簑田浩二

簑田 浩二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県廿日市市
生年月日 (1952-03-11) 1952年3月11日(72歳)
身長
体重
174 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1975年 ドラフト2位
初出場 1976年4月3日
最終出場 1990年6月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1990途中 - 1995)
この表について
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簑田 浩二(みのだ こうじ、1952年3月11日 - )は、広島県廿日市市出身の元プロ野球選手外野手)・コーチ。現在はプロゴルファー(ティーチングプロ)として活動している。

攻・走・守すべてに長けたオールラウンダーとして知られ、1983年にはトリプルスリーを達成している[1][2][3]

経歴

プロ入り前

大竹高校では1969年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが呉港高に敗退、甲子園には届かなかった。卒業後の1971年三菱重工三原へ入社し、都市対抗野球大会には補強選手としての出場を含め4度出場した[4]。1972年のドラフトでは当時、高校の先輩である広瀬叔功が主力選手として活躍していた南海ホークスから4位指名を受けるが、当時はプロ野球に興味がなく、自信もなかったことから入団を拒否。南海への入団拒否の背景には、戦力を失いたくない三菱重工三原側の慰留もあったとされる[5][6]1974年都市対抗では左翼手として準々決勝に進むが、新日本製鐵八幡のエース萩野友康に抑えられ敗退[4]

現役時代

内外野をこなすユーティリティプレイヤーとして評価され、1975年のドラフト2位で阪急ブレーブスに入団。阪急のことは社会人時代から名が知られていた山口高志が入ったチームという程度しか知らず、広島出身でカープファンであった簑田にとっては同年の日本シリーズでその年リーグ初優勝を果たしたカープを倒したチームと言うことで、複雑な気持ちもあったという[6]。また、22歳の時に社内結婚しており、阪急入団時には妻のお腹には子どもが宿っていた。

身体が小さいこともあり、入団時から野球選手として1つの面だけで優れているよりも、全ての面を兼ね備えていることを理想としていた。もともと内野手であったが、加藤秀司ボビー・マルカーノ大橋穣森本潔(または森本とのトレードで中日ドラゴンズから移籍してきた島谷金二)と並ぶ内野陣に付け入る余地はなく、2年目の1977年には外野手に転向。しかし外野も大熊忠義福本豊、バーニー・ウイリアムスらレギュラーの壁は厚く控えに甘んじていたが、ターニングポイントとなったのが2年目に巨人と対戦した日本シリーズ第4戦であった[2][7]

その試合では1点ビハインドの9回2死無走者の場面で四球で出塁した藤井栄治の代走で出場し、代打の高井保弘の場面で、浅野啓司-吉田孝司バッテリーの警戒の中、盗塁を成功させた(簑田自身は9回2死、代打高井の場面でバッテリーはさほど警戒していないと感じていた。また、監督の上田利治からは「チャンスがあれば初球から行け」と指示されていた[8])。その後、高井のレフト前ヒットで二塁から本塁に突入。高井が打った瞬間から三塁コーチの石井晶は腕を回していた。しかし、当の簑田本人は三塁に到達する前に既に本塁で刺されると思っており、実際本塁でのタイミングはアウトと思われていた。しかし、吉田のタッチをうまくかわして同点のホームインを成し遂げ、阪急の逆転勝利につなげた。このとき、阪急ベンチ全員が喜んでいる中で上田監督だけは「スタートが遅い。2死なんやからもっと思い切ってスタートを切れ」と注文を付けた[6]。簑田にとっては野球の奥深さを考えさせられるきっかけになったという。また「あのプレーは運も良かった。レフトに(張本勲の)守備固めで入っていた二宮(至)の返球がすばらしく、ノーカットだったら完全にアウトだった。しかし、サードの高田(繁)さんが中継した返球が1メートル内側に逸れた。たぶん吉田さんもノーカットと叫んだはずだが、大歓声で聞こえなかったんじゃないか(吉田本人は「よし」と叫んだといい、やはり高田には聞こえていなかったであろうとの推測を語っている)。いろんな偶然が重なって僕がヒーローになったけど、もしアウトなら試合は負けていて、シリーズの流れも違ったものになっただろう。」とも語っており、それからは状況に応じて考えたプレーをするように心がけるようになったという[6]

