フランク・ロビンソン

フランク・ロビンソン
Frank Robinson
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州ボーモント
生年月日 (1935-08-31) 1935年8月31日
没年月日 (2019-02-07) 2019年2月7日(83歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1953年
初出場 1956年4月17日
最終出場 1976年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
アメリカ野球殿堂
殿堂表彰者
選出年 1982年
得票率 89.16%
選出方法 BBWAA選出
この表について
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プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

フランク・ロビンソンFrank Robinson, 1935年8月31日 - 2019年2月7日)はアメリカ合衆国テキサス州ボーモント出身の元プロ野球選手外野手)、監督。右投右打

史上初めてMLB両リーグでMVPに選出され、ワールドシリーズMVP、オールスターMVP、三冠王、ゴールドグラブ賞などのありとあらゆる栄誉を獲得した。引退後はアフリカ系アメリカ人初のMLB監督となった。

来歴

プロ入り前

ロビンソンは1935年8月31日テキサス州ボーモントにて10人兄弟の末子として生まれる。幼少時に両親の離婚により、母親と兄弟とともにカリフォルニア州アラメダに移住して少年時代を過ごす。 高校は近郊のオークランドのマクリモンズ高等学校(英語版)に通い、同級生には後にNBAで活躍するビル・ラッセルがおり、また、在学中の後輩にはカート・フラッドがいた。

レッズ時代

シンシナティ・レッズでの現役時代
(1961年)

1953年、高校を卒業し、シンシナティ・レッズと契約。契約金は3500ドルで、同年はC級の傘下マイナーチームオグデン・レッズ(ユタ州オグデン)でプレーし、72試合出場して打率.348、83打点をマークする。 1954年、AA級のタルサ・オイラーズ(オクラホマ州タルサ)に昇格してプレーするが、翌1955年、A級コロンビア・レッズ(サウスカロライナ州コロンビア)に降格となり、同年はそこでプレーした。

1956年、レッズに昇格し20歳でメジャーデビュー。152試合出場で新人最多タイの38本塁打を記録し、新人王に選出されたが、同時に新人最多となる20死球を受けているなど不遇なシーズンでもあった。

この後レッズの主軸として活躍して、1961年、ナショナル・リーグ優勝に貢献して最初のナショナル・リーグMVPを受賞した。また、翌1962年、 自身キャリアハイの打率.342、39本塁打、136打点と51二塁打を放っている。

しかし、1965年シーズン後、当時レッズのオーナーであるビル・デウィット(英語版)

30のロートルが。(not a young 30)

と放言された挙句、ボルチモア・オリオールズミルト・パパス(英語版)ら3人とのトレードで放出されてしまう。

オリオールズ時代

1966年よりオリオールズでプレーすることになったロビンソンは捲土重来を期した。チームメイトで主軸のブルックス・ロビンソンと「ロビンソン・コンビ」として活躍し、同シーズンは打率.316、49本塁打、122打点で三冠王に輝く[1]。この三冠がロビンソンの生涯唯一の打撃タイトルであり、かつアフリカ系アメリカ人選手として史上初めての三冠王獲得で、現在でも史上唯一である。

チームもリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズではロサンゼルス・ドジャースを下し、オリオールズ初のワールドチャンピオンとなった。ロビンソンはシーズンMVPとワールドシリーズMVPの両方に選出された。また、両リーグでシーズンMVPとなるのはMLB史上初の快挙だった。

その後も1969年1971年のリーグ三連覇、1970年のワールドシリーズ制覇(奇しくもその時の相手は放出された古巣・レッズだった)に貢献し、1971年9月13日のデトロイト・タイガース戦で通算500号本塁打を達成した。

ロビンソンのオリオールズ在籍時の背番号「20」。
ボルチモア・オリオールズの永久欠番に1972年指定。

1972年に2対4のトレードで、ロサンゼルス・ドジャースへ移籍することとなるが、この退団をもってオリオールズは現役中ながらロビンソンの功績を称え、在籍時の背番号『20』をチーム初の永久欠番に指定することとなった。

ドジャース〜エンゼルス時代

1972年のロビンソンはレッズ以来のナ・リーグでのプレイとなるが打率.251、19本塁打、59打点の成績だった。また、背番号は『36』に変更してつけたが、この当時ドジャースの背番号『20』は後にアメリカ野球殿堂入りするエース、ドン・サットンがつけていたためであった。

同シーズン終了後、今度はカリフォルニア・エンゼルスに4対2[2]のトレードで移籍、翌1973年からは同年より導入された指名打者としてプレーした。1974年までのエンゼルスでのほぼ2シーズンの成績は打率.259、249安打、50本塁打、160打点の成績だった。

