治安維持法

治安維持法
日本国政府国章(準)
日本の法令
法令番号 大正14年法律第46号
種類 刑法
効力 失効
成立 1925年3月19日
公布 1925年4月22日
施行 1925年5月12日
所管 内務省[警保局
司法省[検事局
主な内容 国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締
関連法令 刑法、(旧)刑事訴訟法破壊活動防止法
条文リンク 官報1925年4月22日
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治安維持法
日本国政府国章(準)
日本の法令
通称・略称 治維法
法令番号 昭和16年法律第54号
種類 刑法
効力 廃止
成立 1941年3月1日
公布 1941年3月10日
施行 1941年5月15日
所管 内務省[警保局]
拓務省[管理局]
陸軍省[法務局]
海軍省[法務局]
司法省[検事局]
主な内容 国体変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締
関連法令 刑法、(旧)刑事訴訟法破壊活動防止法
条文リンク 官報1941年3月10日
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治安維持法(ちあんいじほう)は、国体皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本法律

1925年大正14年)に治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)として制定された。その後、1928年(昭和3年)6月29日公布の緊急勅令(昭和3年勅令129号)で修正が加えられた。さらに1941年(昭和16年)にも全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)された。

第二次世界大戦敗戦直後の1945年(昭和20年)10月15日GHQの人権指令を受け、『昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク治安維持法廃止等ノ件』により廃止された。

大韓民国において左翼勢力を除去するために制定された国家保安法は、本法律を母体としている[1]

経緯

前身

元々、明治憲法において表現の自由結社の自由の制限に当たっては、「法律ノ範囲内ニ於テ有ス」(第29条)と「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」(第37条)に基づき、帝国議会を通じた法律の制定を必要条件とした。そして、最終的には、天皇による法律の裁可について規定した第6条(「天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス」)によって、法律に基づく自由の制限が効力を持った。

明治後期、表現の自由や結社の自由の制限を目的として定めた法律が、治安警察法だった。また、天皇の地位は「神聖にして不可侵」(第3条)であり、個人に対しては刑法不敬罪によって解釈や罰則が定められたが、団体に対しては神聖なる天皇の地位を「侵す」行為の定義について、議論の余地があった。

不敬罪#日本」および「治安警察法#内容」も参照

1920年(大正9年)より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年(大正6年)の十月革命ロシア革命)による共産主義思想の拡大を脅威とみて企図されたといわれる(レーニンの敗戦革命論も参照)。また、1921年(大正10年)4月、近藤栄蔵コミンテルンから受け取った運動資金6,500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年(大正10年)8月、司法省は三宅正太郎らが中心となり、「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けているとする内務省側の反論があり、1922年(大正11年)2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された[2]。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。

これらの内容は、平沼騏一郎などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為がなくては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、3月24日貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で審議未了、廃案になった。

この法案は当時の知識人からも批判を受けていた。末弘厳太郎[注釈 1]福田徳三らは、強力な権力で社会運動を取り締まることの無効性を突いた[4]。作家の芥川龍之介は1922年(大正11年)『新潮』4月号誌上に寄稿し、社会主義を危険視する政府の姿勢には驚くばかりであると批判している[5]

また、1923年(大正12年)に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定

コミンテルン」も参照

1925年(大正14年)1月、日ソ基本条約が締結されソビエト連邦との国交が樹立されたが、加藤高明内閣(護憲三派内閣)で司法大臣横田千之助が2月4日に急逝した[注釈 2]。その後任に小川平吉(取締法推進派[7])が就任し[注釈 3]共産主義革命運動の激化の懸念などをもって治安維持法の制定を推進し、4月22日に同法が公布、同年5月12日に施行された[8][注釈 4]

普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから、「飴と鞭」の関係にもなぞらえられ、成人男性の普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など、治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は次の総選挙の1928年[注釈 5]となった。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であった[11]が、過激社会運動取締法案が廃案となったのに対して治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている[12]

1925年(大正14年)法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」をおもな内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

ウィキソースに治安維持法中改正ノ件の緊急勅令の法文があります。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)で改正された後、1941年3月10日に全7条から全65条に改正された(昭和16年3月10日法律第54号)。

1928年改正

「国体変革」への厳罰化
1925年(大正14年)法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑とした。
「為ニスル行為」の禁止
「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行のためにする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとした。
改正手続面
改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したこと[注釈 6][13]。この背景には、政権母体の立憲政友会の中で意見が割れたことで審議未了となったため、田中首相は緊急勅令を用いて改正した。

1941年改正

結社の規制
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設した。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙可能であった。また、「宣伝」への罰則も復活した。「国体ノ変革」が要件であり、当たり前ながら誰でも検挙できるわけではなかったことに留意する必要がある。戦後裁判再審となった事件は、大半が日本共産党関係者に関わるものである。
刑事手続面
従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、たとえば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」としたことなど。
予防拘禁制度
刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
検挙対象の拡大
1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。1937年6月の思想実務者会同で、東京地方裁判所検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特別高等警察と思想検察の存在意義が希薄化されるおそれが生じていることに危機感を表明した[14]。そのため、新たな取締対象の開拓が目指されていった。治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体・学術研究会(唯物論研究会)・芸術団体なども摘発されていった。

廃止

1945年(昭和20年)の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫りくる「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。

同年8月下旬から9月上旬において、司法省では岸本義広検事正を中心に、今後の検察のあり方について話し合いを行い、「天皇制が残る以上は治安維持法第一条を残すべき」との意見が出ていた[15]。ほか、岩田宙造司法大臣が政治犯の釈放を否定している。

同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者三木清腎臓病の悪化により獄死している。10月3日には東久邇宮内閣山崎巌内務大臣は、イギリス人記者のインタビューに答え、「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」方針を明らかにした。