1978年にはケガで離脱した大熊に代わり、2番打者、左翼手に定着。初めて規定打席に到達し、打率.307(リーグ7位)、61盗塁を記録。福本(70盗塁)に及ばず盗塁王のタイトルは獲得できなかったが、「福本さんとチームの中の役割が違うのだから当然」と語っている[6]

同年より8年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得。簑田は「最も気持ちよかったのは守備。特にホームで相手走者を刺すプレーは1点のプレーと言う意味ではホームランと同じ。自分がホームランを打つよりも快感だった。」と語っている[6]補殺が多かったことから強肩外野手のように評されることが多いが、簑田自身は「自分は遠投90メートルもいかないし、それほど強肩じゃない。バックホームで走者を刺すのにそんな強肩は必要ない。ホームからフェンスまで広いところでも100mちょっと、野手はそれよりも前で守っているし、特にこのような場面では普通よりも前で守る。基本的にカットマンを狙って投げるが、ワンバウンドでホームに届かせるには50mちょっと投げられれば十分」といい「それよりも重要なのは状況に応じて守備位置を考えること」と解説している[9]

1980年には31本塁打、39盗塁、31犠打を記録。この“30-30-30”は日本唯一[10]

1981年には右翼手にコンバートされ、背番号もウイリアムスの1を受け継ぐ。簑田は「レフトよりライトのほうが楽しかった。走者を三塁に進ませない返球など、プレーの幅が広がった。」と振り返っている[6]

1982年後期からは3番打者としての起用が中心となる。

1983年には打率.312(リーグ5位)、32本塁打、35盗塁を記録、中西太以来30年ぶり史上4人目のトリプルスリーを達成。甘いマスクが女性ファンにも人気を呼び、「打ってよし、守ってよし、走ってよし、顔もよし」とマスコミに報道されたこともある[11]。この記録はオールスター前くらいに達成ペースにあることを番記者から言われ、中西以来30年ぶりの快挙と知り、強く意識したという[6]。特に意識したのは盗塁で、当初は3番という立場で4番打者(水谷実雄ブーマー・ウェルズ)の前でアウトになってはいけないという意識から盗塁は少なかったが、シーズン後半は意識して盗塁を増やし、達成した。なお、この年は守備面でも両リーグ最多の17補殺を記録した。

しかし、1985年の開幕9試合目となる4月17日に頭部死球を受け長期離脱してからは怪我に泣かされる事が多くなる。翌1986年、4月30日のロッテ戦で自打球により左足脛骨の亀裂骨折の重傷を負い、一軍復帰が8月にまでずれ込んだ。この年、プロ入り初の盗塁ゼロに終わると、その後は急激に成績が低下していく。1987年は121試合に出場こそしたものの全盛期からは程遠い数字に終わる。

1988年、金銭トレードで読売ジャイアンツに移籍(背番号は2)。同年に開場した東京ドームに対応できる守備の名手として期待された。

1989年の日本一にも貢献。近鉄に怒涛の3連勝を決められ、後が無くなった第4戦で、不調の緒方耕一に代わり1番で起用され、初回に二塁打を放ち、三進後、浅いセンターフライでタッチをかいくぐり先制得点を挙げ流れを変えた[1]。簑田のバッティング練習を見ていた桑田真澄は、「右の篠塚さんみたいだ」とその高い打撃技術を絶賛した。