インディアンス時代

1974年9月12日、ロビンソンはクリーブランド・インディアンスに移籍、そして移籍3週間後に選手兼任監督に就任することとなった。1975年からは兼任監督でプレーするが、同年肩を故障したこともあり翌1976年までの出場試合数は235試合、打率.226、 14本塁打にとどまり、同1976年をもって現役を引退した。 引退するまでの通算成績は2808試合出場(歴代22位)、打率.294、586本塁打(歴代9位。引退当時は歴代4位)、1812打点(歴代20位。引退当時は歴代12位)と優れた成績を残した。

監督・コーチ時代

前述の通り、1975年にインディアンスで選手兼任で黒人初のメジャーリーグ監督となったロビンソンだが、初年度の1975年は79勝80敗、1976年は81勝76敗と挙げ、翌1977年は26勝31敗の成績を挙げたところで同年6月19日に解任となる。解任後はかつて所属したエンゼルスでコーチに就任し、翌1978年から1980年は古巣オリオールズで永久欠番『20』を背負ってコーチに就任している。

1981年からはサンフランシスコ・ジャイアンツの監督に就任。この間の1982年に有資格1年目でアメリカ野球殿堂入りをハンク・アーロンと共に果たし、殿堂のプレートは三冠タイトルを獲得したオリオールズの帽子を被っている。1984年に106試合目になったところで解任されるが、およそ4シーズンで264勝277敗のチーム成績だった。解任後、ミルウォーキー・ブルワーズよりコーチのオファーを受けて同シーズン終了までコーチに就任している。

1985年からは古巣オリオールズのフロントに入り、コーチとして現場にも立ったが1988年シーズン途中でオリオールズ監督に就任。このシーズンは54勝107敗の東地区最下位で開幕21連敗を喫しているどん底の状況だった。 翌1989年はチームを建て直して87勝75敗と東地区2位に導き、同年アメリカンリーグ最優秀監督賞を受賞した。オリオールズの監督は1991年まで務め、その後1995年までオリオールズのフロントにてGM補佐を務めた。

ロビンソンのレッズ在籍時の背番号「20」。
シンシナティ・レッズの永久欠番に1998年指定。

オリオールズのGM補佐退任後はMLBのフロントに入り特別補佐を務めたが、この間の1998年に古巣・レッズより自身の在籍時の背番号だった『20』を永久欠番に指定されている。2002年よりモントリオール・エクスポズの監督に就任。その後2005年にチームがワシントンD.C.に移転し、ワシントン・ナショナルズと球団名を変更するが、ロビンソンはナショナルズとしての初代監督となった。ナショナルズの監督は2006年まで務め、同年に監督通算1000勝を挙げている。

晩年

2014年1月、サイン会にて

ナショナルズ監督退任後、2007年よりMLBフロントに復帰して補佐職に就き、2009年から2年間、当時コミッショナーであるバド・セリグのコミッショナー補佐を兼任した。2016年にはアメリカン・リーグ会長職に就いた。

ロビンソンのインディアンス在籍時の背番号「20」。
クリーブランド・インディアンスの永久欠番に2017年指定。

2017年、最後に所属したインディアンスで在籍時の背番号『20』が永久欠番に指定され、ノーラン・ライアンに次いでロビンソンは二人目の3球団欠番選手となった。

2019年2月7日骨肉腫により死去。83歳没[3]