同年10月4日GHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と内務大臣山崎巌の罷免を要求された。東久邇宮内閣はその要求を拒絶し内閣総辞職。後継の幣原内閣10月15日、昭和20年勅令第575号『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等ノ件』(ポツダム命令)を制定し、治安維持法は廃止され、同時に特別高等警察も廃止を命じられた。

GHQから指示された人権指令には、10いくつかの法律が「廃止すべき法令」として列挙されていたが、実際には戦前の治安法規は85もあった。そのため日本政府は、すでに列挙されている10いくつかの法律は廃止せざるをえないが、そこに列挙されていない法律は意図的に見逃すことによって人権指令を無内容化し、最低限の実施で切り抜けようとした。そのため、たまたま見つかった治安警察法は廃止されたが、それ以外の法律は廃止リストになかったため、その後も残されることになった[16]

人権指令の実施にあたっては、GHQと内務省、司法省との間で折衝が行われている。治安維持法の廃止直後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が閣議決定され、GHQとの折衝の結果、治安維持法廃止の4日後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が新たな治安法規として登場している。この件について、GHQと日本政府はあうんの呼吸を持っていたとされる[17]

治安維持法廃止から10日後の1945年10月26日に、内務省と司法省は共同の新聞発表を行い、朝鮮人中国人などの「多衆運動に伴う各種犯罪」に対しては、「もっぱら既存法規をもって取締処分せんとするにすぎない」と発表し、社会不安が濃厚な社会状況に対しては、旧来の法令によって厳重な取り締まりを行うと宣言している。旧来の法令とは、人権指令で廃止を免れた暴力行為等処罰ニ関スル法律や、行政執行法、行政警察規則、警察犯処罰令爆発物取締罰則などを指しており、戦前の治安法規の本体である治安維持法や治安警察法が廃止されたことを受けて、その周辺にあった治安法規が前面に出てくることになった。予防検束を可能にしていた行政執行法の適用は、1945年には27万人だったが、1946年には64万人に倍増している[18]

戦前には法律として冬眠状態にあった爆発物取締罰則の活用が期待されるようになり、爆発物取締罰則の第一条が、GHQや日本政府に対する批判的な社会運動の取り締まりや、新たな「国体護持」の役割を、治安維持法などに代わる治安法規として担うことになった[19]

歴史的役割

当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動(コミンテルンレーニンの敗戦革命論も参照)を牽制する政府の意図があった。また似たような法律は、当時のドイツフランスアメリカ合衆国イギリスなどに公然と存在していた[20]

1930年代前半に左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年(昭和10年)の大本教への適用(大本事件)など新宗教(政府の用語では「類似宗教」。似非宗教という意味)の取り締まりにも用いられた。天皇を頂点とする国家神道の存立を脅かすことが、国体の変革に当たるという解釈の下に取締りが進められた訳である。大本以外にもPL教団創価教育学会天理本道ホーリネスキリスト教団など弾圧を受けた団体は多い。創価学会は創立者で精神的支柱の一人でもある牧口常三郎を獄死させられ、キリスト教団はホーリネス系教団および安息日再臨教団ことセブンスデー・アドベンチストを併せて10名の獄死者およびこれに準ずる者を出している。

三・一五事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された(当時は弁護士会ではなく、大審院の懲戒裁判所が剥奪の権限を持っていた)。さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された(日本労農弁護士団事件)。その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣があらかじめ指定した弁護士でないと弁護人に選任できないとされた(第29条)。

日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件起訴されたリヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。

但し、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟によれば、この法により逮捕され、特別高等警察拷問虐待により194人が死亡しており(小林多喜二も拷問により死亡している)、この死因とは別に病死により獄死した者が1,503人いた[21][22]。また、この法により逮捕された者は数十万人、検事局送検されただけの者も含め7万5,681人(荻野富士夫の調査では6万8,274人。内、起訴された者は6,550人[23])いたことを不破哲三が第77回国会予算委員会において発言している[24]

ゾルゲ事件では、他にも多くの者が逮捕されたにもかかわらず死刑判決を受けたのはゾルゲと尾崎だけだった。戦後にゾルゲ事件を調査したチャールズ・ウィロビーは、それまで持っていた日本に対する認識からするとゾルゲ事件の多くの被告人に対する量刑があまりにも軽かったことに驚いている[25]。朝鮮においては間島共産党事件などで治安維持法違反による刑死者を出したがこれも殺人や現住建造物放火等との併合罪によるものであった。その後、治安維持法を運用した特別高等警察をはじめとして、警察関係者は多くが公職追放されたが、司法省関係者の追放は25名に留まった。池田克正木亮など、思想検事として治安維持法を駆使した人物も、ほどなく司法界に復帰した。池田は追放解除後、最高裁判事にまでなっている。

1952年(昭和27年)公布の破壊活動防止法は「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。その後も、治安立法への批判に対して治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)テロ等準備罪(共謀罪)新設法など)。

第二次世界大戦後は治安維持法については否定的な意見が主流とされる。一方、保守派の一部には治安維持法擁護論もある[要出典]

1976年(昭和51年)1月27日民社党春日一幸衆議院本会議日本共産党委員長宮本顕治リンチ殺人疑惑を取り上げた際、宮本の罪状の一つとして治安維持法違反をそのまま取り上げた。そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。その3日後の1月30日に、春日とは別に塚本三郎によりこの事件が取り上げられ、宮本顕治釈放の根拠となった診断書の虚偽疑惑についても追及されている[26]

