日本軍によるアッツ島の占領

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アッツ島占領

アッツ島に進出した二式水上戦闘機
戦争太平洋戦争
年月日1942年6月6日 - 1943年5月30日
場所アッツ島アメリカ
結果:日本軍の占領の後、アメリカ軍が奪還
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
大日本帝国細萱戊子郎中将
大日本帝国山崎保代大佐
大日本帝国 穂積松年少佐
アメリカ合衆国 なし
戦力
1,140 - 2,900 なし
損害
不明 1人の一般人死亡
46人の市民が捕虜となる
アリューシャン方面の戦い
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日本軍によるアッツ島の占領は、太平洋戦争中のアリューシャン方面の戦いにおけるAL作戦の一環として、日本軍により占領された。アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年の米英戦争以来初めてのことであった。

計画

アメリカ領土でアラスカの一部であるアリューシャン列島は、日本海軍が開戦時に策定した連合艦隊作戦計画では「占領または攻撃破壊すべき外郭要地」と決められたが、具体的な計画は無い状態だった。

しかし、アメリカ軍の北方からの進攻や当時開発中との情報があった日本本土を爆撃可能な新型長距離爆撃機の発進基地となることを恐れ、また同時期に進行していたミッドウェー作戦の支援も兼ねて、海軍軍令部が陸軍と共同してAL作戦を計画、アリューシャン方面に進出した。これによりアリューシャン列島での戦いが始まった。

占領

戦前のアッツ村
日本海軍機の空襲を受けて炎上するダッチハーバーのアメリカ軍基地

1942年6月6日、穂積松年陸軍少佐指揮のもと北海支隊1,150名がアッツ島に上陸して占領、翌7日にキスカ島も細萱戊子郎海軍中将指揮の下、舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸して占領した。両島ともアメリカ軍の守備兵力は存在せず無抵抗で占領された。アッツ島には先住民のアリュート族45名、無線技士で同地から気象通報していたアメリカ人のチャールズ・フォスター・ジョーンズとその妻で教師兼看護婦のエッタ[1]がおり、チチャゴフ港周辺の集落で暮らしていた。

日本軍の占領直後、抵抗した無線技師のチャールズが殺害された。残ったアリュート族住民はアッツ島一時放棄の際に北海道小樽近くの収容所へ連行され、終戦まで抑留された。そのうち16名が亡くなっている[2]。チャールズの妻エッタも日本本土へ連行され、横浜や戸塚の収容所を転々とした後、終戦直後に解放された。エッタは1965年12月にフロリダ州ブレイデントンで86歳で亡くなった[3]

上陸後、日本軍は飛行場と防御陣地の構築を始めた。最も近いアメリカ軍はウナラスカダッチハーバーアダック島の航空基地であった。占領期間中、アメリカ軍はウムナック島の基地から爆撃機で頻繁に空襲を行い、また潜水艦を投入して日本軍に度々損害を与えた。 8月8日、巡洋艦を基幹とするアメリカ艦隊がキスカ島に来襲し、艦砲射撃を行った。大本営はキスカ島の守備強化としてアッツ島に駐屯していた北海支隊にキスカ島移駐を命じた。北海支隊は島の放棄に際して、携行できない物資や防御陣地を破壊した。また島のアリュート族住民約40名を同行させて島はほぼ無人となった。

当初、日本軍はアリューシャンを1942年冬まで占領予定としていたが、アメリカ軍によるたび重なる攻撃、そして島を基地として使用させないため1943年まで占領を延長する事を決定した。10月18日、日本軍はアメリカのラジオ放送からアムチトカ島が占領されたと判断し[注釈 1]、急遽アッツ島の再占領を決定して20日に再占領された。

1943年2月5日、日本軍はアリューシャンを含む北太平洋方面の守備方針を見直し、陸海軍双方の分担範囲が取り決められた。また、現地の守備兵力として新たに北海守備隊が編成され、2月11日に山崎保代陸軍大佐が着任した。いったん放棄された防御陣地の再構築、兵員や物資弾薬の増援が図られたが、大本営の消極的な守備方針やアリューシャン特有の悪天候、米軍の妨害により守備体制は不十分となってしまった。 また、3月27日には同島沖でアッツ島沖海戦が発生している。

アメリカ軍による奪還

詳細は「アッツ島の戦い」を参照

1943年5月12日、15,000名のアメリカ軍が上陸を開始してアッツ島の戦いが始まった。

連合軍により攻撃を受けるチチャゴフ港

5月29日、山崎大佐率いる日本軍の残存兵力約300名が最後のバンザイ突撃を行い、組織的抵抗は終了した。アメリカ軍ジョン・L・デヴィット司令官の下、5月30日に島の占領を宣言した。日本軍の損害は戦死2,638名、重傷を負って意識不明などで捕虜となった29名のみが生存した(生存率は約1%)。アメリカ軍は戦死者549名、負傷者1,148名に上った。島の奪還後、アメリカ軍は日本軍が建設した飛行場を再使用せず、別の位置に新しい飛行場を建設して残りの戦争期間を日本本土を爆撃するための基地として運用した[4]

アッツ村は太平洋戦争終結後に放棄され、日本軍により連行された住民の生き残りは他の島へ移された。2012年、占領70周年を記念してアッツ村の記念碑がかつて村があった場所に建立された。

脚注

注釈

  1. ^ 当時は誤報だったが、翌43年1月12日にアメリカ軍がアムチトカ島に上陸。現地に飛行場を建設してアッツ、キスカ両島への空襲を強化している

関連項目

脚注

  1. ^ Mary Breu (2009) Last Letters from Attu, Alaska Northwest Books,
  2. ^ Chloe, John Haile (2017). Attu: The Forgotten Battle. National Park Service. pp. 32-33. ISBN 0996583734 
  3. ^ Mary Breu (2009) Last Letters from Attu, Alaska Northwest Books, ISBN 0882408100
  4. ^ Brian Garfield, The Thousand-Mile War: World War II in Alaska and the Aleutians
  • Fern Chandonnet (2007-09-15). Alaska at War, 1941-1945. University of Alaska Press. pp. 23–26. ISBN 978-1-60223-013-2 
  • Diane Olthuis (2006-07-01). It Happened in Alaska. Globe Pequot Press. p. 119. ISBN 978-0-7627-3908-0 
  • Paulin. “Memorial placed in Attu honoring villagers”. The Bristol Bay Times. 2014年3月3日閲覧。
  • Mary Breu (2009). Last Letters from Attu. Alaska Northwest Books. ISBN 978-0-88240-810-1 
  • Mason, Rachel. "Attu, A Lost Village of the Aleutians." Alaska Park Science, Volume 10, Issue 2
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  • 2:「外地」という概念は共通法上は用いられていなかった。
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  • 1:共通法第1条の規定により、樺太は内地に包含された。
  • 2日本政府の立場では、満洲の独立は地元住民の自発的な意志に依るものであり、中国の行政・領土的保全を約する九カ国条約の遵守と満洲国の承認は矛盾するもので無かった。
  • 3:日本は内蒙古を中国本土とは異なる地域として扱かっていたが、現地の政治権力上は中国内の自治行政区画に留められた。
  • 地方自治の為に設置された組織。現地の意向に関係なく、日本には中央政府へ発展させる意図がなかった。
  • :大東亜会議開催(1943年)以前に消滅した組織。
  • :日本政府から政府承認を受ける前に消滅した組織。