人物・逸話

  • 背番号は前述のドジャース在籍時のみ『36』をつけたが、それ以外は現役・監督を通じて常に『20』をつけた。
  • オリオールズ移籍後の1966年5月8日の対インディアンス戦で当時本拠地のメモリアル・スタジアムで場外ホームランを放つが、同スタジアムが閉場するまで場外ホームランを打ったのはロビンソンだけだった。
  • 公民権運動に賛同しており、オリオールズ時代には全米黒人地位向上協会にも参加していた。[4]
  • インディアンス監督時代、主力投手で後に野球殿堂入りするゲイロード・ペリーに「あの黒人監督以上のサラリーが貰えなかったら俺はこのチームを出る」と言われ、本当に移籍されたことがある。
  • ナショナルズ監督時代、交代命令に対して不満な態度をあらわにした大家友和に対して罰金を命じたことがあり、後日別の試合で代走に起用した際、「罰走」と報じた日本のメディアがあったが、登録枠が日本の一軍枠よりも少ない25人で、引き分けがなく長い延長イニングを行なうこともあるメジャーでは、控えの選手が枯渇してくると投手が代走に起用されたり、野手が投手として登板するケースが年に数回はある。大家が代走で起用されたのも「罰走」と報じられた試合を含めて3回目で、大家自身、後日この「罰走」報道に対し、「そのために取材に来て僕の話を聞いたわけでもないのに、MLBの公式ウェブサイトや何かを見て『罰走』なんて勝手に決めつけて書いたりするのはどうかなと思う」と否定する発言を行なっている。
  • ロビンソンの指揮、指導を受けた日本人選手では前述の大家のほか、2002年にエクスポズに在籍した吉井理人もその一人で、ロビンソン没後のインタビューでは生前のロビンソンを振り返りつつ「良い意味でオールドスクールの監督だった。アメリカにもこういうタイプの指導者がいるんだとびっくりした。昔の高校野球の監督みたいな監督さんで、一般常識とかにも厳しい監督で、チーム内のルールとかもすごく厳しくて…(中略)選手が間違った態度をとった時にはビシッと言うことも必要だなと思い出して参考になった。言わなきゃいけない時は、しっかり言わなきゃいけないとロビンソン監督から学びましたね」と述懐している[5]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1956 CIN 152 668 572 122 166 27 6 38 319 83 8 4 8 4 64 7 20 95 14 .290 .379 .558 .937
1957 150 677 611 97 197 29 5 29 323 75 10 2 5 5 44 5 12 92 13 .322 .376 .529 .905
1958 148 623 554 90 149 25 6 31 279 83 10 1 0 0 62 5 7 80 13 .269 .350 .504 .854
1959 146 626 540 106 168 31 4 36 315 125 18 8 0 9 69 9 8 93 16 .311 .391 .583 .974
1960 139 562 464 86 138 33 6 31 276 83 13 6 0 7 82 6 9 67 18 .297 .407 .595 1.002
1961 153 636 545 117 176 32 7 37 333 124 22 3 0 10 71 23 10 64 15 .323 .404 .611 1.015
1962 162 701 609 134 208 51 2 39 380 136 18 9 0 5 76 16 11 62 13 .342 .421 .624 1.045
1963 140 580 482 79 125 19 3 21 213 91 26 10 0 3 81 20 14 69 7 .259 .379 .442 .821
1964 156 662 568 103 174 38 6 29 311 96 23 5 0 6 79 20 9 67 13 .306 .396 .548 .944
1965 156 674 582 109 172 33 5 33 314 113 13 9 0 4 70 18 18 100 14 .296 .386 .540 .926
1966 BAL 155 680 576 122 182 34 2 49 367 122 8 5 0 7 87 11 10 90 24 .316 .410 .637 1.047
1967 129 563 479 83 149 23 7 30 276 94 2 3 0 6 71 14 7 84 10 .311 .403 .576 .979
1968 130 508 421 69 113 27 1 15 187 52 11 2 0 2 73 4 12 84 15 .268 .390 .444 .834
1969 148 643 539 111 166 19 5 32 291 100 9 3 0 3 88 11 13 62 12 .308 .415 .540 .955
1970 132 553 471 88 144 24 1 25 245 78 2 1 0 6 69 9 7 70 13 .306 .398 .520 .918
1971 133 545 455 82 128 16 2 28 232 99 3 0 1 8 72 11 9 62 22 .281 .384 .510 .894
1972 LAD 103 405 342 41 86 6 1 19 151 59 2 3 0 6 55 0 2 76 9 .251 .353 .442 .795
1973 CAL 147 630 534 85 142 29 0 30 261 97 1 1 1 3 82 12 10 93 13 .266 .372 .489 .861
1974 129 518 427 75 107 26 2 20 197 63 5 1 1 5 75 14 10 85 10 .251 .371 .461 .833
CLE 15 61 50 6 10 1 1 2 19 5 0 1 0 1 10 0 0 10 1 .200 .328 .380 .708
'74計 144 579 477 81 117 27 3 22 216 68 5 2 1 6 85 14 10 95 11 .245 .367 .453 .820
1975 49 149 118 19 28 5 0 9 60 24 0 0 1 1 29 3 0 15 2 .237 .385 .508 .893
1976 36 79 67 5 15 0 0 3 24 10 0 0 0 1 11 0 0 12 3 .224 .329 .358 .687
MLB:21年 2808 11743 10006 1829 2943 528 72 586 5373 1812 204 77 17 102 1420 218 198 1532 270 .294 .389 .537 .926
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 首位打者:1回(1966年)
  • 本塁打王:1回(1966年)
  • 打点王:1回(1966年)

表彰

記録

脚注

  1. ^ “フランク・ロビンソン氏が死去、MLB史上初のアフリカ系米国人監督”. AFPBB News (2019年2月8日). 2020年8月30日閲覧。
  2. ^ このロビンソン含めたドジャース側のトレード要員のひとりに、ボビー・バレンタインがいた。
  3. ^ “大リーグ、ロビンソン氏が死去 初の黒人監督、本塁打歴代10位”. 共同通信社Online. (2019年2月8日7時49分). https://web.archive.org/web/20190209123956/https://this.kiji.is/466354815346951265?c=39546741839462401 2019年2月8日閲覧。 
  4. ^ 【評伝】フランク・ロビンソンさん--稀有な成功を収めた偉大な選手 - 鈴村裕輔 2019年2月8日(2019年2月9日閲覧)
  5. ^ “へそ曲げ暴れた吉井コーチがロビンソン氏に感謝”. 日刊スポーツ. (2019年2月8日21時45分). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201902080001112.html 2019年2月10日閲覧。 