藤岡信勝は『諸君!1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」であったと一定の評価を下し、日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」、『正論』2006年9月号など)。福田和也は、戦後に廃止されてから1955年7月まで毛沢東武装闘争を行った日本共産党[注釈 7]や、それ以後も1955年以前の日本共産党の路線を分裂しながらも続けた新左翼極左暴力集団[注釈 8]による暴力革命武装闘争[注釈 9]によって、民間人や警察を多数死傷させるような過激な革命を目指すテロなどが頻繁だった昭和時代までは必要性があったとしている[27]

渡部昇一は「治安維持法は今日的な視点で考えれば法律が特定の思想を取り締まるなど、民衆弾圧のために制定された『天下の悪法』とされているがそれは大きな誤解であり、当時の状況を鑑みなければその本質は見えてこない」としている。「制定された当時の状況はロシア帝国ソ連になり、ロシア革命が成功したことによって日本に共産主義の流入という思想的脅威が迫っていた。この脅威は大正11年(1922年)のコミンテルン世界会議の決議に『君主制廃止』が盛り込まれたことで一層高まった。ロシア革命でロシア共産党が実行した君主制廃止というものは王族を一人残らず惨殺するという残忍なもので日本からしてみれば皇室廃絶と皇族の虐殺を意味しており、皇室を愛してやまなかった当時の日本人が底知れぬ恐怖を抱ていた。事実、マルクス主義レーニンの指導の下、ロシア革命が起きてソ連になり、権力を掌握しロシア共産党ロマノフ王朝の一族を全て処刑したほか、共産主義を安定的に維持して統治するべく共産主義に賛同していないとみなした人民700万人近くを数年間にわたって殺戮していた。こうした暴力的な『テロ思想』の流入を防ぐために制定された。それにもかかわらず、『天下の悪法』という汚名が着せられているのは、その後、戦局の悪化緊迫とともに取り締まりがエスカレートして多くの人が冤罪で捕まり、警察の取り調べで亡くなった人もいたが、だからといって共産主義思想を防御するという治安維持法本来の目的、共産主義革命は残虐行為を伴うものだという二点を考えれば一概に悪法と決めつけるのは間違いだ」としている。[28]

アメリカ合衆国では1954年8月24日に共産主義者取締法というアメリカ共産党の非合法化と共産党の支援・共産主義者などを罰する法律が制定された。現行でも有効の法律であるが、1991年のソビエト連邦の崩壊による冷戦終結以降にもアメリカ共産党は小規模ながら存続している。

1968年(昭和43年)には、治安維持法犠牲者への国家賠償請求を訴える治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟が結成されている。

脚注

注釈

[脚注の使い方]
  1. ^ 末弘厳太郎は1934年(昭和9年)6月6日蓑田胸喜が、「出版法違反」「治安維持法違反」等として告発し、末弘は検事局からの事情聴取を受ける[3]
  2. ^ この頃された新聞報道によると、インフルエンザであると発熱の塩梅は診察され、心臓鬱血、大量の吐血など重篤な症状を発症した[6]
  3. ^ 司法大臣は、4日間だけ高橋是清農商務大臣が臨時兼任していた。小川は虎の門事件翌日に思想団体青天会を設立し会長となっており、また日本新聞を創刊して国粋を提唱していた。
  4. ^ 勅令により当時は日本植民地であった朝鮮台湾樺太にも施行され[9]、また関東州及南洋群島にも同様な適用を行う[10]独立運動も含めて内地同様の取り締まりを行った。
  5. ^ 地方議会を含めれば、1926年9月3日に浜松市議会議員選挙で日本初。
  6. ^ これには、当時から憲法違反との指摘が根強かった。『安保法制の何が問題か』参照。
  7. ^ 山村工作隊曙事件白鳥事件大津地方検察庁襲撃事件大須事件枚方事件など祖国防衛隊との共闘していた日本共産党第6回全国協議会まで。
  8. ^ 共産主義者同盟東アジア反日武装戦線全学共闘会議中核派革マル派革労協日本赤軍など。
  9. ^ 血のメーデー事件長田区役所襲撃事件三井三池争議東大紛争早大闘争林健太郎監禁事件安保闘争羽田事件三里塚闘争渋谷暴動事件東峰十字路事件三菱重工爆破事件三井物産爆破事件帝人中央研究所爆破事件大成建設爆破事件鹿島建設爆破事件間組爆破事件オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件間組爆破事件成田空港管制塔占拠事件京成スカイライナー放火事件芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件ひめゆりの塔事件など。

