フランク・ハワード

フランク・ハワード
Frank Howard
2009年7月31日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州コロンバス
生年月日 (1936-08-08) 1936年8月8日
没年月日 (2023-10-30) 2023年10月30日(87歳没)
身長
体重
6' 7" =約200.7 cm
255 lb =約115.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1958年
初出場 MLB / 1958年9月10日
NPB / 1974年4月6日
最終出場 MLB / 1973年9月30日
NPB / 1974年4月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
この表について
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フランク・オリバー・ハワードFrank Oliver Howard, 1936年8月8日 - 2023年10月30日)は、アメリカ合衆国オハイオ州コロンバス出身のプロ野球選手外野手)。

来歴・人物

ロサンゼルス・ドジャース時代
(1962年10月)

オハイオ州立大学時代、野球の他にバスケットボールでも全米選抜チームに選ばれた実力があり、フィラデルフィア・ウォリアーズ(現在のゴールデンステート・ウォリアーズ)からドラフト指名も受けていたが、野球を選び、ロサンゼルス・ドジャースと契約する。1958年9月10日にメジャーデビュー。その後もしばらくはマイナーリーグとメジャーを往復するが、1960年にはレギュラーに定着し、23本塁打、77打点を記録し、ナ・リーグルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)に選出された。1962年には33本塁打・117打点と活躍するが、その後2年低調に終わったこともあり、1965年ワシントン・セネタース(現在のテキサス・レンジャーズ)に移籍する。

1968年5月12日から5月18日にかけて、6試合連続・20打数で10本塁打を打った。1週間で10本塁打は現在でもメジャータイ記録。また、これをはさんで16試合で13本塁打を打ち、これも1995年アルバート・ベルが記録するまでなかった。この年は44本塁打で初の本塁打王に輝き、MLBオールスターゲーム初出場も果たした。1970年には44本塁打・132打点を記録し、アメリカンリーグの本塁打王・打点王の二冠に輝く。四球132もリーグ1位であった。タイガー・スタジアム史上3人しかいない、外野席最上段の屋根直撃弾を放った(残りの2人はハーモン・キルブルーセシル・フィルダー)。

セネタースは1972年テキサス州に移転してテキサス・レンジャースとなったが、この年から成績が急降下する。シーズン途中にデトロイト・タイガースに移籍したが、1973年は打率.256、12本塁打に終わった。

シーズン終了後、太平洋クラブライオンズと破格の年俸80,000ドルで契約した[1](当時のレートで約2200万円)。メジャー通算1774安打、382本塁打、1119打点を記録しており、当時日本球界に来た外国人選手の中では最高の実績であった。特にMLB通算本塁打382本、同打点1119打点は2012年シーズン終了後東北楽天ゴールデンイーグルスアンドリュー・ジョーンズが入団するまで日本球界でプレイ経験のある外国人選手としては歴代最多であった。しかし膝の故障のため、1974年の開幕戦1試合に出場したのみで後は出場がなく5月には帰国。身長は約2メートルを超える巨漢でありながら性格は温厚で「足長おじさん」の愛称で慕われていた。

引退後は1981年サンディエゴ・パドレスの監督に就任した。この年のパドレスは後に日本でプレーするランディ・バースルパート・ジョーンズホアン・アイケルバーガー、以前に日本でプレーしていたフレッド・クハウルアが在籍していた。その年はシーズン途中に選手会50日間に及ぶストライキが発生し、シーズンが前後期のスプリットシーズン制にされたが、いずれも最下位に終わり、一年限りで解雇された。1983年途中にニューヨーク・メッツの監督に就任するが、こちらでも最下位に終わり、同年限りで解雇された。2回にわたる監督の通算成績は93勝113敗であった。前後してミルウォーキー・ブルワーズ1977年1980年1985年1986年)、メッツ(1982年~1983年途中、1994年1996年)、シアトル・マリナーズ1987年1988年)、ニューヨーク・ヤンキース1989年1991年1992年)、タンパベイ・デビルレイズ (1998年1999年)でコーチを務めた。2000年以後はヤンキースで育成インストラクターを務めている。

2005年ワシントン・ナショナルズが移転し、首都ワシントンD.C.に34年ぶりにメジャー球団が戻ったが、初試合の試合前の始球式の際にレフトの守備位置につき、観客から大歓声を受けた。

2023年10月30日に死去。87歳没[2]

太平洋入団から退団騒動

1973年に太平洋クラブライオンズがシーズンオフに考え出した策は、現役の超大物メジャーリーガーを獲得して集客力をアップというもの。そして、デトロイト・タイガースに在籍していた現役のメジャーリーガーであるハワードを獲得した。ハワードは上記の通り来日メジャーリーガーの中で一番の実績を誇っていたため、連日マスコミに追われ、日常の些細な出来事でも即記事となるなど、その反響は大きかった。前評判は素晴らしく、『あぶさん』の景浦安武とホームランの競演をするシーンが描かれた[3]

オープン戦から本塁打を放つなど活躍。特に、対巨人戦では川上哲治監督から「すごいね、彼は活躍するでしょう」と賛辞を送られたほどだった。しかし、ハワードは来日時点で既に膝を故障しており、膝の関節の軟骨が磨り減っていたことで、立つことも困難なほどの激痛に襲われ、プレーができない状況下にあった。開幕が近づくにつれ、ハワードの膝痛はプレーに支障が出るほど悪化し、全国スポーツ紙の中で当時唯一九州本社版を発行していたスポーツニッポンが開幕前日頃「ハワードが膝痛で出られる状況にない」と知るとすぐさま一面に「ハワード、開幕欠場」という見出しを掲載した。それを知った当時の稲尾和久監督が、血相を変えてスポニチの記者に「お前、営業妨害する気か!?」と詰め寄ったが、スポーツニッポンの報道は事実となってしまった。