1990年津末英明とともにシーズン途中での現役引退を表明し、閉幕まで一軍打撃コーチ補佐や一塁ベースコーチを務めた。

現役引退後

引退後は巨人で一軍守備・走塁コーチ(1991年)→一軍総合コーチ(1992年)→一軍外野守備・走塁コーチ(1993年 - 1995年)を歴任し、1994年のリーグ優勝・日本一に貢献。1995年に30億円補強をしたものの優勝を逃した責任を取らされる形で須藤豊ヘッドコーチと共に解任になり、球団事務所に赴くと日本テレビラジオ日本の野球解説者とスポーツ報知の野球評論家を提案されたが断念、後に簑田は「読売系に世話になりたくないと思って。あとになって短気は損気だなと思いましたけど」と述べている[12]

退団後はテレビ東京野球解説者・デイリースポーツ野球評論家(1996年 - 2001年)を務め、現在はフリーの評論家として活躍する傍ら、日本インストラクタープロゴルフ協会認定プロゴルファーとして、浅草橋駅近くの「友愛ゴルフアカデミー」でレッスンを行っている[13][14]東京スポーツに「セパ盟主の裏側を知る名手・簑田浩二」の自伝を掲載したこともあった。

逸話

  • 現役時代に最も頭に来たのが自身に付けられたあだ名である。何かと制約の多い二番打者に定着した1978年にストレスから試合前に下痢をしてトイレに駆け込むことが多かった。オフに球団主催のゴルフコンペで選手たちを馬に見立てて、競走馬風のネーミングが付けられたが、簑田に付けられた馬名は「マンゲリホープ」。慢性下痢の期待株という意味だったが、「こりゃええわ!」とみんなに笑われ真っ赤になった簑田は「いったい誰がこんな名前をつけたんだ!」と激怒。球団職員の仕業だと分かったが、後に巨人にトレードに出された時も「球団と簑田が険悪な関係だった」と報じられ、その具体例として「マンゲリホープ」が引き合いに出されるほど有名になった[15]。1983年に阪急が客寄せのアイデアとして福本豊バンプ・ウィルスと簑田の俊足トリオを競走馬と対決させるイベントを企画した[16][17]。配布された出馬表にはバンプ・ウィルスはそのままで、福本は「フクモトユタカ」なのに、簑田はまたも「マンゲリホープ」と書かれた[17]。腹を立てた簑田はここでも出馬を取り消している[15]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1976 阪急 22 6 6 6 2 0 0 1 5 3 4 2 0 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .833 1.167
1977 86 84 74 21 20 5 1 1 30 7 7 5 3 0 6 0 1 14 0 .270 .333 .405 .739
1978 125 488 423 85 130 19 6 17 212 65 61 19 16 4 37 0 8 37 2 .307 .371 .501 .872
1979 125 532 436 69 123 24 9 9 192 51 33 13 18 4 61 0 13 65 4 .282 .383 .440 .824
1980 130 591 494 83 132 14 6 31 251 79 39 8 31 4 45 2 17 58 7 .267 .346 .508 .855
1981 116 494 432 66 123 20 0 10 173 40 26 6 22 3 33 1 4 41 8 .285 .339 .400 .739
1982 130 573 479 81 135 22 4 22 231 70 27 5 21 5 65 2 3 61 7 .282 .368 .482 .850
1983 127 539 445 95 139 19 2 32 258 92 35 4 7 9 72 1 6 49 6 .312 .408 .580 .988
1984 119 519 436 74 122 13 3 26 219 88 5 2 5 6 70 1 2 56 10 .280 .377 .502 .880
1985 105 462 389 69 108 25 0 24 205 80 9 3 3 5 64 4 1 65 7 .278 .377 .527 .904
1986 67 281 240 39 75 17 0 9 119 31 0 1 1 0 38 2 2 25 8 .313 .411 .496 .907
1987 121 469 424 47 102 21 0 13 162 50 3 2 3 4 35 2 3 63 11 .241 .300 .382 .683
1988 巨人 93 284 252 29 59 12 0 6 89 18 1 4 9 1 21 1 1 39 2 .234 .295 .353 .648
1989 37 63 54 8 13 0 0 2 19 3 0 0 0 0 9 1 0 10 1 .241 .349 .352 .701
1990 17 24 20 3 3 1 0 1 7 1 0 0 0 0 4 0 0 5 1 .150 .292 .350 .642
通算:15年 1420 5409 4604 775 1286 212 31 204 2172 678 250 74 139 45 560 17 61 588 74 .279 .362 .472 .834
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録
オールスターでの記録
  • オールスターゲーム出場:4回 (1978年、1983年 - 1985年)
  • 本盗:1978年第2戦(7月23日、阪神甲子園球場) ※重盗、史上初[18]

