湯沢三千男

湯沢三千男
生年月日 1888年5月20日
出生地 日本の旗 日本 栃木県上都賀郡加蘇村(現鹿沼市
没年月日 (1963-02-21) 1963年2月21日(74歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学経済学科(現東京大学経済学部
前職 内務官僚
所属政党 自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章

日本の旗 第58代内務大臣
内閣 東條内閣
在任期間 1942年 - 1943年

選挙区 栃木県選挙区
当選回数 1
在任期間 1959年 - 1963年2月21日
テンプレートを表示

湯沢 三千男(湯澤 三千男[1]、ゆざわ みちお、明治21年(1888年5月20日 - 昭和38年(1963年2月21日)は、大正昭和期の日本政治家、内務官僚。内務大臣(第58代)、宮城県知事(官選第22代)、広島県知事(官選第26代)、兵庫県知事(官選第24代)、参議院議員(1期)。

随筆や美術評論を書いたり、画集を監修したりするなど文化人でもあった[2]

来歴

1929年にスイスジュネーヴで開かれた国際労働会議に政府代表として参加した湯沢(最前列中央)

栃木県上都賀郡加蘇村(現鹿沼市)の宮司の子として生まれる。旧制第一高等学校を経て明治45年(1912年)に東京帝国大学法科大学経済学科を卒業後、内務省に入省する(福島県[3])。地方官を歴任後、衛生局保健課長、社会局保険部長、同労働部長を歴任する[4]明治神宮競技大会の発案者であると言われている。昭和4年(1929年)に宮城県知事、同6年(1931年)に土木局長、広島県知事、同10年(1935年)に兵庫県知事となった。昭和11年(1936年)に内務大臣潮恵之輔のもとで内務次官を務める。

廣田内閣の崩壊後に退任。日中戦争勃発翌年の昭和13年(1938年)に中華民国臨時政府の顧問として中国に渡るが、そこで日本陸軍北支那方面軍の参謀副長であった武藤章と親しくなった。対満事務局参与や[4]、武藤の縁で陸軍と強いパイプを築くことになった湯沢は昭和15年(1940年)に大日本産業報国会理事長に就任する。

昭和16年(1941年)の東條内閣成立に際して、開戦派によるクーデター防止を理由に首相東條英機が内務大臣を兼務したが、これを補佐する為の内務次官として武藤によって推挙されたのが湯沢だった[5]。その後、太平洋戦争大東亜戦争)が開戦となり、総選挙は戦時下の情勢を理由に一年延期となっていたが、緒戦の勝利に沸く国民感情を利用し、政府系の候補者で議会を独占しようと考えた東條は、「翼賛選挙」準備のために、昭和17年(1942年2月7日、湯沢に内務大臣の地位を譲った。

翼賛選挙

内相就任後は、翼賛議員同盟の実力者山崎達之輔の実弟で内務省の要職を歴任した山崎巌を内務次官として旧既成政党関係者との連携を図った。同年4月30日第21回衆議院議員総選挙では大規模な選挙干渉が行われる一方で、大政翼賛会内部では強力な後援会と政府とのつながりを背景に公認を獲得する既成政党出身の前職と、既成勢力の排除と新人による新生議会の形成を主張する軍部の一部や革新派、大日本翼賛壮年団との対立の激化、選挙の進め方を巡る湯沢との対立に起因する警保局今松治郎警視総監留岡幸男の辞任などの混乱が続いた。

地方自治改正法案と更迭

1942年の暮れに召集された第81帝国議会で湯沢は、東京都制法案と市制町村制改正案を提出した。東京都長官、市町村長を全て官選あるいは準官選にするという提案に、東條は議会や世論の政府批判につながることを憂慮して内閣書記官長星野直樹法制局長官森山鋭一企画院総裁鈴木貞一情報局総裁谷正之とともに提案延期を説得し、翼賛政治会からも差し止め要請が出されたものの、湯沢は戦時下の今こそ内務省に人事権を取り戻す好機と踏んで提出したのである。ところが議会はこれを内務省の強権として激しく反発し、更に翼賛選挙の非推薦議員からは「翼賛選挙の違憲性」の問題が提示された。東條らの政治工作で両法案は一部修正を経て通過されたものの、湯沢は「挙国一致」性を疑われかねない政府と議会の対立を引き起こしたことで、東條からの信頼を失い、昭和18年(1943年4月20日に更迭されることとなった。直後の同月30日に貴族院勅選議員に任じられて[6]終戦を迎え、1946年(昭和21年)2月22日まで在任した[7]