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ 閔炳老(早稲田大学法学部助手)「論説 韓国の国家保安法の過去、現在、そして未来-憲法裁判所の判決に対する批判的考察-」(PDF)『比較法学』第33巻第1号、早稲田大学比較法研究所、1999年7月1日、105-163頁、2015年3月22日閲覧 
  2. ^ “日本法令索引”. 国立国会図書館. 2018年2月16日閲覧。 『第45回帝国議会衆議院議事摘要 上巻』pp.1193-1194
  3. ^ 「末広博士の説明を聴く 検事局が慎重な態度」、『東京日日新聞』1934年(昭和9年)8月3日。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 思想問題(8-061)。
  4. ^ 荻野富士夫「解説 : 治安維持法成立・「改正」史 I. 過激社会運動取締法案とその前・後史」 1996, pp. 531–532
  5. ^ 「社会主義は、理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、恰(あたか)も火渡りの行者を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。」
  6. ^ 『大阪朝日新聞』1925年(大正14年)2月5日. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 人物伝記(3-020).
  7. ^ 中澤俊輔 2010, p. 200
  8. ^ 大阪朝日新聞社編『朝日年鑑 大正15年』朝日新聞社、1925年11月、pp.284-288
  9. ^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件 (大正14年5月8日勅令第175号)『官報』第3811号、大正14年5月8日、p.221
  10. ^ 関東州及南洋群島ニ於テハ治安維持ニ関シ治安維持法ニ依ルノ件(大正14年5月8日勅令第176号)『官報』第3811号、大正14年5月8日、p.221
  11. ^ “過激社会運動取締法案(かげきしゃかいうんどうとりしまりほうあん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年4月21日閲覧。 “無政府主義、共産主義など国家にとって「危険」な思想を宣伝した者に対して7年以下、またそうした思想の実現を目ざして結社をつくったり集会やデモをした者には10年以下の懲役・禁錮、という重罰を科そうとするものであった。(中略)結局法案の成立は阻止された。しかしこの法案の内容は25年に治安維持法という形で実現をみる。”
  12. ^ 奥平康弘 2006, pp. 55–56
  13. ^ 荻野富士夫「解説 : 治安維持法成立・「改正」史 III. 治安維持法の改悪 : 第二次治安維持法」 1996, pp. 584–596
  14. ^ 荻野富士夫 2000
  15. ^ 向江璋悦 1974, pp. 89–90
  16. ^ 荻野富士夫 2006, pp. 211–213
  17. ^ 荻野富士夫 2006, p. 213
  18. ^ 荻野富士夫 2006, pp. 213–214
  19. ^ 荻野富士夫 2006, pp. 214–215
  20. ^ 永井哲二『転向手記』顕真学苑出版部、1935年。NDLJP:1443545。 (コマ番号:23)
  21. ^ 『抵抗の群像』 2008, p. 2
  22. ^ 神戸市立中央図書館 (2015年11月15日). “治安維持法で何人亡くなったか知りたい”. 2021年5月22日閲覧。
  23. ^ “なんだっけ 治安維持法って何?” (日本語). しんぶん赤旗. (2017年2月27日). https://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2017-02-27/2017022703_01_1.html 2021年5月23日閲覧。 
  24. ^ 衆議院予算委員会. 第77回国会. Vol. 3. 30 January 1976. 実際に若干の数字を挙げてみますと、この治安維持法によってどれだけの人が共産主義者の名をもって逮捕されたか。これは完全な統計はありませんが、司法省の調査によって見ると、検事局に送検されただけでも七万五千六百八十一名であります。送検されない段階の逮捕を合わせれば、これが数十万に上ることは容易に察知されることであります。しかも、この治安維持法で逮捕された被告に対してはあらゆる人権が認められませんでした。そのために多くの人々が共産党員として命を落としました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という組織が調査したところによりますと、逮捕されて、現場で、留置場で拷問などによって虐殺された者が六十五名、そういう拷問、虐待が原因で獄死した者が百十四名、病気その他の理由で獄死した者が千五百三名、全部で千六百八十二名が、われわれがわかっているだけでも治安維持法によって逮捕され、虐殺され、獄死しているわけであります。
  25. ^ 『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年
  26. ^ 衆議院予算委員会. 第77回国会. Vol. 3. 30 January 1976. 吾党中央委員会に潜入せるスパイ・挑発者の元凶片野(発言全体についてはNo205[塚本三郎]~251[塚本三郎])
  27. ^ 「魂の昭和史 すべての日本人に感じてほしい」 福田和也(小学館文庫)[要ページ番号]
  28. ^ 渡部昇一 2009, pp. 90–91, 104–105

参考文献

  • 奥平康弘『治安維持法小史』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2006年6月。ISBN 978-4006001612。 
  • 中澤俊輔「治安維持法の再検討:―政党内閣期(1918~32)を中心として―」『日本政治學會年報政治學』第61巻第1号、日本政治学会、2010年、1_194-1_214、doi:10.7218/nenpouseijigaku.61.1_194、ISSN 0549-4192、NAID 130005128945。 
  • 中澤俊輔『治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』中央公論新社中公新書〉、2012年6月。ISBN 978-4121021717。 
  • 内田博文『治安維持法の教訓――権利運動の制限と憲法改正』みすず書房、2016年9月。ISBN 978-4622085317。 
  • 内田博文『治安維持法と共謀罪』岩波書店〈岩波新書〉、2017年12月。ISBN 978-4004316893。 
  • 向江璋悦『鬼検事』法学書院、1974年1月。 
  • 荻野富士夫『思想検事』岩波書店〈岩波新書〉、2000年9月。ISBN 978-4004306894。 
  • 荻野富士夫『横浜事件と治安維持法』樹花舎/星雲社、2006年11月。ISBN 978-4434083167。 
  • 荻野富士夫「解説 : 治安維持法成立・「改正」史 I. 過激社会運動取締法案とその前・後史」『治安維持法関係資料集』第4巻、新日本出版社、1996年3月25日、520-541頁、ISBN 4406024298、hdl:10252/4433 
  • 荻野富士夫「解説 : 治安維持法成立・「改正」史 III. 治安維持法の改悪 : 第二次治安維持法」『治安維持法関係資料集』第4巻、新日本出版社、1996年3月25日、575-610頁、ISBN 4406024298、hdl:10252/4433 
  • 渡部昇一『年表で読む日本近現代史 増補改訂版』海竜社、2009年5月。ISBN 978-4759310733。 
  • 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 (2008) (日本語). 抵抗の群像 : 機関紙「不屈」掲載 第1集. 光陽出版社. ISBN 9784876624744. 

