エドワード・サイル

エドワード・ウィリアム・サイル(Edward William Syle、1817年2月17日 - 1890年10月5日)は、明治時代に来日したイギリス生まれのアメリカ合衆国宣教師教育者である。米国聖公会遣清宣教師として、中国・上海で伝道活動を行う。また、日本での宣教や英語教育の可能性を探り、日本への宣教師派遣や学校開設に繋げた。その後、上海から日本に居を移し、日本の近代化に大きく貢献したお雇い外国人の一人として活躍。東京開成学校東京大学で教員を務めた[1][2]

経歴・人物

その後、オハイオ州ケニオン大学(1840年‐1843年)で学ぶ[3]。(1876年にケニオン大学名誉神学博士 : D.D.)
  • 1844年(弘化元年)、バージニア神学校(英語版)に入学する。同年、米国聖公会オハイオ州主教区の執事となり、翌1845年(弘化2年)に司祭に按手。
    カリフォルニア州オークランドのセントジョンズチャーチで遣清宣教師に任命され、同1845年、米国聖公会の宣教師として派遣され、中国(当時、)・上海に赴任[1][3]
一時、健康を害してアメリカへ帰国。
  • 1856年(安政3年) - 再び上海に帰任。(1860年まで通算12年間、上海で伝道や博愛事業に尽くす。)
  • 1857年(安政4年) - ブリッジマンらと英国アジア協会ノース・チャイナ支部を創立し、役員を務める。
  • 1858年(安政5年)
    • 9月20日 - 中国在留アメリカ公使W.B.リードの休暇旅行に同行して、日本来航時のペリー艦隊の首席通訳官をつとめたサミュエル・ウィリアムズとともに、米国軍艦ミネソタ号で長崎に来日[4]。上海在住の米国聖公会宣教師(上海・水兵館付き司祭)として、日本に在住する初代米国総領事タウンゼント・ハリス米国聖公会信徒)とともに、日本での宣教や、英語教育、学校の開設を検討し、翌1959年(安政6年)の米国聖公会宣教師ジョン・リギンズ、チャニング・ウィリアムズの日本派遣に繋げる。サイルが結んだ長崎奉行岡部長常との約束にもとづき、リギンズとウィリアムズは来日後、長崎・崇福寺内に一屋を無料で提供され、立教大学の源流となる英学塾を開設し、8名の幕府の公式通詞に英語を教えた[5]
      サイルは、ミネソタ号での長崎への訪日で、日本の公式通訳で長崎英語伝習所の頭取を務めていた楢林栄左衛門とも会っている。楢林はサイルの訪日の10日前に長崎に来航した米国軍艦ポーハタン号付きの牧師ヘンリー・ウッドから英語の教育を受けていた生徒の1人である。サイルはヘンリー・ウッドの英語教育を見学し、日本での伝道と英語教育を行う有効性を支持し、W.B.リードに同行し長崎奉行と会い[6]長崎奉行へ英語学校を開き、英語教師になることを提案している。サイルは長崎奉行の希望によって長崎に英語教師として転任することを企てたが、米国聖公会本部の許可がなく実現しなかった[7]。この訪日でサイルは日本人の真面目さに触れ、日本を好むようになった。また、函館からミシシッピー号が長崎へ来航し、3つの英語クラスを実施している。
    • 11月13日 - 米国総領事ハリスが、サイル宛の返書で神奈川で英語教育の学校開設を勧める[8][9][10]

日本人は条約上の義務を極めて慎重に遵守するであろう。将来の伝道の成功は一に最初に派遣される宣教師の行為にかかっており、もし彼が慎重堅忍よく慮って、熱心に駆られて行き過ぎることのない様に自制して働くならば、必ずや最後の栄冠を受けるだろう。英語を教える学校を開き、あるいは医師が診療事業を開始するなどは伝道上の良策であろう。読み書きが日本ほど普及しているところは世界のどこにもないであろう。

—タウンゼント・ハリス(サイル宛ての返書/日本聖公会百年史より)