戦後

戦後、公職追放となるが、追放解除後に中央社会保険医療協議会会長、市町村建設促進中央審議会会長、明治神宮総代などを歴任。昭和34年(1959年)の第5回参議院議員通常選挙に自由民主党公認候補として栃木県選挙区から立候補して当選し、在職中に死去[2]した。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈(勲二等からの昇叙)、従三位から正三位に叙される[1]

著書

  • 『支那に在りて思ふ』創元社、1940年

関連文献

  • 『湯澤三千男さんの思い出 内務官僚・内務大臣』編者代表山岡憲一、同・刊行会、1963年

このほかメモや日記を遺しており、昭和天皇が終戦に際して街頭で国民に直接話してもよいと語った(松平康昌からの伝聞)ことや、画家熊谷守一との交流など、政治史や美術史の秘話も記されている[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 『官報』第10855号609-610頁 昭和38年2月25日号
  2. ^ a b c 【戦後77年】内務大臣 終戦時の日記/昭和天皇「街頭に立つ決意」 画壇との交流も記す『読売新聞』夕刊2022年8月5日9面(同日閲覧)
  3. ^ 『日本官僚制総合事典』(東京大学出版会、2001年11月発行)202頁
  4. ^ a b "湯沢 三千男". 20世紀日本人名事典 / 新訂 政治家人名事典 明治~昭和. コトバンクより2023年2月24日閲覧
  5. ^ これについて元警保局長の貴族院議員松本学は「従来軍部に余りにも因縁をむすびすぎた応報として内務省を雍せんとする彼ら(軍部)の意図の先棒をかつがされることになった」と書き記して前途を憂いている。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂 52頁
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂 54頁

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 古川隆久『昭和戦中期の議会と行政』(吉川弘文館、2005年)ISBN 978-4642037716

関連項目

議会
先代
小山邦太郎
日本の旗 参議院予算委員長
1962年
次代
木内四郎
公職
先代
東條英機
日本の旗 内務大臣
第65代:1942年 - 1943年
次代
安藤紀三郎
官職
先代
赤木朝治
萱場軍蔵
日本の旗 内務次官
第38代:1936年 - 1937年
第46代:1941年 - 1942年
次代
篠原英太郎
山崎巌
先代
白根竹介
兵庫県の旗 兵庫県知事
官選:1935年 - 1936年 
次代
岡田周造
先代
千葉了
広島県の旗 広島県知事
官選:1932年 - 1935年 
次代
鈴木敬一
先代
牛塚虎太郎
宮城県の旗 宮城県知事
官選:1929年 - 1930年 
次代
三辺長治
日本の旗 参議院予算委員長
日本の旗 内務大臣
内務卿
内務大臣
引継職
地方行財政部門

内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣

警察部門

内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官

土木部門
衛生・社会部門
調査部門

内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官

出版・著作権部門

文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官)

神道部門
国籍に関する事務

内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長)

出入国管理に関する事務

外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官

旧軍需物件に関する事務

内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長)

カテゴリ カテゴリ
第1回
(定数4)
3年議員
偶数回
定数2
第2回
第4回
第6回
第8回
第10回
第12回
第14回
第16回
第18回
第20回
奇数回
定数2
第3回
第5回
第7回
第9回
第11回
第13回
第15回
第17回
第19回
定数1
第21回以降)
奇数回
偶数回
↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。
宮城県の旗 宮城県知事(官選第22代:1929-1931)
官選
参事
県令
知事
公選
カテゴリ カテゴリ
広島県の旗 広島県知事(官選第26代:1932-1935)
官選
参事
県令
知事
公選
カテゴリ カテゴリ
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • ISNI
  • VIAF
国立図書館
  • アメリカ
  • 日本