ローリング・サンダー作戦

北爆
ローリング・サンダー作戦
英語: Operation Rolling Thunder

ローリング・サンダー作戦で、北ベトナムを空爆するアメリカ軍
戦争ベトナム戦争/北爆[1]
年月日1965年3月2日1968年10月31日[2]
場所:北ベトナムの南部から全土[2]
結果:米国と北ベトナムの交渉により作戦停止[2]
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ベトナム共和国の旗 ベトナム共和国
ベトナム民主共和国の旗 ベトナム民主共和国
南ベトナムの旗 南ベトナム解放民族戦線
指導者・指揮官
アメリカ合衆国の旗 リンドン・ジョンソン
アメリカ合衆国の旗 ロバート・マクナマラ
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・ウェストモーランド
アメリカ合衆国の旗 カーチス・ルメイ
ベトナム共和国の旗 グエン・バン・チュー
ベトナム共和国の旗 グエン・カオ・キ
ベトナムの旗 ホー・チ・ミン
ベトナムの旗 ヴォー・グエン・ザップ
ベトナムの旗 ヴァン・ティエン・ズン
戦力
米海兵隊3,500人
航空爆弾2,230,000トン[1]
北ベトナム軍280,000人[3]
損害
2,000機以上撃墜[4] 50,000人戦死・犠牲[1]
ベトナム戦争
リスト
  • 南ベトナム内における浸透戦
    南ベトナムにおける初期浸透ゲリラ戦
    外国軍の介入
    アプバクの戦い - ゴコンの戦い - ヒエップホアの戦い - チェンラの戦い - 34A作戦 - ロンディンの戦い - クェトタン202作戦 - ナムドンの戦い - アンラオの戦い - ビンギアの戦い - プレイク飛行場の戦い - ソンベの戦い - バギアの戦い - ドンソアイの戦い - ストライク作戦 - プレイメの戦い - ハンプ作戦 - ガントイの戦い - イア・ドラン渓谷の戦い - ゲーム・ワーデン作戦 - クリンプ作戦 - ホワイト・ウィング作戦 - アシャウ渓谷の戦い - シャカムマイの戦い - ヘイスティングズ作戦 - ドゥクコの戦い - ロンタンの戦い - ビーバー・ケージ作戦 - アッテンボロー作戦 - ディックホース作戦 - シーダー・フォールズ作戦 -トラビンドンの戦い - バービー作戦 - ジャクソンシティ作戦 - ユニオン作戦 - 881高地の戦い - マルール1号/2号作戦 - ユニオン2号作戦 - バッファロー作戦 - 7月2日の戦い - ホン・キルドン作戦 - スイフト作戦 - ウィーラー作戦 - 第一次ロクニンの戦い (テト攻勢) - メディーナ作戦 - オンタンの戦い - ダクトの戦い - テト攻勢 - ケサンの戦い - バンホエイサンの戦い - サイゴンの戦い - フエの戦い - ロンベイの戦い - リマ85監視哨の戦い - 5月攻勢 (ベトナム戦争) - カムドクの戦い - スピーディー・エクスプレス作戦 - デューイ渓谷作戦 - 1969年のテト - ハンバーガー・ヒルの戦い - ビンバの戦い - ジェファーソン・グレン作戦 - ラムソン719作戦 - バンドンの戦い - 723高地の戦い - マリー・アン基地の戦い - イースター攻勢 - 第一次クアンチの戦い - 第二次ロクニンの戦い - アンロクの戦い - ドンホイの戦い - コントゥムの戦い - 第二次クアンチの戦い
    外国軍撤退後の戦い
    スベイリンの戦い - フォクロンの戦い - ホー・チ・ミン作戦 - バンメトゥトの戦い - ニューライフ作戦 - スアンロクの戦い - チュロンサの戦い - サイゴン陥落
    航空戦
    ファームゲート戦術 - チョッパー作戦 - ランチハンド作戦 - ピアス・アロー作戦 - 南タイホア橋爆撃 - バレル・ロール作戦 - ポニー・エクスプレス作戦 - フレイミング・ダート作戦 - ローリング・サンダー作戦 - スティール・タイガー作戦 - アーク・ライト作戦 - タイガー・ハウンド作戦 - シャッド・ライト作戦 - ボロ作戦 - ポップアイ作戦 - ナイアガラ作戦 - イグルー・ホワイト作戦 - ジャイアント・ランス作戦 - コマンドー・ハント作戦 - メニュー作戦 - フリーダム・ディール作戦 - パティオ作戦 - ラインバッカー作戦 - ライバッカー2号作戦 - ホームカミング作戦 - ベビー・リフト作戦 - イーグル・プル作戦 - フリークエント・ウィンド作戦
    海上戦
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    カンボジア侵攻及びラオス戦
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    秘密作戦
    フェニックス作戦 - ソンタイ捕虜収容所救出作戦
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ローリング・サンダー作戦:Operation Rolling Thunder)は、ベトナム戦争において、アメリカ合衆国(米国)の空軍第2航空師団(後の第7空軍)と海軍が、ベトナム共和国空軍(RVNAF、南ベトナム空軍)とともに、ベトナム民主共和国(北ベトナム)に実施した持続的な空爆戦略爆撃)作戦である。日本のメディアでは「北爆」と略称された。

この作戦の4つの目的は、北ベトナムに支援された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の攻勢に晒される南ベトナム(サイゴン政権)の士気を高め、北ベトナムに地上軍を送ることなく、ベトコンへの支援を中止するよう北ベトナムを圧力をかけ、北ベトナムの交通システムや産業基盤、防空網を破壊し、ベトコンへの兵員・物資の流入を止めることであった。

当時は東西冷戦下で、北ベトナムはソビエト連邦中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)といった東側諸国から軍事援助を受けていた。米国には、第三次世界大戦につながりかねない東側諸国との全面衝突を避けなければならない制約があった。更に北ベトナムは、東側諸国から入手した戦闘機(MiG-17、MiG-19、MiG-21)と地対空ミサイル対空砲で激しく迎撃。冷戦時代に行なわれた最も激しい航空戦を経て、1968年に作戦は中止されたが、ベトナム戦争はその後もサイゴン陥落まで続いた。

徐々にエスカレートする行動

背景

南ベトナム大統領ゴ・ディン・ジエムによる1956年の南北再統一のための選挙の中止と、共産主義者に対する弾圧を受けて、北ベトナムは、南ベトナム政府に対する反乱戦力であるベトコンに武器と資材を送り始めていた[5]。ベトコンと戦い、南ベトナム政府を支援するために、米国は当初、金銭的援助、軍事顧問、物資を提供した[6]1957年から1963年の間に、米国はドミノ理論に基づいて東南アジアで共産勢力を封じ込めるため、南ベトナム防衛を約束した。

北上

戦略的説得

反応

問題点

脚注

  1. ^ a b c “北爆/アメリカ軍の北ベトナム空爆”. 世界史の窓. 2023年6月13日閲覧。
  2. ^ a b c “歴史の中で3月2日:北ベトナムの共産主義者は、米国のローリングサンダー砲撃作戦と戦った”. VOI (2021年3月2日). 2023年6月13日閲覧。
  3. ^ “戦争による国別犠牲者数”. 人間自然科学研究所. 2023年6月13日閲覧。
  4. ^ “ベトナム戦争の用語”. 月刊基礎知識 (2002年9月). 2023年6月13日閲覧。
  5. ^ Karnow, pps. 237–239.
  6. ^ Spector, pps. 275–373.

関連項目