関連項目

外部リンク

ウィキソースに治安維持法 (大正十四年法律第四十六号)の原文があります。
ウィキソースに治安維持法 (昭和16年法律第54号)の原文があります。
  • 治安維持法 - アジア歴史資料センター
  • 治安維持法閣議決定書 史料にみる日本の近代 国立国会図書館
  • 治安維持法 - NHK for School
日本の戦時法令
明治維新
朝鮮開化
ロシア南下政策
  • 観物場取締規則(1891)
  • 予戒令(1892.1)
  • 海軍将校分限令(1891.7)
  • 明治七年以後ノ戦役ニ死歿シタル軍人軍属ノ遺父母及祖父母扶助ニ関スル法律(1891.12)
  • 集会及政社法(1893.4)
  • 出版法(レコード検閲制度含、1893.4)
  • 明治二十六年徴集新兵員数表(1893.4)
  • 海軍大佐海軍大尉及各相当官進等ノ件(1893.4)
日清戦争
  • 戦時若クハ事変ニ際シ陸海軍雇員軍艦乗組傭人官用船舶ノ船員等ニシテ傷痍疾病ニ罹リ又ハ死没シタルトキ手当金ヲ給与スルノ件(1894.9)
  • 陸軍戦時給与規則(1894.8)
  • 海軍戦時給与規則(1894.8)
  • 臨時海軍軍法会議法 (1895.3)
  • 明治二十七年六月以後戦時若クハ事変ニ際シ陸海軍雇員・軍艦乗組傭人官用船舶ノ船員等傷痍疾病
    及死歿ノトキ手当金給与ノ件(明二七勅一六四)ニ該当スル者ニ関スル件(1895.5)
  • 憲兵上等兵待遇ノ件(1895.7)
  • 台湾総督府条例(1896.3)
  • 台湾駐箚陸軍部隊給与規則(1896.3)
  • 台湾総督府所属雇員ニ官吏恩給法及官吏遺族扶助法ヲ適用スルノ法律(1896.4)
ハワイ併合
米西戦争
米比戦争
  • 活動写眞興行取締規則(1917)
  • 陸軍参謀条例(1898.2)
  • 台湾総督府三等郵便電信局長三等郵便局長及三等電信局長俸給退官賜金及死亡賜金令(1898.6)
  • 憲兵令(1898.11)
  • 海軍准士官及海軍予備士官ノ分限ニ関スル件(1899.3)
  • 海軍生徒学生及下士卒死亡者等ノ埋葬料ニ関スル件(1899.1)
  • 陸軍給与令(1899.6)
  • 軍機保護法 (1899.7)
  • 要塞地帯法 (1899.7)
  • 在台湾陸軍軍人ノ日覆ニ白布ヲ垂下スル件(1899.7)
  • 台湾ニ於テ地方税支弁ノ俸給ヲ受クル文官判任以上ノ学校職員ノ退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(1900.3)
  • 台湾ニ在勤スル官吏ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(1900.3)
  • 台湾ニ服役スル軍人ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(1900.3)
  • 土地収用法(1900.3)
  • 台湾ニ於テ地方税支弁ノ俸給ヲ受クル文官判任以上ノ学校職員ノ退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(1900.3)
  • 治安警察法 (絵画彫刻検閲制度、1900.3)
  • 軍港要港規則 (1900.4)
  • 台湾ニ在勤スル官吏ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律 (明三三法七五)
    及台湾ニ服役スル軍人ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(明三三法七六)ニ依ル風土病及流行病ノ種類指定ノ件(1900.4)
  • 巡査看守退隠料及遺族扶助料法ヲ台湾ニ施行スルノ件(1901.7)
  • 巡査看守退隠料及遺族扶助料法施行令(1901.7)
  • 巡査看守退隠料及遺族扶助料法(1901.7)
  • 歩兵第五聯隊遭難ノ際死没シタル者ノ遺族ニ金円ヲ賜与スルノ件(1902.3)
  • 歩兵第五聯隊遭難ノ際死没シタル者ノ埋葬ニ関スル件(1902.3)
  • 台湾ニ在勤スル巡査看守陸軍監獄看守陸軍警査及女監取締退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(1902.3)
  • 台湾ニ在勤スル巡査看守退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(明三五法二九)ニ依ル風土病及流行病ノ種類指定ノ件(1902.5)
日露戦争
  • 海軍給与令(1904.1)
  • 鉄道軍事供用令 (1904.1)
  • 鉄道軍事輸送規程 (1904.1)
  • 戦事又ハ時変ニ際シ官吏ニ非スシテ陸軍ノ事務ニ従事スル者ノ待遇ノ件(1904.2)
  • 在外指定学校職員退隠料及遺族扶助料法ニ於ケル学校職員ノ資格及在職年数算定方等ニ関スル件(1905.11)
  • 蕃地警察事務ニ従事スル台湾総督府職員又ハ其ノ遺族ニ一時金ヲ給スルノ件(1905.12)
  • 北海道地方費ヨリ給料給与ヲ受クル吏員職員ノ退隠料退職給与金死亡給与金又ハ遺族扶助料支給規定ニ関スル件(1906.6)
  • 朝鮮満洲駐箚陸軍部隊給与令(1906.10)
  • 樺太庁条例(1907.3)
  • 会計法、行政執行法、治安警察法、新聞紙条例、出版法及質屋取締法ヲ樺太ニ施行スルノ件(1907.3)
  • 韓国ニ在勤スル在外指定学校職員ノ退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(1907.4)
