリダ
1763–1783  西フロリダ
1784–1867  ニューブランズウィック
1791–1841  ローワー・カナダ
1791–1841  アッパー・カナダ

19世紀
1818–1846  コロンビア地区 / オレゴン・カントリー1
1841–1867  カナダ植民地
1849–1866  バンクーバー諸島
1853–1863  クイーンシャーロット諸島植民地
1858–1866  ブリティッシュ・コロンビア領
1859–1870  北西領
1862–1863  スティキン領
1866–1871  バンクーバー島・ブリティッシュコロンビア連合植民地
1867–1931  *カナダ (ドミニオン)2

20世紀
1907–1949  ニューファンドランド3

^1アメリカ合衆国と共同占有。
^21931年、ウェストミンスター憲章によりカナダと他のイギリス自治領は自らの政府を持つ。(イギリス連邦も参照)
^31934年に自治政府を自ら放棄し、1949年にカナダに編入されるまで事実上のイギリス自治領。

ラテンアメリカとカリブ海

17世紀
1605–1979  *セントルシア
1623–1883  セントキッツ・ネイビス
1624–1966  ·バルバドス
1625–1650  セント・クロイ島
1627–1979  *セントビンセント・グレナディーン
1628–1883  セントキッツ・ネイビス
1629–1641  セント・アンドリュー・プロビデンス諸島4
1632-  モントセラト
1632–1860  アンティグア(アンティグア・バーブーダ)
1643–1860  バイア諸島
1650-  アンギラ
1651–1667  ウィロフビーランド(スリナム)
1655–1850  モスキート湾
1655–1962  *ジャマイカ植民地
1666-  イギリス領ヴァージン諸島
1670-  ケイマン諸島
1670–1973  *バハマ
1670–1688  セント・アンドリュー・プロビデンス諸島4
1671–1816  リーワード諸島

18世紀
1762–1974  *グレナダ
1763–1978  ドミニカ
1799-  タークス・カイコス諸島

19世紀
1831–1966  ギアナ(ガイアナ)
1833–1960  ウィンドワード諸島
1833–1960  リーワード諸島
1860–1981  *アンティグア・バーブーダ
1871–1964  ホンジュラス(ベリーズ)
1882–1983  *セントキッツ・ネイビス
1889–1962  トリニダード・トバゴ

20世紀
1958–1962  西インド連邦

^4現在のコロンビアサン・アンドレス・イ・プロビデンシア県

アフリカ

18世紀
1792–1961  シエラレオネ
1795–1803  ケープ植民地

19世紀
1806–1910  ケープ植民地
1816–1965  ガンビア
1856–1910  ナタール植民地
1868–1966  バストランド(レソト)
1874–1957  ゴールド・コースト
1882–1922  エジプト
1884–1966  ベチュアナランド(ボツワナ)
1884–1960  ソマリランド
1887–1897  ズールーランド
1888–1894  マタベレランド
1890–1980  南ローデシア(ジンバブエ)
1890–1962  ウガンダ
1890–1963  ザンジバル(タンザニア)
1891–1964  ニヤサランド(マラウイ)
1891–1907  中央アフリカ
1893–1968  スワジランド
1895–1920  東アフリカ
1899–1956  スーダン

20世紀
1900–1914  北ナイジェリア
1900–1914  南ナイジェリア
1900–1910  オレンジ川植民地
1900–1910  トランスヴァール植民地
1906–1954  ナイジェリア植民地
1910–1931  南アフリカ
1911–1964  北ローデシア(ザンビア)
1914–1954  ナイジェリア
1915–1931  南西アフリカ(ナミビア)
1919–1960  カメルーンズ(カメルーン) 5
1920–1963  ケニア植民地
1922–1961  タンガニーカ(タンザニア) 5
1942-1951  リビア
1949-1951  キレナイカ首長国
1954–1960  ナイジェリア連邦

^5国際連盟委任統治

アジア

17世紀
1685-1824  ブンクル州
スマトラ島

18世紀
1702–1705  コンダオ諸島
1757–1947  西ベンガル(インド)とバングラデシュ
1762–1764  フィリピン
1795–1948  セイロン(スリランカ)
1796–1965  モルディブ

19世紀
1819–1826  マレー半島・シンガポール
1826–1946  海峡植民地
1839–1967  アデン植民地
1841–1997  香港
1841–1941  サラワク王国(マレーシア)
1854-1963  上海租界
1848-1946  ラブアン直轄植民地
1858–1947  イギリス領インド(インド、パキスタン、バングラデシュ、ビルマ)
1860-1943  天津租界
1861-1927  漢口租界
1861-1927  鎮江租界
1861-1927  九江租界
1862-1943  沙面租界
1862-1930  厦門租界
1863-1943  上海共同租界
1882–1963  北ボルネオ(マレーシア)
1885–1946  非連合マレー諸国
1888–1984  ブルネイ・スルターン国
1888–1946  スールー王国
1891–1971  マスカット・オマーン
1892–1971  トルシアル諸国保護領
1895–1946  連合マレー諸国
1898–1930  威海衛租借地
1898-1997  新界租借地
1878–1960  キプロス

20世紀
1902-1943  鼓浪嶼共同租界
1918–1961  クウェート
1920–1932  イラク5
1921–1946  トランスヨルダン5
1923–1948  パレスチナ5
1941-1946  イラン
1945–1946  南ベトナム
1946–1948  マラヤ連合
1946–1952  連合国として日本占領
1946–1963  サラワク(マレーシア)
1948–1957  マラヤ連邦(マレーシア)
since 1960  アクロティリおよびデケリア(かつてのキプロスの一部)
since 1965  イギリス領インド洋地域

^5国際連盟委任統治

オセアニア

18世紀
1788–1901  ニューサウスウェールズ

19世紀
1803–1901  ヴァン・ディーメンズ・ランド/タスマニア
1807–1863  オークランド諸島6
1824–1980  ニューヘブリディーズ諸島(バヌアツ)
1824–1901  クイーンズランド
1829–1901  スワン川植民地/西オーストラリア
1836–1901  南オーストラリア
since 1838  ピトケアン諸島
1841–1907  ニュージーランド植民地
1851–1901  ビクトリア
1874–1970  フィジー7
1877–1976  イギリス領西太平洋
1884–1949  パプア領
1888–1965  クック諸島6
1889–1948  トケラウ6
1892–1979  ギルバート・エリス諸島8
1893–1978  イギリス領ソロモン諸島9

20世紀
1900–1970  トンガ
1900–1974  ニウエ6
1901–1942  *コモンウェルス・オブ・オーストラリア
1907–1953  *ニュージーランド
1919–1942  ナウル
1945–1968  ナウル
1919–1949  ニューギニア領
1949–1975  パプアニューギニア領10

^6現在はニュージーランド王冠の一部
^7延期メンバー
^8現在はキリバスツバル
^9現在はソロモン諸島
^10現在はパプアニューギニアの一部

南極大陸と南大西洋

17世紀
1659-  セントヘレナ

19世紀
1815-  アセンション島11
1816-  トリスタンダクーニャ11
1833-  フォークランド諸島12

20世紀
1908-  イギリス領南極地域1314
1908-  サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島1213

^111922年(アセンション島)よりセントヘレナの、1938年より(トリスタンダクーニャ)の属領
^12フォークランド戦争中の1982年4月から6月までアルゼンチンの占領下
^131908年より主張されている
^14南極条約により領土主権や請求権は凍結されている

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