  • 1860年(万延元年) - 夫人が亡くなったため、サイルはアメリカに帰国する。
その後再婚して牧師生活を続ける。1862年、ワシントンのトリニティチャーチ、1864年、ニューヨークのぺラム(英語版)のクライストチャーチで牧師を務めた[3]
  • 1868年(明治元年) - 再び上海に赴く。(3度目の上海滞在。)
今回は宣教師としてではなく、上海にあった2つの聖公会の教会のうち、海員教会(Seamen's Church)の牧師としてであった。任務のかたわら、上海聖書協会、中国人貧盲院、上海女子学校協会などの活動にも尽力
  • 1871年(明治4年)11月 - 横浜へ一時来航した後、上海へ帰航。上海へ向かう同じ船に、ヘボン夫妻も辞書印刷のため乗船していた。
  • 1872年(明治5年)
  • 1874年(明治7年)11月 - 東京開成学校の教師となる。
東京開成学校及び東京大学で哲学や歴史学等の教鞭を1879年(明治12年)まで約5年間執った。
  • 1875年(明治8年)4月 - 仮牧師の任期を終え、東京へ移住。
  • 1880年(明治13年) - アメリカに帰国。その後、1885年に故郷のイギリスへ戻る。1885年から亡くなる1890年まで英国聖公会宣教師協会に関わった[3]

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 開港のひろば 第39号 1992年10月31日 横浜開港資料館館報 (PDF)
  2. ^ Geni『Edward William Syle』
  3. ^ a b c d e The Protestant Episcopal Church of the United States of America, in China and Japan, 1835-1870. With references to Anglican and Protestant Missions. Ian Welch, College of Asia and the Pacific, Australian National University, 2013 (PDF)
  4. ^ 石原千里「1858年長崎におけるヘンリー・ウッドの英語教育」『英学史研究』第2001巻第33号、日本英学史学会、2000年、13-27頁、ISSN 1883-9282。 
  5. ^ 神奈川県立公文書館 『第一章 神奈川県の成立 第四節 開港場の新文化 三 キリスト教の伝来』 (PDF) デジタル神奈川県史,通史編4,第一編 明治維新と神奈川県
  6. ^ 立教史データベース 基督教週報第69巻第14号 『◇聖公会-修史夜話◇(其四) 前島生/日本伝道の恩人 ―知られざるサイル博士の功績―』 1934年12月14日
  7. ^ 山口 光朔「日本プロテスタント史序説」『桃山学院大学経済学論集』第1巻第1号、桃山学院大学、1959年1月、ISSN 0286990X。 
  8. ^ 大江満「明治期の外国ミッション教育事業 : 立教築地時代の系譜」『立教学院史研究』第1巻、立教大学立教学院史資料センター、2003年、31-92頁、doi:10.14992/00015356。 
  9. ^ 日本聖公会歴史編纂委員会編『日本聖公会百年史』1959年 13頁
  10. ^ 志賀 智江「明治・大正期におけるキリスト教主義保育者養成」『青山学院女子短期大学総合文化研究所年報』第4巻、青山学院女子短期大学、1996年12月、67-108頁、ISSN 0919-5939。 
  11. ^ Hamish Ion (2022). 『15. Christ Church, Yokohama, and its First Incumbent: Michael Buckworth Bailey, 1862–1872』Britain and Japan: Biographical Portraits. Amsterdam University Press. pp. 173-184. ISBN 9781898823278 

参考文献

  1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『サイル』- コトバンク
  2. 日本大百科全書(小学館)『おもなお雇い外国人』- コトバンク
  3. The Protestant Episcopal Church of the United States of America, in China and Japan, 1835-1870. With references to Anglican and Protestant Missions. (PDF) 』Ian Welch, College of Asia and the Pacific, Australian National University, 2013
幕末・明治前期の来日宣教師(1859年 - 1890年)
日本のキリスト教史
カトリック
パリ外国
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ロシア正教

ニコライ(1861) · アナトリー(1873) · ウラジーミル(1878)

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ECUSA

E・サイル(1858) · J・リギンズ(1859) · C・M・ウィリアムズ(1859) · H・E・シュミット(1860) · J・カノヴァー(1863) · A・R・モリス(1871) · H・ラニング(1873)  · F・R・ピットマン(1877) · T・S・ティング(1878) · J・マキム(1880) · J・M・ガーディナー(1880) · E・J・フルベッキ(1883) · F・W・ハレル(1884)

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スコットランド
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南長老
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