  • 朝鮮総督府及関東都督府等在勤官吏ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(1907.5)
  • 朝鮮総督府、関東庁及樺太等在勤内地人タル警部補、巡査、看守、判任官ノ待遇ヲ受クル消防手及女監取締ノ退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(1907.5)
  • 統監府及関東都督府等在勤官吏ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(明四〇法四八)ヲ適用セサル官吏ニ関スル件(1907.5)
  • 統監府、関東都督府及樺太等在勤巡査、看守及女監取締ノ退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律
    (明四〇法四九)ヲ適用セサル巡査、看守及女監取締ニ関スル件(1907.5)
  • 樺太庁立小学校教員退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(1908.3)
  • 樺太庁立小学校教員退隠料及遺族扶助料支給ニ関スル件(1908.4)
  • 陸軍刑法(1908.4)
  • 陸軍刑法施行法(1908.4)
  • 海軍刑法(1908.4)
  • 海軍刑法施行法(1908.4)
  • 在外指定学校職員退隠料及遺族扶助料法並在外指定学校職員令(明三八勅二三〇)中主務大臣及領事官ノ管掌ニ属スル事項ニ関スル件(1908.5)
  • 陸軍士官候補者及陸軍諸生徒死傷手当金給与ノ件(1908.7)
  • 海軍候補生及海軍諸生徒死傷手当金給与ノ件(1908.8)
  • 陸軍刑法施行前ニ公布シタル命令ニ関スル件(1908.9)
  • 陸軍監獄令(1908.9)
  • 海軍監獄令(1908.9)
  • 海軍懲罰令(1908.9)
  • 関東都督府郵便所長手当、退官賜金及死亡賜金給与令(1908.1)
  • 陸軍軍属ノ懲戒ニ関スル件(1908.12)
  • 新聞紙法(1909)
  • 新聞紙法ヲ樺太ニ施行スルノ件(1909)
  • 出版法及新聞紙法中内務大臣ノ職権ヲ樺太庁長官ヲシテ行ハシムルノ件 (1910)
  • 高等官官等俸給令(1910.3)
  • 巡査看守退隠料及遺族扶助料法施行令準用ノ件(1910.3)
  • 警部補退隠料及遺族扶助料等ニ関スル法律(1910.3)
  • 韓国在勤鉄道院所属官吏ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(1910.4)
  • 第六号潜水艇遭難ノ際死没シタル者ノ遺族ニ金円ヲ賜与スルノ件(1910.5)
  • 文武判任官等級令(1910.6)
  • 朝鮮総督府官制(1910.9)
  • 朝鮮ニ在勤スル宮内官ノ恩給遺族扶助料及退官賜金ニ関スル件(1910.12)
  • 台湾ニ在勤スル官吏ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(明三三法七五)
  • 台湾ニ在勤スル巡査看守陸軍監獄看守陸軍警守及女監取締退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(明三五法二九)準用ニ関スル法律(1911.4)
  • 朝鮮ニ於ケル学校職員ニシテ国庫ヨリ俸給ノ支給ヲ受ケサル文官判任以上ノ者ノ退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(1912.3)
  • 蕃地ニ於ケル討伐捜索及警戒ニ従事スル台湾総督府職員又ハ其ノ遺族ニ一時金ヲ給スルノ件(1912.10)
日独戦争
(第一次世界大戦)
  • 海軍特修兵令(1913.3)
  • 海軍礼砲令(1914.1)
  • 海軍礼式令(1914.2)
  • 海軍服制(1914.2)
  • 海軍服装令(1914.2)
  • 陸軍准士官ノ身分取扱ニ関スル件(1914.4)
  • 大正三年臨時事件に関する一時賜金として交付する公債発行に関する法律 (1914.6)
  • 大正三年臨時事件に関する臨時軍事費特別会計法 (1914.9)
  • 輸出制限に関する農商務省令 (1914.9)
  • 染料医薬品製造奨励法 (1915.10)
  • 理化学を研究する公益法人の国庫補助に関する法律 (1916.3)
  • 在外指定学校職員退隠料及遺族扶助法中主務大臣及領事官ノ管掌ニ属スル事項ニ関スル件(1916.7)
  • 工業所有権戦時法 (1917.7)
  • 臨時国庫証券法 (1917.7)
  • 農業倉庫業法 (1917.7)
  • 戦時海上再保険法 (1917.9)
  • 金貨幣・金地金輸出取締令 (1917.9)
  • 宮内省官吏准官吏恩給遺族扶助料更正ニ関スル件(1917.12)
  • 海軍武官任用令(1918.10)
  • 外国人入国に関する件 (1918.1)
  • 戦時利得税 (1918.3)
  • 朝鮮人官吏ノ恩給、退隠料及遺族扶助料等ニ関スル法律(1918.4)
  • 朝鮮軍人及朝鮮軍人遺族扶助令(1918.7)
シベリア出兵
(ロシア内戦)
 ~日ソ国境紛争
思想戦
  • 海軍葬喪令施行細則(1920.6)
  • 朝鮮人タル宮内官ニシテ旧韓国宮内府其ノ他旧韓国政府ニ在官又ハ在職シタル者ノ恩給及遺族扶助料等ニ関スル件(1920.7)
  • 陸軍軍法会議法(1921.4)