関連項目

外部リンク

  • Baseballhalloffame.org(英語)アメリカ野球殿堂National Baseball Hall of Fame)による紹介
  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
 
獲得タイトル・記録
ナショナルリーグMVP
チャルマーズ賞
リーグ表彰

以下、全米野球記者協会(BBWAA)による表彰

1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグMVP
チャルマーズ賞
リーグ表彰
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ首位打者
1900年代
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ本塁打王
1900年代
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ打点王
1900年代
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
ナショナルリーグ新人王
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代

※1957年のみ、両リーグ合同で選出。ミノーソとケーラインはアメリカンリーグ所属選手。

  • 投手
  • 捕手
  • 一塁手
  • 二塁手
  • 三塁手
  • 遊撃手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1940年代
  • 49 ジョー・ペイジ(英語版)
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ最優秀監督賞
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代

太字は現役選手

シンシナティ・レッズ
球団
歴代本拠地
永久欠番
レッズ球団殿堂
ワールドシリーズ優勝(5回)
ワールドシリーズ敗退(4回)
リーグ優勝(9回)
できごと
傘下マイナーチーム
ボルチモア・オリオールズ
球団
歴代本拠地
文化
永久欠番
オリオールズ球団殿堂
ワールドシリーズ優勝(3回)
ワールドシリーズ敗退(4回)
リーグ優勝(7回)
できごと
傘下マイナーチーム
  • ノーフォーク・タイズ(AAA級)
  • ボウイ・ベイソックス(AA級)
  • アバディーン・アイアンバーズ(High-A級)
  • デルマーバ・ショアバーズ(Low-A級)
  • フロリダ・コンプレックスリーグ・オリオールズ(Rookie級)
  • ドミニカン・サマーリーグ・オリオールズ(Rookie級)
クリーブランド・ガーディアンズ
球団
歴代本拠地
文化
永久欠番
ガーディアンズ球団殿堂
ワールドシリーズ優勝(2回)
ワールドシリーズ敗退(4回)
リーグ優勝(6回)
できごと
傘下マイナーチーム
ボルチモア・オリオールズ歴代監督
ボルチモア・オリオールズ 1966年のワールドシリーズ ロースター
   

選手
03 カート・ブレファリー
05 ブルックス・ロビンソン
06 ポール・ブレアー
08 アンディ・エチェバレン
09 ラス・スナイダー
11 ルイス・アパリシオ

15 デービー・ジョンソン
19 デーブ・マクナリー
20 フランク・ロビンソンシリーズMVP
22 ジム・パーマー
25 モー・ドラボウスキー
26 ブーグ・パウエル
27 ウォーリー・バンカー

監督
42 ハンク・バウアー

コーチ
14 ジーン・ウッドリング(一塁)
31 ハリー・ブラキーン(投手)
41 シャーム・ローラー(ブルペン)
55 ビリー・ハンター(三塁)

ボルチモア・オリオールズ 1970年のワールドシリーズ ロースター
   

選手
05 ブルックス・ロビンソンシリーズMVP
06 ポール・ブレアー
07 マーク・ベランガー
08 アンディ・エチェバレン
09 ドン・ビュフォード
10 エルロッド・ヘンドリックス
14 マーブ・レッテンマンド
15 デービー・ジョンソン
19 デーブ・マクナリー
20 フランク・ロビンソン

22 ジム・パーマー
24 ピート・リッカート
25 モー・ドラボウスキー
26 ブーグ・パウエル
29 ディック・ホール
30 チコ・サーモン
32 マルセリーノ・ロペス
35 マイク・クェイヤー
36 トム・フィーバス
37 テリー・クロウリー
39 エディ・ワット

監督
04 アール・ウィーバー

コーチ
31 ジョージ・バンバーガー(投手)
41 ジム・フライ(打撃・ブルペン)
48 ジョージ・ストーラー(一塁)
55 ビリー・ハンター(三塁)

クリーブランド・ガーディアンズ歴代監督
サンフランシスコ・ジャイアンツ歴代監督
ワシントン・ナショナルズ歴代監督
名前の前に*がある人物はアメリカ野球殿堂入り
ヒコックベルト(全米最優秀アスリート賞)
1950年代
1960年代
1970年代
2010年代
2020年代
1977年から2011年まで中断
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