リュシュテュ・レチベル

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  • リュシュトゥ・レチベル
リュシュテュ・レチベル
名前
ラテン文字 Rüştü Reçber
基本情報
国籍 トルコの旗 トルコ
生年月日 (1973-05-10) 1973年5月10日(50歳)
出身地 アンタルヤ
身長 186cm
体重 76kg
選手情報
在籍チーム 引退
ポジション GK
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1991 トルコの旗 ブルドゥルギュジュ 1 (0)
1991-1994 トルコの旗 アンタルヤスポル 34 (0)
1994-2003 トルコの旗 フェネルバフチェ 241 (0)
2003-2004 スペインの旗 バルセロナ 4 (0)
2004-2007 トルコの旗 フェネルバフチェ 54 (0)
2007-2012 トルコの旗 ベシクタシュ 103 (0)
代表歴2
1994-2012 トルコの旗 トルコ[1] 120 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2013年8月24日現在。
2. 2013年8月24日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

リュシュテュ・レチベル(Rüştü Reçber、1973年5月10日 - )は、トルコアンタルヤ出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはゴールキーパー。

経歴

ユース時代は右ウイングとしてプレーしていたが、17歳の時の監督に「君は背が高いからゴール前に立ってみるといい」と言われ、ゴールキーパーに転向した[2]1990年、ブルドゥルギュジュに入団。1シーズン在籍した後に地元のサッカークラブ・アンタルヤスポルへ移籍した。

GKコーチのIlie Datcuによって見出され、ファティ・テリム監督の指導によって才能が開花した。テリムは、まだクラブの第3GKだったリュシュテュの潜在能力に感銘を受け、「君はいずれトルコでもっとも素晴らしいGKになるだろう」と伝えた。テリムはフェネルバフチェSK、ガラタサライSK、ベシクタシュJKのトルコ三大クラブにリュシュテュを推薦し、1993年にベシクタシュJKと契約した。しかし、契約締結の直後に自動車事故に巻き込まれて怪我を負い、メディカルチェックを通ることができず、ベシクタシュJKへの移籍は取りやめになった。

1993-94シーズンのはじめ、フェネルバフチェSKと契約した。そのシーズンはアンタルヤスポルでプレーすることが認められ、レンタル移籍という形でチームに残った。フェネルバフチェでの初年度となる1994-95シーズンは、クラブとトルコ代表の正GKのEngin İpekoğluが負傷し、幸運にも出場機会を得て、1994年10月12日のアイスランド戦で代表デビューを飾った。その後9年間はクラブでも代表でも地位を不動のものとし、フェネルバフチェ在籍期間中に4度のリーグ優勝を成し遂げた。UEFA EURO '96UEFA EURO 2000に出場。さらに2002年日韓W杯では、チームの守護神として48年ぶりに本大会出場を果たした代表を3位入賞に導く活躍を見せ、最優秀GK投票ではドイツオリバー・カーンに次ぐ2位に選ばれた。

2003年にフェネルバフチェとの契約が切れるとACミランインテル・ミラノFCバルセロナバレンシアCFマンチェスター・ユナイテッドFCアーセナルFCユヴェントスFCリヴァプールFCからオファーがあり、アーセナルFCと契約間近だったが、アーセン・ベンゲル監督と口論したことから移籍は破談となった。結局、FCバルセロナに移籍し、好調なプレシーズンを送ったが、シーズン開幕前に怪我に見舞われた。開幕にはなんとか間に合ったが、リュシュテュはまだスペイン語に不慣れだったため、フランク・ライカールト監督はビクトル・バルデスを開幕戦に送り出した。「私の実績と能力からすれば、スペイン語が話せないために試合に出られないのは解せない」と述べたが、スペインでの挑戦は1シーズンで終わった。

2006-07シーズンにフェネルバフチェでリーグ優勝したが、自身の将来のことでクラブと揉めたことから、ヴォルカン・デミレルにポジションを奪われた。そのため、ライバルクラブのベシクタシュJKにフリーで移籍し、フェネルバフチェのファンの怒りを買った。ベシクタシュJKでも好パフォーマンスを披露したが、たびたび怪我に悩まされた。

UEFA EURO 2008では控えゴールキーパーとして選出されたが、出場停止となったヴォルカン・デミレルに代わり大会途中から出場。準々決勝のクロアチア戦ではスーパーセーブを連発し、PK戦でもクロアチアに1本しか成功を許さない活躍で、トルコ初のベスト4進出に貢献した。また同大会終了後、代表引退を表明した。

2020年3月28日新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の症状が急転し、病院に搬送されたことがリュシュテュの妻のInstagramにて報告された。BBC放送電子版では、リュシュテュの容体について「危機的時期」だと報じた[3]集中治療室(ICU)にも入ったが回復し、4月6日に退院したことが妻のInstagramにて報告された[4]

エピソード

少年の頃に好きだったゴールキーパーはピーター・シュマイケルである[5]。彼とはUEFA EURO '96で対戦している。フェネルバフチェ在籍時にもUEFAチャンピオンズリーグマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたシュマイケルと対戦した。

代表歴

トルコ代表

タイトル

フェネルバフチェ
  • スュペル・リグ : 4回
    • 1995-96, 2000-01, 2004-05, 2006-07
  • アタトゥルクカップ : 1回
    • 1998
ベシクタシュJK
トルコ代表
個人
2002
  • IFFHS最優秀GK賞3位
2002

脚注

  1. ^ “Recber Rustu - Century of International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/recber-intl.html 
  2. ^ uefa.com (2009年10月7日). “ベジクタシュの復活を信じるリュシュトゥ”. 2009年10月8日閲覧。
  3. ^ “トルコのレジェンドGKがコロナ感染「危機的時期」”. 日刊スポーツ. (2020年3月30日). https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202003300000292.html 2020年3月30日閲覧。 
  4. ^ “日韓W杯で活躍のリュシュテュ氏が退院。新型コロナ感染後にICU入るも回復”. フットボールチャンネル. (2020年4月7日). https://www.footballchannel.jp/2020/04/07/post369786/ 2020年4月8日閲覧。 
  5. ^ uefa.com (2009年10月7日). “ベジクタシュの復活を信じるリュシュトゥ”. 2009年10月8日閲覧。

外部リンク

  • UEFA Team of the Year 2002
UEFA
CONMEBOL
CONCACAF
CAF
AFC
選手賞(男子, 女子) - 監督賞(男子, 女子) - プスカシュ賞 - FIFA 100
1950年代
  • 55: キュチュカンドンヤディス
  • 58: ユルクメズ
  • 59: ビルゲ
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
 
トルコ代表 - 出場大会
トルコ代表 - UEFA EURO '96
  • 1 アドナン・エルチャン
  • 2 レセプ
  • 3 アルパイ
  • 4 ヴェダト
  • 5 トゥガイ
  • 6 エルトゥールル
  • 7 ハミ
  • 8 オギュン
  • 9 H.シュキュル
  • 10 オウス
  • 11 オルハン
  • 12 ファルク
  • 13 ラヒム
  • 14 サッフェット・サンチャクルゥ
  • 15 タイフン
  • 16 セルゲン
  • 17 アブドゥラー
  • 18 アーリフ
  • 19 トルナイ
  • 20 B.コルクマズ
  • 21 シャンベル
  • 22 リュシュテュ
  • 監督 ファティ・テリム
トルコの旗
トルコ代表 - UEFA EURO 2000
トルコの旗
トルコ代表 - 2002 FIFAワールドカップ 第3位
トルコの旗
トルコ代表 - FIFAコンフェデレーションズカップ2003 第3位
トルコの旗