島津貴典
凡例 島津貴典 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化7年9月19日(1810年10月17日) |
死没 | 元治2年正月18日(1865年2月13日) |
改名 | 小源太(幼名)→貴典 |
別名 | 又四郎、讃岐(通称)、栖山(号) |
墓所 | 鹿児島県垂水市田神の垂水島津家墓所(心翁寺跡) |
主君 | 島津斉興→斉彬→忠義 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 垂水島津家 |
父母 | 父:島津貴柄、母:お喜佐(島津忠救の娘) |
妻 | 正室:お絮(島津忠貫の娘) |
子 | 貴敦、入来院公寛、幸子(種子島久尚室) |
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島津 貴典(しまづ たかのり)は、江戸時代後期の薩摩藩士。大隅郡垂水[1]領主。藩主一門垂水島津家13代当主。
経歴
文化7年(1810年)9月19日、島津一門四家の垂水島津家当主貴柄の長男として生まれる。文政11年(1828年)、重富島津忠貫の娘お絮(いと)と結婚する。天保2年(1831年)、父の隠居にともなって家督を相続する。活動としては領内各地を巡検するなどしている。また賢君であったという。
天保9年(1838年)、家臣伊地知季虔に桜島安永大噴火の様子を記した「桜島燃記」をまとめさせている。
嘉永4年(1851年)、藩主に襲封した島津斉彬に、他の一門家当主とともに登城している。
安政3年(1856年)、隠居して家督を子の貴敦に譲った。元治2年(1865年)1月18日死去。享年56。
脚注
参考文献
- 『垂水市史』第1巻 垂水市史編集委員会、1973年
垂水島津家第13代当主 | |
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宗家 | |
総州家 | |
奥州家 | 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在 |
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