1974年4月6日の日本ハム(平和台)の開幕戦にスタメン出場したが、恐れていた膝痛が悪化しわずか3打席で途中交代。結局開幕戦に出場しただけで、5月には帰国した。球団はハワードが帰国と同時に契約を解除していたが、代理人から「話が違う。残りの金額を支払え」とクレームを付けられ、その上受け入れられなければ裁判に持ち込むとまで言われた。結局、裁判を恐れた球団は残り分も支払うこととなった。

ハワードの一件から、球団は退団と同時に活躍できるメジャーリーガーをリストアップし、6月にマティ・アルーを獲得している。

引退後

引退後はパドレス、メッツで監督を務めた[4]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1958 LAD 8 30 29 3 7 1 0 1 11 2 0 0 0 0 1 0 0 11 1 .241 .267 .379 .646
1959 9 23 21 2 3 0 1 1 8 6 0 0 0 0 2 0 0 9 0 .143 .217 .381 .598
1960 117 487 448 54 120 5 2 23 208 77 0 1 2 2 32 1 3 108 8 .268 .320 .464 .784
1961 92 292 267 36 79 10 2 15 138 45 0 1 1 2 21 3 1 50 12 .296 .347 .517 .864
1962 141 538 493 80 146 25 6 31 276 119 1 0 1 4 39 10 1 108 18 .296 .346 .560 .906
1963 123 459 417 58 114 16 1 28 216 64 1 2 2 3 33 4 4 116 7 .273 .330 .518 .848
1964 134 492 433 60 98 13 2 24 187 69 1 0 1 7 51 10 0 113 14 .226 .303 .432 .735
1965 WHS3 149 575 516 53 149 22 6 21 246 84 0 0 0 2 55 2 2 112 9 .289 .358 .477 .835
1966 146 549 493 52 137 19 4 18 218 71 1 1 0 2 53 6 1 104 14 .278 .348 .442 .790
1967 149 585 519 71 133 20 2 36 265 89 0 1 0 1 60 7 5 155 14 .256 .338 .511 .849
1968 158 663 598 79 164 28 3 44 330 106 0 0 0 5 54 12 6 141 13 .274 .338 .552 .890
1969 161 702 592 111 175 17 2 48 340 111 1 0 0 3 102 19 5 96 29 .296 .402 .574 .976
1970 161 706 566 90 160 15 1 44 309 126 1 2 0 6 132 29 2 125 23 .283 .416 .546 .962
1971 153 633 549 60 153 25 2 26 260 83 1 0 0 5 77 20 2 121 29 .279 .367 .474 .841
1972 TEX 95 331 287 28 70 9 0 9 106 31 1 0 0 1 42 8 1 55 16 .244 .341 .369 .711
DET 14 37 33 1 8 1 0 1 12 7 0 0 0 0 4 0 0 8 0 .242 .324 .364 .688
'72計 109 368 320 29 78 10 0 10 118 38 1 0 0 1 46 8 1 63 16 .244 .340 .369 .709
1973 85 251 227 26 58 9 1 12 105 29 0 1 0 0 24 4 0 28 12 .256 .327 .463 .790
1974 太平洋 1 3 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .000 .333 .000 .333
MLB:16年 1895 7353 6488 864 1774 245 35 382 3235 1119 8 9 7 43 782 135 33 1460 219 .273 .352 .499 .851
NPB:1年 1 3 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .000 .333 .000 .333
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

MLB
  • 本塁打王:2回 (1968年、1970年)
  • 打点王:1回 (1970年)

表彰

MLB
  • 新人王 (1960年)

記録

MLB
NPB

背番号

  • 25 (1958年 - 1964年)
  • 9 (1965年 - 1968年)
  • 33 (1969年 - 1973年)
  • 10 (1974年)

関連項目

脚注

  1. ^ 『菊とバット』253頁
  2. ^ Holleran, Andrew (2023年10月30日). “Legendary MLB Slugger Frank Howard Has Died” (英語). The Spun: What's Trending In The Sports World Today. 2023年10月30日閲覧。
  3. ^ メジャーで活躍!でも期待外れも…プロ野球「大物外国人選手」列伝 FRIDAY DIGITAL 2020年05月09日(2020年6月14日閲覧)
  4. ^ 通算382本塁打のフランク・ハワードさんが87歳で死去 74年に太平洋(現西武)に所属も1試合で退団

参考文献

外部リンク

  • 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
 
獲得タイトル・記録
ナショナルリーグ新人王
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ本塁打王
1900年代
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ打点王
1900年代
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
ロサンゼルス・ドジャース 1963年のワールドシリーズ ロースター
   

選手
03 ウィリー・デービス
06 ロン・フェアリー
08 ジョン・ローズボロ
12 トミー・デービス
14 ビル・スコウロン
16 ロン・ペラノスキー

監督
24 ウォルター・オルストン

コーチ
02 レオ・ドローチャー
27 ピート・ライザー
31 グレッグ・マリービー
33 ジョー・ベッカー

サンディエゴ・パドレス歴代監督
ニューヨーク・メッツ歴代監督