  • 都市計画地方委員会職員ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(1921.4)
  • 陸軍法務官及海軍法務官ノ恩給及遺族扶助ニ関スル法律(1921.4)
  • 警視庁令(脚本検閲制度、1921.7)
  • 興行物及興行取締規則(1921)
  • 台湾ニ於テ国庫ヨリ俸給ヲ受ケサル文官判任以上ノ学校職員ノ退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律
    (明三三法七七)ニ依ル退隠料及遺族扶助料ノ審査ニ関スル件(1921.12)
  • 台湾ニ在勤スル官吏ノ恩給及遺族扶助料ニ関スル法律(明三三法七五)及台湾ニ在勤スル巡査看守陸軍監獄看守陸軍警査
    及女監取締退隠料及遺族扶助料ニ関スル法律(明三五法二九)準用ニ関スル法律(1922.3)
  • 巡査看守退隠料及遺族扶助料法ノ一部ヲ台湾ニ施行スルノ件(1922.9)
  • 治安維持令 (1923.9)
  • 補助憲兵令(1923.10)
  • 憲兵ノ腕章使用ニ関スル件(1923.11)
  • 海軍下士官兵善行章令(1924.3)
  • 関東州阿片令 (1924.3)
  • 徴兵令ヲ樺太ニ施行スルノ件(1924.5)
  • 軍人傷痍記章令 (1924.8)
  • 海軍軍備制限ニ関スル条約ノ実施ニ関スル法律ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スル等ノ件(1924.8)
  • 関東州ニ於テ財物却掠ノ目的ヲ以テ多衆結合スル者ノ処罰ニ関スル件 (1924.11)
  • 支那騒乱地方ニ在ル海軍軍人軍属ニ増給ノ件(1924.12)
  • 陸軍部隊ノ患者ヲ海軍病院及収療設備ヲ有スル陸上海軍各部ニ海軍各部ノ患者ヲ陸軍病院ニ依託収療スルコトヲ得ルノ件(1924.12)
  • 朝鮮陸接国境地方ヲ警備スル朝鮮総督府及其ノ所属官署ノ職員又ハ其ノ遺族ニ一時金ヲ給スルノ件(1925.8)
  • 化学兵器手当給与ノ件(1925.11)
  • 関東州ノ治安警察ニ関スル件(1925.11)
  • 製鉄所特別会計法(1926.3)
  • 青年訓練所令(1926.4)
  • 旅順工科大学官制(1926.5)
  • 化学研究所官制(1926.1)
  • 関東州境界地方ノ警備ニ従事スル関東局及其ノ所属官署ノ職員又ハ其ノ遺族ニ一時金ヲ給スルノ件(1926.9)
  • 朝鮮ニ於テ警察官吏ニ協力援助シ因リテ死傷シタル者ニ対スル給与ニ関スル件(1927.2)
  • 支那ニ於ケル帝国臣氏ノ生命及財産ノ安寧ヲ保持スル為其ノ騒乱地方ニ於テ直接警備ニ関スル職務ニ従事シ其ノ服務ニ因リ死亡シタル
    海軍軍人等ノ遺族ニ一時賜金給与ノ件(1927.4)
  • 兵役法(1927.4)
  • 陸軍補充令(1927.11)
  • 陸軍武官服役令(1927.11)
  • 海軍武官服役令(1927.11)
  • 海軍志願兵令(1927.11)
  • 海軍将校相当官服役特例(1927.12)
  • 満洲国及支那騒乱地方ニ於テ警備ニ従事スル領事館ノ職員及所属警察官吏又ハ其ノ遺族ニ一時金ヲ給スルノ件(1929.4)
  • 軍人遺族記章令(1931.8)
  • 海軍旗章令(1932.11)
  • 陸軍衛生部将校ノ補充及現役期間ノ臨時特例(1933.2)
  • 海軍理事官設置制(1934.7)
  • 出版法(1934.7)
  • 海軍予備員令(1934.10)
  • 関東州及南満洲鉄道附属地ニ於テ警察官吏ニ協力援助シ因リテ死傷シタル者ニ対スル給与ニ関スル件(1934.11)
日中戦争
 ~第二次世界大戦
(大東亜戦争)
国家総力戦
  • 南洋群島ニ於ケル傷病兵其ノ家族若ハ遺族又ハ下士官兵ノ家族若ハ遺族ノ扶助ニ関シ軍事扶助法ニ依ルノ件(1937.6)
  • 陸軍ニ臨時海軍通訳設置ノ件(1937.8)
  • 今次ノ戦争ニ関スル海軍戦時給与規則等ノ特例(1937.8)
  • 大本営令 (1937.11)
  • 退役ノ将校若ハ准士官、第一国民兵役ニ在ル下士官又ハ元下士官ノ陸軍部隊編入ニ関スル件(1937.12)
  • 電力管理法 (1938.4)
  • 傷兵保護院官制 (1938.4)
  • 国家総動員審議会官制 (1938.5)
  • 工場事業場管理令 (1938.5)
  • 臨時通貨法 (1938.6)
  • 陸軍服制(1938.6)
  • 総動員補償委員会規程 (1938.7)
  • 学校卒業者使用制限令 (1938.8)
  • 医療関係者職業能力申告令 (1938.8)
  • 海軍現役軍人ノ婚姻ニ関スル件(1938.11)
  • 第一国民兵役ニ在リテ海軍ニ召集セラレタル者ノ任用等ニ関スル件(1938.12)
  • 国民職業能力申告令 (1939.1)
  • 船員職業能力申告令 (1939.1)
  • 獣医師職業能力申告令 (1939.2)
  • 賃金統制令 (1939.3)
  • 軍用資源秘密保護法 (1939.3)
  • 従業者雇入制限令 (1939.3)
  • 工場就業時間制限令 (1939.3)
  • 学校技能者養成令 (1939.3)
  • 工場事業場技能者養成令 (1939.3)
  • 国民徴用令 (1939.7)
  • 総動員業務事業設備令 (1939.7)
  • 総動員業務事業主計画令 (1939.7)
  • 陸軍技術部将校ノ補充及現役期間ノ臨時特例(1939.7)
  • 賃金臨時措置令 (1939.10)