背番号

  • 24 (1976年 - 1980年)
  • 1 (1981年 - 1987年)
  • 2 (1988年 - 1990年)
  • 71 (1991年 - 1995年)

関連情報

出演

テレビ番組

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 別冊宝島1809 『プロ野球最強の「3番打者」ランキング』 宝島社、2011年 、p.42、43
  2. ^ a b 吉目木晴彦『魔球の伝説』講談社、1990年、112-120頁。ISBN 4-06-204699-7。 
  3. ^ “トリプルスリー~万能型野球人の証明~ 写真特集”. 時事通信社. 2018年3月12日閲覧。
  4. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  5. ^ “【11月18日】1975年(昭50) 「使えなかった腹切る」ロッテスカウト自信作は“人斬り”だった”. スポニチアネックス. 2008年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月7日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
  7. ^ “簑田浩二「77年日本シリーズ、好走塁の真相」”. SPORTS COMMUNICATIONS (2011年7月11日). 2023年9月27日閲覧。
  8. ^ 文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」
  9. ^ 文春Numberビデオ『巧守好走列伝』
  10. ^ “山田、柳田の同時達成はほぼ間違いなし! 過去のトリプルスリー達成者とは?”. BASEBALL KING (2015年9月8日). 2023年2月7日閲覧。
  11. ^ “【9月24日】1983年(昭58) 公約通り 簑田浩二 30年ぶりの“トリプル3”(野球)”. スポニチ Sponichi Annex (2010年9月24日). 2010年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月27日閲覧。
  12. ^ 週刊ポスト2016年5月27日号、P22
  13. ^ “浅草橋でレッスンプロ 元巨人・簑田浩二のセカンドライフ|あの人は今こうしている”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2014年5月19日). 2023年2月7日閲覧。
  14. ^ “元巨人の「トリプルスリー男」が球界を去った理由 いまはゴルフのレッスンプロ”. デイリースポーツ online (2020年7月11日). 2022年8月14日閲覧。
  15. ^ a b 東京スポーツ連載 『簑田浩二 セパ盟主の裏側を知る名手 3割30本30盗塁男が激白』〈10〉2007年6月20日。
  16. ^ “【時空スタジアム(6)】 1983年・西宮球場 世界の盗塁王vs競走馬 この日は満員スタンドに”. 産経WEST (2014年9月13日). 2017年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月7日閲覧。
  17. ^ a b 新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』講談社、1999年、389頁。ISBN 4-06-264521-1。 
  18. ^ “【7月11日】2004年(平16) メジャーでも記録なし!魅せた新庄のヘッドスライディング(野球)”. スポニチ Sponichi Annex (2008年7月11日). 2011年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月27日閲覧。

関連項目

外部リンク

  • 個人年度別成績 簑田浩二 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
 
業績
日本プロ野球オールスターゲームMVP
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
 
パシフィック・リーグ ベストナイン(3回)
1978年 パシフィック・リーグ ベストナイン
1983年 パシフィック・リーグ ベストナイン
1984年 パシフィック・リーグ ベストナイン
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
 
ドラフト指名
阪急ブレーブス - 1975年ドラフト指名選手
指名選手
南海ホークス - 1972年ドラフト指名選手
指名選手