  • 会社職員給与臨時措置令 (1939.10)
  • 軍需品工場事業場検査令 (1939.10)
  • 船舶運行技能者養成令 (1939.11)
  • 樺太ニ於テ警察官吏ニ協力援助シ因リテ死傷シタル者ニ対スル給与ニ関スル件(1939.11)
  • 樺太陸接国境地方ノ警備ニ従事スル樺太庁ノ職員又ハ其ノ遺族ニ一時金ヲ給スルノ件(1939.11)
  • 在樺太陸軍部隊給与令(1939.11)
  • 米穀搗精等制限令 (1939.12)
  • 総動員物資使用収用令 (1939.12)
  • 工場事業場使用収用令 (1939.12)
  • 土地工作物管理使用収用令 (1939.12)
  • 小作料統制令 (1939.12)
  • 青少年雇入制限令 (1940.2)
  • 陸運統制令 (1940.2)
  • 陸軍志願兵令(1940.4)
  • 総動員試験研究令 (1940.4)
  • 国民体力法 (1940.4)
  • 石炭配給統制法 (1940.4)
  • 陸軍軍属従軍服制(1940.8)
  • 農業水利臨時調整令 (1940.8)
  • 石炭配給統制規則 (1940.8)
  • 陸軍武官官等表ノ件(1940.9)
  • 陸軍兵等級表ニ関スル件(1940.9)
  • 船員徴用令 (1940.10)
  • 会社経理統制令 (1940.10)
  • 銀行等資金運用令 (1940.10)
  • 船員給与統制令 (1940.10)
  • 船員使用等統制令 (1940.11)
  • 従業者移動防止令 (1940.11)
  • 宅地建物等価格統制令 (1940.11)
  • 情報局官制 (1940.12)
  • 臨時農地価格統制令 (1941.1)
  • 総動員業務指定令 (1942.1)
  • 満洲国ニ在ル傷病兵、其ノ家族若ハ遺族又ハ下士官兵ノ家族若ハ遺族ノ扶助ニ関スル件(1941.2)
  • 重要産業団体令 (1941.8)
  • 海軍退役武官、兵役免除者等服役特例(1941.8)
  • 国民徴用扶助規則 (1941.12)
  • 労務調整令 (1941.12)
  • 生活必需物資統制令 (1941.12)
  • 戦時犯罪処罰特例法 (1941.12)
  • 特設海軍部隊臨時職員設置制(1941.12)
  • 農業生産統制令 (1941.12)
  • 治安維持法(予防拘禁制度改正、1941)
  • 海軍文官従軍服制(1942.1)
  • 戦時災害保護法 (1942.2)
  • 国民医療法 (1942.2)
  • 重要事業場労務管理令 (1942.2)
  • 陸海軍軍人ニシテ公務ノ為航空機ニ搭乗中変故ニ因リ傷痍ヲ受ケ危篤ニ陥リタル者ノ進級及任用ニ関スル件(1942.2)
  • 金融統制団体令 (1942.4)
  • 兵器等製造事業特別助成法 (1942.5)
  • 海軍刑務所臨時設置制(1942.5)
  • 各庁職員死亡シタル場合ニ於ケル任用等ノ手続ニ関スル件(1942.5)
  • 企業整備令 (1942.5)
  • 航空機乗員養成所生徒死傷手当金給与令(1942.6)
  • 国民保健指導方策要綱 (1942.6)
  • 妊産婦手帳規定 (1942.7)
  • 海軍武官官階ノ件(1942.7)
  • 海軍兵職階ニ関スル件(1942.7)
  • 特許発明等実施令 (1943.3)
  • 戦争死亡傷害保険法(1943.3)
  • 戦争死亡傷害保険法ヲ台湾ニ施行スルノ件(1943.4)
  • 戦争死亡傷害保険法ヲ朝鮮及樺太ニ施行スルノ件(1943.8)
  • 各庁職員優遇令施行ニ関スル件(1943.3)
  • 緊急物価対策要綱 (1943.4)
  • 戦力増強企業整備基本要綱 (1943.6)
  • 学徒戦時動員体制確立要綱 (1943.6)
  • 陸軍航空関係予備役兵科将校補充及服役臨時特例(1943.7)
  • 海軍特別志願兵令(1943.7)
  • 大東亜戦争陸軍給与令(1943.7)
  • 応徴士服務規律 (1943.8)
  • 徴兵適齢臨時特例 (1943.12)
  • 軍需会社徴用規則 (1943.12)
  • 陸軍現役下士官補充及服役臨時特例(1943.12)
  • 関東州戦争死亡傷害保険令(1944.2)
  • 勤労昂揚方策要綱 (1944.3)
  • 海軍主計科及技術科武官任用及服役特例(1944.3)
  • 海軍軍医科及歯科医科士官任用及服役特例(1944.3)
  • 戦時特殊損害特別保険法 (1944.4)
  • 陸軍兵科及経理部予備役将校補充及服役臨時特例(1944.5)
  • 学童疎開促進要綱 (1944.6)
  • 海軍士官服制臨時特例(1944.6)
  • 国民総武装 (1944.8)
  • 大東亜戦争ニ際シ必死ノ特別攻撃ニ従事シタル陸軍ノ下士官兵ヨリスル将校及准士官ノ補充ニ関スル件(1944.11)
  • 大東亜戦争ニ際シ必死ノ特別攻撃ニ従事シタル海軍ノ下士官、兵等ヨリスル特務士官、准士官等ノ特殊任用ニ関スル件(1944.11)
  • 大東亜戦争陸軍軍人服制特例(1944.12)
  • 国民勤労動員令 (1945.3)
  • 海軍下士官任用臨時特例(1945.3)
  • 戦時教育令 (1945.5)
  • 海軍刑務所官制(1945.5)
  • 海軍法務科武官任用及服役臨時特例(1945.5)
  • 陸軍刑務所及陸軍拘禁所令(1945.5)
  • 陸海軍ノ法務兵長ノ待遇ニ関スル件(1945.5)
  • 海軍下士官及予備下士官任用及進級臨時特例(1945.8)